表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/48

4. 空欄の記録


最初に戻ってきたのは、紙の匂いだった。


古い航路図。


未記入の札。


灯りに温められた机。


それから、床の硬さ。


ダッタは案内所の床に倒れていた。


キールがすぐ横で息を吐く。ギータは片膝をつき、ダッタの記録板を押さえていた。ボイロは観測紙を抱えたまま、机の脚にもたれている。


アンは黒札の前に立っていた。


黒札は、まだ机の上にあった。


中心の白と黒の筋は、完全には戻っていない。黒でも白でもない。紙が疲れたような色をしている。


アンの指先は黒札に触れていなかった。


けれど、黒札の周りには、未記入の札が何枚も置かれている。札と札の間には細い隙間があり、どれも直接触れていない。


ギータがそれを見て、ようやく息を吐いた。


「混ぜなかったんですね」


「何をしていいか分からなかったから、受付の札と同じにした」


アンは言った。


「混ざらないように、間を空けただけ」


「十分です」


ダッタは起き上がろうとして、失敗した。


キールが支える。


「急がなくていいですわ」


「どれくらい」


「長くはありません。けれど、短いとも言いたくありません」


キールらしい答えだった。


ボイロが観測紙を見た。


「黒札の白と黒の反発は止まってます。完全に戻ってはいないです。でも、広がってもいない」


「反発?」


「名前は仮です」


ボイロはすぐに言い直した。


「白い筋と黒い線が押し合う現象。まだ分類しません」


アンがダッタを見た。


「戻った、でいいのかな」


ダッタは答えようとして、黒札を見た。


アンはそれ以上聞かなかった。


黒札の上で、白と黒の筋がまだ細く震えている。


あの声は聞こえない。


でも、言葉は残っていた。


何も書かなければ、間違えない。


飛ばなければ、落ちない。


選ばなければ、失わない。


三行とも、黒札の上に薄く残った。


「分からない」


ダッタは言った。


アンは頷いた。


「そっか」


「あの声」


ダッタは黒札を見た。


「誰の言葉だったんだろう」


アンは答えなかった。ただ、壁に吊られた航路図の中で、一番端の古い紙に目を向けた。それきり、何も言わなかった。


「でも」


その先で、また言葉が止まる。


アンは急かさなかった。


ギータも、キールも、ボイロも急かさなかった。


さっき、案内所の前で立ち止まった時と同じ間が落ちた。


誰も、次の言葉を取らなかった。


ダッタは自分の記録板を見た。


白と黒が押し合った端に、薄いヒビのような線が残っている。卵のヒビと同じ形に見えた。


「選べるとは、まだ言えない」


声はかすれた。


「でも、選ばないまま終わるのは嫌だ」


アンの表情が少しだけ変わった。


袖口の紐を直す手が、一度止まった。


「それは、答えじゃないね」


「うん」


「でも、空欄でもない」


ダッタは記録板を抱え直した。


外では、まだ街が止まっている。


黒札も消えていない。


未選択の札は、案内所の入口に残っているはずだった。


それでも、ダッタの胸の奥で、さっきの音がかすかに残っている。


こつ。


まだ名前のない何かが、内側から叩いている。


ダッタは記録板の白と黒が押し合った端を避けて、残った場所に一行だけ書いた。


選ばないことも、何かを選んでいる。


ペン先が止まる。


それから、もう一行。


まだ、何を基準に選ぶのかは分からない。


最後に、小さく書く。


でも、止まったままではいたくない。


書いた文字は、ほどけなかった。


黒札も消えなかった。


アンは机の引き出しを開けた。


取り出したのは、細い針だった。長さは指の第一関節ほど。どちらの端も同じ形をしていて、どちらが先かが分からない。どこを向いているのかも、分からない。


「まだ向きは決まらないけど」


アンはそれを、ダッタの記録板の端に軽く置いた。


ダッタは受け取らなかった。拾いもしなかった。ただ、針は記録板の上で動かなかった。


アンはそれを見ても、答えを言わなかった。


ただ、案内所の扉を少し開けた。


外の港から、夜風が入る。


風は弱かった。


けれど、止まってはいなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ