表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/54

第5章 1. ほどける黒札


扉が少し開いていた。


内側に灯りが一つあった。


足が先に動いた。


考えた、という感じがしなかった。敷居の木が足の下で鳴った。紙と油の混ざった匂いが、外の夜よりわずかに濃かった。


アン・ワラーツの航路案内所は、外から見た時より奥行きがあった。


壁には折りたたまれた航路図が何枚も吊られている。近い港へ向かう短い線。風待ちを挟む遠回りの線。途中で荷を減らす線。古い案内灯を経由する線。どれも使えるように見えた。どれも、今すぐ選ばなくても残しておけるように見えた。


机の上には小さな秤がある。片方の皿には未記入の札。もう片方には黒札が一枚置かれていた。


さっきまで、案内所の前に半円を作っていた黒札のうち、アンが触れなかった札だ。


未選択。


その文字は、灯りを当てると沈む。沈んだ後に、白い紙の奥へ残る。消えたわけではない。隠れただけだ。


ダッタはそれを見ていた。


「これが、街に増えてる」


声が思ったより小さくなった。


ギータは黒札を直接触らず、机の端に置かれた薄い金属板を少し動かした。黒札と航路図の間に板が挟まる。混ざる場所を減らす手つきだった。


キールはダッタの斜め後ろで、袖口を指で押さえていた。ダッタが机へ手を伸ばすたび、目だけが少し動く。


ボイロは観測紙を出した。ペン先は紙に触れたり離れたりして、一文字目の跡だけが薄く残っている。


アンは椅子に座らなかった。案内所の奥で、航路図の紐を一つずつ直している。逃げているようにも、ただ整えているようにも見えた。


「前にも見たことがあるって言ったよね」


ダッタが聞くと、アンは紐を結び直した。


「似た紙は見た」


「どこで」


アンは机の端に積まれた札を一枚抜いた。まだ何も書かれていない白い札だ。黒札の隣には置かず、少し離したところへ滑らせる。


「港の札箱。旅支度店の入口。あと、ここへ持ち込まれた出航届の束」


ボイロが眉を寄せた。


「同じものですか」


「まだ同じ棚には入れない」


アンは黒札ではなく、札を分けた自分の指先を見た。


「場所だけ同じでも、出方が違う。触った人も、置かれていた札も違う。まとめると、後で戻せなくなる」


ダッタの指が記録板の角を押した。


「でも、決めないと何も分からない」


「分からないまま棚に戻す人は多いよ」


アンは黒札へ灯りを近づけた。


「出さなかった船は落ちない。返さなかった手紙は断られない。行き先を書かなかった札は、間違った場所へは行かない」


飛ばなければ、落ちない。


ダッタは黒札を見た。


「今、何か言ったか」


アンの手が、灯りのつまみで止まった。


「私は、札の話をしただけ」


キールが袖口から指を離す。


「ダッタさん?」


赤い灯り。


戻れ、という警告。


おお、と聞き違えた声。


操縦桿を戻すのが遅れた手。


飛ばなければ、落ちなかった。


「それじゃ、何も進まない」


ダッタは言った。


アンは未記入の札を一枚、元の束のそばへ引き寄せた。端をそろえ、親指で角を押さえる。


「出さなかった船は、落ちないからね」


飛ばなければ、落ちない。


ダッタの指が記録板を強く押した。


「それで、いいって言うのか」


「いいかどうかは、ここでは書かない」


アンは未記入の札を束へ戻した。


ギータの手が、机の端で止まった。


キールは目を伏せた。


ボイロの観測紙の端が、わずかに黒くにじむ。


ダッタはアンを見た。


「それ、いいことみたいに言うんだ」


アンは少しだけ目を細めた。


「ただ、そういう札を持ってくる人はいる。ここにも」


ダッタは言い返そうとした。


その時、黒札の文字が沈んだ。


黒が薄くなったのではなかった。白く消えたのでもなかった。文字の下から白い筋が浮き、黒い線とぶつかって、紙の中でねじれた。混ざろうとして、混ざれない。未選択の三文字が、黒い糸と白い粉にほどけていく。


ボイロが息をのむ。


「色が、ほどけてる」


「違います」


ギータが言った。


「抜けているのに、混ざっていません」


白い場所は、きれいではなかった。


何も書かれていない紙は、普通なら空いているだけだ。けれどそこに浮いた白は、黒い文字を押し返しながら残っている。空白なのに、書いたものより重い。


ダッタの記録板が熱を持つ。


書いた覚えのある文字が、板の端で薄く浮いた。


未確認。


保留。


飛ばなければ、落ちない。


白い筋と黒い糸の間から、声がした。


何も書かなければ、間違えない。


ダッタだけが顔を上げた。


「今」


キールがすぐにダッタを見た。


「何か聞こえましたの?」


ダッタは黒札を見た。白と黒の境目が、細かく震えている。紙なのに、息を合わせられないもの同士が、同じ場所で押し合っているみたいだった。


飛ばなければ、落ちない。


声は低かった。耳からではない。記録板を握る手の骨から入ってくる。


選ばなければ、失わない。


「誰だ」


飛ばなければ、落ちない。


「……やめろ」


アンが黒札から灯りを離した。


「誰に言った?」


「分からない」


分からない、と言った瞬間、白と黒の筋が広がった。


黒札の縁から、黒い糸と白い粉が机の木目へ流れた。木目が一瞬だけ紙の繊維みたいに見える。未記入の札が震える。航路図の線が薄くなり、別の線がその下から浮こうとして、途中で潰れた。


ギータが金属板を押さえた。


「離れてください」


ボイロが観測紙を畳もうとして、手を止める。


キールがダッタの腕に触れようとした。


白と黒の筋が、ダッタの記録板へ走った。


記録板の端に白い筋が浮き、黒い細線がその周りを縫う。書いた文字が消えるのではなく、書かれていなかった欄が急に広がる。そこに、黒札と同じ重い白さが入り込む。


ダッタは息を吸えなかった。


今日見たこと。


自分がしたこと。


なぜ飛びたいのか。


誰のために助けたいのか。


行き先。


責任者名。


未確認のまま置いた理由。


欄の名前だけが浮かび、どの下にも文字が入らない。


書かなければ。


間違えない。


選ばなければ。


失わない。


飛ばなければ。


落ちない。


記録板を押さえる指から、力が抜けた。


ギータの記録。


キールの言葉。


ボイロの紙の鳥。


落ちた瞬間の音。


飛ばなければ。


黒札の白と黒の境目が裂けた。


紙が破れる音ではなかった。


空欄が開く音だった。


ダッタの胸の奥で、何かが落ちる。


膝から力が抜けた。


「ダッタさん」


キールが腕を取った。支えるには間に合ったが、ダッタの身体はもう自分の重さをなくしていた。


ギータが記録板を押さえる。白と黒の筋が板の端でほどけ、ギータの手袋の縫い目に沿って走った。


ボイロの観測紙が床へ落ちた。紙面に何かが浮かびかけ、すぐに白く潰れる。


アンだけが、黒札から目を離せなかった。


「待って。これ、まだ机の上にある」


アンの声が少し遅れて届いた。


「倒れてるのに、紙が動いてる」


その言葉を聞いたところで、床が遠くなった。


ダッタの意識は、白と黒の裂け目の中へ落ちた。


ギータの手袋の縫い目に、白い線が走った。


キールの指先から、袖口の先まで冷えた。


ボイロの観測紙が、音もなく床から浮いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ