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第6章 1. 指さない針


夜が明けても、港はまだ少し止まっていた。


完全に止まっているわけではない。桟橋の縄は風を受けて軋む。荷車の車輪は石畳を転がる。朝の灯りを入れるために、店の戸板が一枚ずつ外されていく。


それでも、出航板の前だけは音が薄かった。


第三搬送便、再確認。


北東航路郵便船、保留。


旅客小型船、未選択。


札は昨日より増えていた。理由欄に何も書かれていないものがある。日付だけが今日に直され、行き先の欄が空いたままのものもある。黒くない札まで、端から少しずつ影を吸っている。


ダッタは記録板を開いた。


昨夜、アンから置かれた細い針は、板の端に挟んである。なくさないように、ギータが薄い留め具をつけてくれた。留め具の仕事は正確だ。針だけが正確ではない。


どちらの端も同じ形をしている。


方角を指すものなら、どちらかが少しは尖っている。そう思っていた。右へ向けても、左へ向けても、同じ顔をしている。針というより、迷ったまま細く残った金属片だ。


ダッタは板を少し傾けた。針は留め具の中でかすかに動き、すぐ止まる。どこかを指したのではない。ただ、動く場所がそこまでしかない。


「何を見てるの」


声に顔を上げると、アン・ワラーツが出航板の横に立っていた。


昨日と同じ薄い上着。袖口の紐は結ばれているのに、左右の長さが少し違う。気にしていないようで、指先だけがときどきそこへ戻る。


「針です」


ダッタは記録板を見せた。


「昨日、アンさんが置いた」


「置いたね」


「これ、どこも指さないんです」


アンは針を見た。すぐには触らなかった。出航板の前に立つ人たちの間を、朝の風が抜ける。アンの髪が少しだけ頬にかかり、彼女はそれを耳へ戻した。


「まだ決めなくていい、という形もあるんじゃないかな」


「針なのに?」


「針だから、かな」


アンは笑わなかった。


「向きが決まったら、反対側は向かないことになる」


ダッタは記録板の端を押さえた。留め具の下で、針が細く鳴る。


「でも、指さないままだと進めない」


「進まないことで残るものもあるよ」


その言い方は静かだ。責めているわけではない。止めているわけでもない。けれど、出航板の札の白い欄と同じところに置かれた言葉に聞こえた。


ダッタは板を閉じかけて、やめた。


昨日、黒札の上に残った三行。


何も書かなければ、間違えない。


飛ばなければ、落ちない。


選ばなければ、失わない。


アンの声ではなかった。少なくとも、あんなふうには言わない。アンなら、もう少し余白を残す。もしかしたら、と言う。どちらも、と言う。


けれど、最後に足が止まる場所は似ていた。


「全部残したままで」


声が少し詰まる。


「どこかへ行けますか」


アンの指が、袖口の紐から離れた。


朝の港の音が、そこで一度だけ薄くなる。


出航板の札が揺れた。風が吹いたからではなかった。紙の裏側から、まだ書かれていない線が押したように、一枚、また一枚と端が浮く。


アンは出航板ではなく、自分の案内所の方を見た。


扉は閉まっている。


閉まっているはずなのに、中から紙を折る音がした。


「今の」


ダッタが言うと、アンは答えなかった。


出航板の前にいた人たちは、何も気づいていない。荷を戻す相談をしている男。日付欄を指でなぞる女。旅券の端を何度も折る子ども。音が戻ってくるにつれ、その人たちの声も少しずつ戻った。


アンの案内所だけが、まだ朝の中で閉じている。


「入る?」


アンが聞いた。


誘っているというより、選択肢を机の上に置く声だ。


ダッタは記録板の端を握った。


「入ります」


アンは扉へ歩き出した。


その背中を見ながら、ダッタは少しだけ息を吸う。答えが欲しい。針がどこかを指せば、次に見る場所が分かる。黒札が誰のものか、港の停滞がどこから来たのか、自分の船をどちらへ向ければいいのか。


そういうものを、たぶんまだ欲しがっている。


案内所の前で、アンが鍵を出した。鍵穴へ差す前に、彼女の指が一度止まる。


中から、また紙を折る音がした。


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