2. 止まった操縦室
風がなかった。
空はあった。
雲もあった。
ギータは甲板に膝をついていた。
けれど、何も動いていなかった。
右にキールがいる。少し離れて、ボイロが白い紙を握っている。
それだけ確認してから、ギータは息を止めた。
ダッタがいない。
甲板は自分の船ではない。けれど、ダッタの飛行船に似ていた。木目は記録板の罫線のようにまっすぐで、帆は紙でできているように薄い。空の色は白い。夜でも昼でもない。黒札の白と黒がねじれた時の、重い白さだった。
遠くに、墜落した飛行船が見えた。
森の中ではない。雲の上に、壊れた船体が横たわっている。折れた翼。ひしゃげた手すり。赤い警告灯。墜落した日の船と、今の修理途中の船が混ざっている。
「ここは」
キールの声だった。
「ダッタさんは」
「いません」
ギータが言った。
言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づく。
ボイロが周囲を見回した。
「じゃあ、ここはどこですか」
「分かりません」
ギータは床の罫線に指を置いた。触れた場所から白い粉が浮き、黒い細線が指の周りを避けて通る。
「でも、ダッタさんの記録に似ています」
キールが足元を見る。
「声がしますわ」
「声?」
「遠いです。誰かが話しているというより、書いたものが読み上げられているみたい」
甲板の奥で、かすかな音がした。
ごめん。
いや、違う。
大丈夫。
大丈夫じゃない。
声は一つにまとまらなかった。
甲板の床がきしんだ。
助けたい。
文字が床に浮いた。
見て。
別の文字が、帆に薄く現れる。
落ちたくない。
間違えたくない。
白い世界に、子どもの落書きみたいな線が増えていく。字は荒い。大きさもそろっていない。誰かに見せるための記録ではない。書いてすぐ隠したかった言葉に見えた。
ボイロが一歩近づき、指先を伸ばした。
消えない。
触れた場所から、細い警告音が鳴った。
操縦室の扉が開いた。
開いたというより、閉じていなかったことに気づいた。
中には、操縦桿が無数にあった。
一本ではない。右にも左にも、天井からも床からも伸びている。細いもの、太いもの、古いもの、新しいもの。どれも握れる高さにある。どれも、握れば何かが動きそうだった。
でも、どれも行き先を示していない。
正面の計器盤には、針がない。
羅針盤の丸い窓だけがある。中は白く濁っている。
三人が一歩入った。
警告音が鳴る。
遅い。
無理。
見られている。
また落ちる。
期待外れ。
声が重なる。誰の声か分からない。知っている声にも聞こえる。知らない声にも聞こえる。自分の声にも聞こえる。
キールが耳を押さえた。
「なんなんですの、これ」
キールは少し遅れて、操縦桿の方を見た。
「一つじゃありませんわね」
キールが言うと、ボイロは計器盤へ近づいた。
「警告の形をしてるだけです」
「どういうことですの」
「まだ読めません。読めないのに、危険って決めるのは早い」
ボイロはそう言ってから、自分の言葉に少しだけ驚いた顔をした。観測紙を広げる。白い紙面に、今度は薄い線が一本だけ残った。
未検証。
その文字は消えなかった。
ギータは操縦室の隅に落ちている記録板を拾った。
板は古かった。角が欠け、表面には何度も消した跡がある。ギータが触れると、操縦室の壁が薄く透けた。
小さなダッタがいた。
今よりずっと幼い。港の裏手の細い通路に立っている。雨上がりで、石畳が濡れていた。少し先で、年下の子どもが荷車の下に手を伸ばしている。転がった小さな部品を拾おうとしているらしい。
荷車の持ち主は気づいていない。
車輪が動きそうになった。
小さなダッタは声を出そうとした。
出ない。
助けたい。
でも、もし間違っていたら。もし大げさだったら。もしみんなに見られたら。
その一瞬の遅れの間に、近くの大人が子どもを引き寄せた。車輪は何も踏まなかった。誰も大怪我はしなかった。
けれど、大人の声が残った。
「ぼうっと立ってるだけなら、下がってなさい」
小さなダッタは頷いた。
助けたかった、とは言わなかった。
ギータは記録板を伏せた。
「何もしていない、という記録ではありません」
記録板の裏に、細い文字が浮いた。
何もできなかった。
「声を出せなかった、です」
同じだろ。
「同じにしたいなら、同じにできます」
ギータの声は静かだった。
「でも、それだと次に見る場所が消えます」
記録板の文字は、そこで白くかすれた。
キールが操縦桿の一つに触れた。
今度は、別の景色が壁に浮いた。
通信所のような場所。まだ旅に出る前のダッタが、同年代の少年に話しかけている。少年は手紙を握っていた。返事が来なかったらしい。ダッタは笑って言う。
「大丈夫だって。そんなの、こっちからもう一回送ればいいじゃん」
少年は笑わなかった。
「お前はいいよな」
そう言って、手紙を折った。
何が悪かったのか分からないまま、少年は離れていく。ダッタは追いかけなかった。追いかけられなかった。背中が遠ざかるたびに、胸の中で同じ言葉が増える。
また間違えた。
また余計なことを言った。
何か言えば壊れる。
何も言わなければ、少なくとも壊したのは自分ではない。
キールは操縦桿から手を離した。
「今の声、相手だけのものに聞こえませんでした」
「どういう意味ですか」
「あの人は、そこまで言っていませんわ」
キールは遠ざかる背中を見た。
操縦桿が少しだけ震えた。
ボイロは計器盤の下へしゃがんだ。そこには、小さな丸い計器がいくつも並んでいる。どれも赤い。どれも同じ音で鳴っている。
ボイロが一つに触れた。
赤い光が、初飛行の日へ変わる。
操縦席。
新しい船。
見上げる人たち。
胸の奥で膨らむ何か。
戻れ、という警告。
おお、と聞き替えた声。
見てほしい。
うまく飛んでいるところを。
落ちた自分ではなく、飛べる自分を。
「これ」
ボイロの声が小さくなった。
「警告音じゃなくて、聞き間違えた記録が混ざってる」
分かってる。
計器盤の奥の空欄に、かすれた文字が浮いた。
分かってるよ。
分かっているなら、なぜまた胸が痛いのか。
分かっているなら、なぜまだ言い訳したくなるのか。
黒いもの。
あの声。
黒札。
その三つの文字が、計器盤の上で薄く並んだ。
けれど、全部が自分のせいでなくても、操縦桿を戻すのが遅れた手は自分の手だった。
無数の操縦桿が、同時に小さく震えた。
どれも握れない。
握ろうとした瞬間、赤い灯りが一斉に強くなる。
俺は。
声は途中で切れた。
見てほしい。
助けたい。
落ちたくない。
間違えたくない。
その四つが、操縦室の壁に何度も重なる。どれが本当か分からない。どれも本当だから、余計に分からない。
操縦室の奥で、かすかな音がした。
警告音ではなかった。
こつ、と何かが内側から叩く音だった。




