表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/48

3. 濁った卵


操縦室の奥には、炉心室へ続く短い階段があった。


階段の下は暗くない。白かった。黒札の白さより少しだけ濁っている。雨の後の窓ガラスみたいな白さだった。


そこに、丸いものがあった。


部品ではなかった。


石でもなかった。


卵、とすぐに思ったわけではない。ただ、何かがまだ開いていない形をしていた。


大きさは、両腕で抱えるほど。殻は擦りガラスのように白く濁っている。表面には細かい傷があり、古い記録板の消し跡にも似ていた。


その上に、文字が書かれている。


見て。


助けたい。


落ちたくない。


間違えたくない。


同じ文字が何度も重なっていた。子どもの落書きみたいに、曲がった線で書かれている。強く書きすぎて殻に食い込んでいる場所もある。途中で消そうとして、余計に汚れた場所もある。


三人は立ち止まった。


卵の内側で、白い曇りが揺れた。


何、これ、という文字の形だけが浮かび、読まれる前に崩れた。


誰もすぐには答えなかった。


ギータは膝をついた。記録板を卵の横へ置く。板の角が殻に届かないよう、指一本ぶんだけ間を空けた。


キールは壁の声を聞いていた。操縦室からまだ、期待外れ、また落ちる、という声が漏れている。けれど、卵の近くでは少しだけ音が小さい。


ボイロは観測紙を出した。


紙面には、線も文字も出なかった。


「まだ、何とも書けません」


ボイロは小さく言った。


「でも、危険って書くのも違う」


卵の奥で、細い影が震えていた。


針に似ていた。


けれど、どこも指していなかった。


ただ、内側から殻を叩いていた。


こつ。


こつ。


音が鳴るたび、殻の落書きが濃くなる。


触るな。選ぶな。書くな。飛ぶな。


細い影が、殻の内側を押した。


これも、俺?


卵の内側に浮いた文字は、最後の線だけを残して崩れた。


ギータは答えなかった。


キールも答えなかった。


ボイロも答えなかった。


白い世界の壁に、黒い文字が走った。


何も書かなければ、間違えない。


ギータは卵の表面を見た。


落書きの一つが白い筋に押されて、ほどけかけている。


助けたい。


その文字の下に、別の文字が重なっていた。


見て。


キールが息を止めた。


卵の内側に、かすれた文字が浮く。


何度も。


ギータの工房。


キールの窓口。


ボイロの店。


止まっている人を見たら、何とかしたかった。


見てほしい。


役に立つ自分を。


落ちた自分ではない自分を。


誰かに必要とされている自分を。


二つの文字が重なった。


嘘。


全部、嘘。


文字の線が震えた。


見てほしいって思っちゃいけないのかな。


キールが少しだけ目を伏せた。


「私は、両方あること自体は、嘘ではないと思いますわ」


でも。


返事のように、卵の殻へ一文字だけ浮いた。


「でも、どちらで相手の手を引いているのかは、見ないといけない」


キールは目をそらさなかった。


ギータが記録板を指で押さえた。


「見てほしい、と書いたら、助けたい、が消えるわけではありません」


ボイロは観測紙を卵へ近づけた。


紙の端に、二本の線が出た。一本はすぐ消え、もう一本は薄く残る。


「同じ黒に見えますけど、戻り方が違います」


ボイロは紙面を少し傾けた。


「ひとまとめにしたら、どっちが何だったか分からなくなります」


雑って。


卵の内側で、文字の端が少しだけ跳ねた。


「雑です」


ボイロは小さく言い切った。


操縦室の奥から、黒い風が入ってきた。


風ではない。黒札の縁のようなものが、白い床を這ってくる。卵の落書きへ向かって伸びる。


選ばなければ、失わない。


内側の細い影が、殻を押した。


一度だけ。力を込めて。


殻がきしんだ。卵の落書きが白く散った。


ギータが半歩引く。キールが息をのんだ。ボイロの観測紙の端が、白く潰れた。


黒い縁が、少し速くなった。


押した分だけ、縁が速くなる。


卵の奥の細い影が止まった。


黒札の白と黒の境目が、床の上で震える。


飛ばない船は墜ちない。


内側の細い影が止まりかけていた。


止まれば、叩く音も消える。


落ちたくない。


落ちたくない。


落ちたくない。


その瞬間、卵の表面に書かれた落ちたくないの文字が濃くなった。


卵の内側から、細い影が殻へ触れた。


外からは誰も触れていない。


ギータは記録板を押さえたまま、止めなかった。


キールも止めなかった。


ボイロも、危険だとは言わなかった。


濁った殻の内側で、影がもう一度ぶつかる。


こつ。


まだ。


卵の曇りに、短い線が浮いた。


まだ選べない。


まだ分からない。


まだ怖い。


まだ、見てほしい。


まだ、助けたい。


全部が一度に出そうになって、どれも言葉にならないまま、卵の殻を内側から曇らせた。


黒い縁が卵の下まで来る。


選ばなければ。


違う。


殻の内側に、一文字だけ浮いた。


黒い縁は止まらない。


選ばなければ、失わない。


違う。


今度は、線が少し太く残った。


卵の落書きが、内側から押されるように浮いた。


見て。


助けたい。


落ちたくない。


間違えたくない。


どれも消えなかった。


どれもきれいではなかった。


でも、空っぽではなかった。


選べるとは、まだ言えない。


文字は途切れそうだった。


でも、選ばないまま終わるのは嫌だ。


卵の奥で、細い影が強く震えた。


こつ。


次は、もっと低い音がした。


内側から、殻を押す音だった。


白く濁った殻に、小さなヒビが入った。


たった一本。


髪の毛より細い線だった。


そこから何かが出てくることはなかった。光もあふれない。獣の声もしない。名前も分からない。


ただ、ヒビの奥で細い影が一度だけ傾いた。


どこを指したのかは分からない。


けれど、さっきまでのように空回りはしていなかった。


黒い縁が止まる。


操縦室の無数の操縦桿が、一斉に鳴る。


期待外れ。


また落ちる。


見られている。


必要とされない。


声は消えなかった。


でも、少し遠くなった。


ギータが記録板を拾う。


「戻り道は」


言いかけて、止まった。


操縦室の扉が消えていた。さっきまで階段だった場所も、白い床に戻っている。外へ続くはずの甲板は、紙を何枚も重ねたようにめくれ、どの層も同じ白さをしていた。


キールが息を詰める。


「出口の音がしませんわ」


ボイロは観測紙を折ろうとして、折れなかった。紙の端が白黒の細い筋に引っ張られている。


そこには、薄い文字が残っていた。


未検証。


その下に、もう一行。


停止ではない。


ヒビは消えなかった。


その時、白い床の上に四角い影が一枚置かれた。


未記入の札だった。


続けて、もう一枚。


少し離して、もう一枚。


誰かが外側で、札を並べている。


黒にも白にも触れさせないように、細い隙間を空けて。


ギータはその隙間を見た。


「混ぜないための置き方です」


答えはなかった。


けれど、未記入の札は足場のように操縦室の奥へ続いていく。完璧な道ではない。踏む前から薄く沈み、白黒の筋が端から食い込んでいる。


キールが耳を澄ませた。


「札の間だけ、音が切れていますわ」


ボイロは観測紙を見た。紙面の端に、細い線が一本残っている。


「白と黒が触れてないところだけ、残ってます」


それでも、今ある唯一の戻り方だった。


ギータは記録板を抱え直した。


「一枚ずつ」


キールが頷く。


「急ぐのではなく、離れないように」


ボイロは観測紙を胸に押さえた。


最後の札へ足を置いた時、卵のヒビがもう一度だけ鳴った。


こつ。


白い世界が折りたたまれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ