4. 空欄の記録
最初に戻ってきたのは、紙の匂いだった。
古い航路図。
未記入の札。
灯りに温められた机。
それから、床の硬さ。
ダッタは案内所の床に倒れていた。
キールがすぐ横で息を吐く。ギータは片膝をつき、ダッタの記録板を押さえていた。ボイロは観測紙を抱えたまま、机の脚にもたれている。
アンは黒札の前に立っていた。
黒札は、まだ机の上にあった。
中心の白と黒の筋は、完全には戻っていない。黒でも白でもない。紙が疲れたような色をしている。
アンの指先は黒札に触れていなかった。
けれど、黒札の周りには、未記入の札が何枚も置かれている。札と札の間には細い隙間があり、どれも直接触れていない。
ギータがそれを見て、ようやく息を吐いた。
「混ぜなかったんですね」
「何をしていいか分からなかったから、受付の札と同じにした」
アンは言った。
「混ざらないように、間を空けただけ」
「十分です」
ダッタは起き上がろうとして、失敗した。
キールが支える。
「急がなくていいですわ」
「どれくらい」
「長くはありません。けれど、短いとも言いたくありません」
キールらしい答えだった。
ボイロが観測紙を見た。
「黒札の白と黒の反発は止まってます。完全に戻ってはいないです。でも、広がってもいない」
「反発?」
「名前は仮です」
ボイロはすぐに言い直した。
「白い筋と黒い線が押し合う現象。まだ分類しません」
アンがダッタを見た。
「戻った、でいいのかな」
ダッタは答えようとして、黒札を見た。
アンはそれ以上聞かなかった。
黒札の上で、白と黒の筋がまだ細く震えている。
あの声は聞こえない。
でも、言葉は残っていた。
何も書かなければ、間違えない。
飛ばなければ、落ちない。
選ばなければ、失わない。
三行とも、黒札の上に薄く残った。
「分からない」
ダッタは言った。
アンは頷いた。
「そっか」
「あの声」
ダッタは黒札を見た。
「誰の言葉だったんだろう」
アンは答えなかった。ただ、壁に吊られた航路図の中で、一番端の古い紙に目を向けた。それきり、何も言わなかった。
「でも」
その先で、また言葉が止まる。
アンは急かさなかった。
ギータも、キールも、ボイロも急かさなかった。
さっき、案内所の前で立ち止まった時と同じ間が落ちた。
誰も、次の言葉を取らなかった。
ダッタは自分の記録板を見た。
白と黒が押し合った端に、薄いヒビのような線が残っている。卵のヒビと同じ形に見えた。
「選べるとは、まだ言えない」
声はかすれた。
「でも、選ばないまま終わるのは嫌だ」
アンの表情が少しだけ変わった。
袖口の紐を直す手が、一度止まった。
「それは、答えじゃないね」
「うん」
「でも、空欄でもない」
ダッタは記録板を抱え直した。
外では、まだ街が止まっている。
黒札も消えていない。
未選択の札は、案内所の入口に残っているはずだった。
それでも、ダッタの胸の奥で、さっきの音がかすかに残っている。
こつ。
まだ名前のない何かが、内側から叩いている。
ダッタは記録板の白と黒が押し合った端を避けて、残った場所に一行だけ書いた。
選ばないことも、何かを選んでいる。
ペン先が止まる。
それから、もう一行。
まだ、何を基準に選ぶのかは分からない。
最後に、小さく書く。
でも、止まったままではいたくない。
書いた文字は、ほどけなかった。
黒札も消えなかった。
アンは机の引き出しを開けた。
取り出したのは、細い針だった。長さは指の第一関節ほど。どちらの端も同じ形をしていて、どちらが先かが分からない。どこを向いているのかも、分からない。
「まだ向きは決まらないけど」
アンはそれを、ダッタの記録板の端に軽く置いた。
ダッタは受け取らなかった。拾いもしなかった。ただ、針は記録板の上で動かなかった。
アンはそれを見ても、答えを言わなかった。
ただ、案内所の扉を少し開けた。
外の港から、夜風が入る。
風は弱かった。
けれど、止まってはいなかった。




