5. 街の声が内側に入る
夜、ダッタは工房の床に座っていた。
ギータは作業台の向こうで工具を片づけている。いつもならもう終わっているはずの作業を、まだ続けていた。
キールは通信照合所へ戻った。ボイロも店へ戻った。誰も、ずっとそばにはいない。
それでいい。
見張られているわけではない。
そう思ったのに、手元の記録板は開いたままだった。閉じようとすると、紙の内側に黒い言葉を置き去りにする気がした。開いたままだと、ギータに見られる。
見られたくない。
けれど、ギータが奥へ消えたら、もっと嫌だった。
ダッタは昼の行を見た。
誰も責めない。
その文字は、港で聞いた言葉だった。
けれど、今読むと、別の意味に見える。
誰も責めないなら、責めるのは自分でいい。
そう読めた。
ダッタは目をこすった。
違う。
そんなことは書いていない。
次の行。
落ちたら困る。
港の客が言った。弟の船を待っていた客だ。弟のことを書き足した。北東雲路。返答待ち。待っている人。
それでも、最初に目に入るのは、落ちたら困る、だった。
落ちたら困る。
また落ちたら困る。
また落ちたら、今度は。
そこから先が、紙の白い場所に広がっていく。
ダッタはペンを持った。
あの時、判断が遅れた。
これは書ける。書いた。
事実だ。
操縦桿を戻すのが遅れた。
これも書ける。書いた。字が少し太くなった。
見られたい気持ちが、混ざっていた。
これも、たぶん書ける。
たぶん、で止まった。ペン先だけが紙に触れ続け、黒い点が大きくなる。
そこで、工房の奥から小さな音がした。ギータが工具を置いた音だ。
「続けるなら、事実を分けてください」
ギータは背を向けたまま言った。
「分けてる」
「なら、今書いた三行の間に、風向きと船体の状態を入れてください」
ダッタは返事をしなかった。
風向き。
船体の状態。
通信の途切れ。
警告音。
操縦桿。
見栄。
並べるべきものはある。
でも、今は一つにしたかった。
僕が落とした。
そう書けば、全部がまとまる気がした。気持ち悪いくらい、楽になる気がした。
まとまる。片づく。次に進める。
次に進めるなら、飛べる。
飛べる、と思った瞬間、胸の奥が軽くなった。その軽さが怖かった。
ペン先が紙に触れる。
僕が。
そこでギータの手が、記録板の端を押さえた。
「一行で終わらせないでください」
ダッタは顔を上げた。
ギータの目は怒っていなかった。けれど、眠そうでもなかった。
「終わらせたいですか」
その問いは、黒札より鋭かった。
ダッタは口を開いた。
「終わらせたいわけじゃない」
言ってから、違うと思った。
少しは、終わらせたい。
落ちた自分を終わらせたい。墜落の日の赤い灯りを終わらせたい。警告音を歓声に聞いた自分を、記録の中で一つの失敗に閉じ込めたい。
閉じ込めれば、次へ行ける気がする。
でも、それは次へ行くことなのか。
「早く飛ばしたい」
声に出ていた。
言ってしまってから、喉が狭くなる。飛ばしたい。まだそう思っている。港であれだけの言葉を聞いても、黒札が増えても、落ちた日の警告音を思い出しても、そこだけが消えない。
消えないことが、嫌だった。
ギータは手を離さなかった。
「はい」
「でも、早く飛ばしたいの中に、いろいろ混ざってる」
「はい」
「落ちた自分を消したい。直したって言いたい。もう一度、空に出たい」
そこで息が切れた。
「でも、飛ばなければ落ちない、とも思う」
言葉にすると、腹の奥が冷えた。
「思ってしまう」
ダッタはペンを握り直した。指が痛い。
「ギータの番号札も、キールの聞き方も、ボイロの紙の鳥も、持って飛んだらどうなるか知りたいのに」
言葉がそこで切れた。
ギータは頷かなかった。ただ、聞いていた。
聞かれていると、次の言葉が出にくい。けれど、出ないわけではなかった。
「でも、港の人が言う。落ちたら終わりだって。急いで落ちても困るって。人が傷むよりいいって」
ダッタは自分の記録板を見た。
「間違ってない」
「はい」
「間違ってないから、消せない」
ギータは少しだけ目を伏せた。
「消さなくていいです」
「じゃあ」
「並べてください」
また、それだった。
並べる。
一つにしない。
ダッタはペンを握った。
誰も責めない。
港の言葉。
弟を待つ客。
落ちたら困る。
僕の記憶。
早く飛ばしたい。
落ちた自分を消したい。
もう一度、違う手で飛んでみたい。
そこまで書いた時、黒札の箱が、かたりと鳴った。
ギータの手が止まる。
ダッタは箱を見た。
箱の蓋は閉まっている。鍵はかかっていない。もともと、そこまでしなかった。ただの紙だと思っていたから。
箱の隙間から、黒札の端が少しだけ見えた。
黒札は動かない。
動かないのに、こちらを見ているように感じた。
扉が叩かれた。
「ギータさん」
キールの声だった。
続いて、少し遅れてボイロの声がする。
「すみません。観測紙が」
ギータは扉を開けた。
キールは通信照合所の外套を着たまま立っていた。ボイロは薄い紙束を胸に抱えている。二人とも、約束して来た顔ではなかった。別々の場所から、同じ灯りを見つけて来た顔だった。
「工房の灯りがまだ点いていましたの」
キールが言う。
「それと、通信照合所の保留札が一枚、黒くなりました。書かれていた言葉が」
「何」
ダッタが聞くと、キールは少しだけ言いにくそうにした。
「返さなくても、失わない」
キールの声が小さくなる。
「窓口の言葉ではありませんわ」
ボイロも紙束を開いた。
「うちの観測紙は、黒札そのものより、ダッタさんの書いた写しの近くで濃くなります。特に、同じ言葉が二回出るところ」
「同じ言葉」
「落ちる、終わる、飛ばない」
ボイロは一つずつ言った。
そのたびに、ダッタの記録板の端が重くなる。
ギータが箱を机の中央へ置いた。
「黒札は一枚です」
「うちの紙片も一つです」
ボイロが言う。
「でも、黒い場所は増えています」
キールはダッタを見た。
「ダッタさん」
「分かってる」
言ってから、キールが前にも同じ問いをしたことを思い出した。
何を。
キールは今回も同じように聞いた。
「何を、ですの?」
ダッタは答えられなかった。
分かっている。
自分が落としたこと。
見栄があったこと。
早く飛びたいこと。
街の言葉に引っ張られていること。
でも、何をどう分かっているのかは、分からない。
箱の中で、黒札が一枚、ゆっくりと立った。
立った、ように見えた。
実際には、蓋の隙間から角が少し浮いただけかもしれない。けれど、その角に黒い文字が集まる。
飛ばなければ。
そこまで読めた気がした。
ダッタは息を止めた。
飛ばなければ、落ちない。
その続きは、誰かが言ったのではない。
自分の中から出た。
胸の奥で、初飛行の日の警告音が鳴る。戻れ。戻れ。けれど、どこへ戻ればいいのか分からない。落ちる前へ戻ることはできない。落ちた後を消すこともできない。
なら、飛ばなければいい。
そうすれば、もう落ちない。
ペン先が紙に触れる。
僕が飛ばなければ、落ちない。
書いた瞬間、黒札の端から細い黒が伸びた。虫ではない。まだ虫にはならない。ただ、文字の周りに影が集まり、紙の白い場所を狭くしていく。
ギータが記録板を押さえた。
「そこだけで終わらせないでください」
キールが一歩近づく。
「今、私たちの顔を見てください」
ボイロは観測紙を握ったまま、何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
ダッタは顔を上げた。
ギータの手。キールの目。ボイロの紙束。
三人とも、答えを持っている顔ではなかった。
止め方を知っている顔でもない。
ただ、見ていた。
自分の記録だけで終わらせないように、そこにいた。
ダッタは息を吸った。
「飛ばないなら」
声がかすれた。
「何を守れるのか」
黒い影の伸びが止まる。
「飛ぶなら」
続きは、すぐには出なかった。
ギータもキールもボイロも、急かさなかった。
「何を選ぶのか」
言った瞬間、黒札が箱の中で倒れた。
消えたわけではない。
白くなったわけでもない。
ただ、床へ落ちる前に、向きを変えた。
黒札の角は、工房の窓の外を向いている。
港の奥。
出航板よりさらに向こう。船具店の並びを越えた、古い案内灯のある場所。




