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6. アンへの接続


夜の港は、昼よりも黒札が目立った。


人が少ないからではない。灯りが少ないからでもない。黒札は、暗い場所ではなく、灯りのある場所に集まっていた。


出航届を書く台。


荷を量る秤。


航路図を留める釘。


旅支度店の入口に置かれた空の箱。


そこに、一枚ずつ黒い紙が挟まっている。


ギータは箱を抱えている。ボイロは観測紙を持っている。キールはダッタの少し横を歩く。近すぎない。けれど、ダッタが足を止めると、同じだけ止まる。


「歩けますの?」


キールが聞いた。


「うん」


「今、私の顔を見て答えましたわね」


「見た」


「では、続けてください」


それは冗談に近かった。けれど、冗談だけではなかった。


ダッタは頷いた。


航路案内所の前には、未記入の出航届が束になっていた。誰かが書きかけて、途中でやめたものもある。行き先の欄だけが空白の紙。荷を減らす欄だけが何度も書き直された紙。出航日を今日から明日へ、明日から空欄へ直した紙。


その上に、黒札が半円を作っている。


保留。


見送り。


再検討。


灯りを近づけると、文字は沈む。沈んだ後、別の札の端に、薄く浮かぶ。


未選択。


ダッタはその札を見た。


選んでいない。


選べていない。


選ばずに済ませている。


どれが正しいのか、分からない。


案内所の中から、紙を折る音がした。


扉の隙間に灯りが増える。


「夜にここまで来る人は、急いでいる人か、決めたくない人が多い」


柔らかい声だった。


扉が開いた。


中に立っていたのは、背の高い男だった。ダッタより年上に見える。髪は後ろで緩く結ばれ、袖口には旅支度店の細い紐が巻かれている。机の上には、折られた航路図と、小さな秤と、未記入の札が並んでいた。


入口の札には、アン・ワラーツ、と書かれている。


アンは黒札を見下ろした。


驚いた顔はしなかった。


そのことに、ダッタの方が少し驚いた。アンの視線は黒札の上で止まり、それから机の上の折られた航路図へ、一度だけ逃げた。初めて見るものを見る目ではなかった。けれど、よく知っているものを見る目でもなかった。


「これを知ってる?」


ダッタが聞くと、アンは黒札へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。触らない。指先は札の上で少しだけ迷い、やがて袖口の紐を直した。


「知っている、と言うと、知りすぎている気がする」


「知らない?」


「知らない、と言うと、見なかったことにしすぎる」


ボイロが小さく息を吸った。どっちですか、と言いたそうな顔だった。けれど、言わなかった。


アンは袖口の紐をもう一度直した。


「昔、似たような紙を見た気がする。でも、同じだと決めるには、まだ早いかな」


アンはダッタを見た。


「君たちは、これを消しに来た?」


「止めたい」


ダッタは言った。


「街が止まってる。船が出ない。記録も黒くなる。僕も」


そこで言葉が詰まる。


僕も、止まる方が楽だと思った。


それを言うのは怖かった。


でも、言わないでいると、黒札の方が先に言いそうだった。


「飛ばなければ、落ちないって思った」


アンは急かさなかった。


ギータも、キールも、ボイロも黙っていた。


黒札の半円の中で、未選択の札だけが少し濃くなる。


アンはそれを見て、静かに言った。


「選ばないで済むなら、楽な日もあるよね」


ダッタの胸の奥で、何かが小さく鳴った。


黒札の音ではない。


調律針の音にも似ている。けれど、もっと小さい。まだ、どちらへ向くか決めていない針の音だった。


「でも」


ダッタは言った。


言っただけで、その先が出てこない。


アンは頷いた。


「うん。でも、があるなら、そこから聞いた方がいい」


案内所の中で、吊られた航路図が揺れた。近い港へ向かう線。遠回りの線。途中で風を待つ線。荷を減らして進む線。どれも薄い。どれも消えてはいない。


アンは扉を少し開けた。


「入る? それとも、今日は扉の前で止まる?」


その問いは、責める言葉ではなかった。


けれど、逃がしてくれる言葉でもなかった。


ダッタは黒札を見た。


未選択。


それから、自分の記録板を見た。


僕が飛ばなければ、落ちない。


その下に、さっき書いた二行がある。


飛ばないなら、何を守れるのか。


飛ぶなら、何を選ぶのか。


黒札は消えなかった。


街も、まだ動き出さなかった。


けれど、未選択の札の端が、ほんの少しだけ白くめくれた。


アンはそれを見ても、答えを言わなかった。


ただ、案内所の奥の灯りを一つ増やした。


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