4. 視界が狭くなる
翌朝、港の音はさらに低くなっていた。
出航板の前には人がいる。人はいるのに、列が伸びない。誰かが文句を言いかけ、途中でやめる。別の誰かが「仕方ない」と言う。その言葉に、周りの肩が少しだけ下がる。
「また裏返った」
「理由は」
「空欄」
「じゃあ待ちだ」
それだけで、荷車の向きが変わる。係の男は新しい説明を足さない。待つ側も、それ以上は聞かない。
仕方ない。
昨日より、その言葉をよく聞く。
ダッタは記録板を開いた。
仕方ない。
無理に出ない。
落ちたら困る。
今日でなくてもいい。
文字が増える。人の顔は増えない。
それに気づいたのは、少し遅れてからだった。
朝一番に見た船主は、帽子の羽根が折れていた。修理依頼を取り下げた女は、手首に青い紐を巻いていた。通信返答を待つ青年は、何度も靴先で石を蹴っていた。
見ていたはずだ。
でも記録に残っているのは言葉だけだった。
「今日は出ない方がいい」
「壊れてからじゃ遅い」
「誰も責めないよ」
誰も責めない。
ダッタはその言葉を二度書いた。
二度目の字は、一度目より濃くなった。
昼前、港の端でキールと行き合った。
「また、出航板を見ていますのね」
「ごめん。通信照合所には後で」
「通信照合所の用ではありません」
キールはそう言って、ダッタの前に立った。真正面に立たれると、出航板が見えない。
ダッタは少し横へ動こうとして、キールの目に気づいた。
「何?」
「今、私の後ろを見ようとしましたわね」
「出航板を」
「はい」
キールは頷いた。
「私は、ここにいます」
その言葉は静かだった。責める音はない。だから余計に、ダッタの胸に落ちた。
「見てる」
「今は」
ダッタは返事をしなかった。
キールの視線が、ダッタの手元で止まった。
「その紙袋、朝から持っていますの?」
ダッタは自分の手を見た。工房を出る時、ギータに渡された紙袋が、まだ開かないまま握られている。
「忘れてた」
「でしょうね」
ダッタは少し笑った。笑ったつもりだった。けれど、キールは笑わなかった。
「今の笑い方、半分ですわ」
「半分?」
「口だけです」
ダッタは顔に手を当てた。
自分がどんな顔をしているか、分からなかった。
「キールは、よく見るね」
「見る仕事ですもの」
キールは言った。
「言葉が届いたか、届いていないか。相手が待てる状態か、もう待てない状態か。窓口では、それを見ないといけません」
ダッタは紙袋を持ったまま、出航板を見た。
キールが少しだけ黙る。
「今の話も、半分だけ聞きましたわね」
ダッタは言い返せなかった。
本当に半分だった。キールの声を聞きながら、黒札が増えた札箱の位置を見ていた。今日はまだ二枚しか回収していない。北側の掲示板も見ていない。修理依頼箱の底も確認していない。
「ごめん」
「謝ってほしいのではありません」
「じゃあ」
「一度、こちらを見てください」
その言葉が、ふいに強く聞こえた。
こちら。
どこを見ていたのか、そこで初めて分からなくなる。
キールはすぐに言葉を足した。
「今、話している相手です」
ダッタはパンを一口かじった。
固い。
噛む音が、少しだけ自分を戻した。
「食べた」
「全部です」
「厳しい」
「窓口よりは、ゆるいですわ」
それは少しだけ冗談だった。
ダッタは今度はちゃんと笑えたと思った。キールも、少しだけ目を細めた。
けれど、背後で出航板の札が一枚裏返る音がした瞬間、ダッタの視線はそちらへ跳ねた。
キールの目が、その動きを追った。
昼過ぎ、ボイロの店に寄ると、観測紙の端が黒くなっていた。
「増えてる」
ダッタが言うと、ボイロは首を振った。
「紙片は増えてません。黒い場所が移りました」
「移る?」
「昨日は戻り板の空欄。今日は、あなたが書いた『誰も責めない』の写しの近くです」
ダッタは記録板を閉じた。
ボイロは観測紙ではなく、閉じられた記録板を見た。いつものボイロなら、すぐに「見せてください」と言ったかもしれない。けれど、今日は言わなかった。紙の端を押さえたまま、言葉を選ぶように少し黙る。
「見せてください、とは言いません」
「見たいんじゃないの」
「見たいです」
ボイロは正直に言った。
「でも、見たいから見せてください、は違う気がします。関係ないとは言えません。だから今は、僕が勝手に近づけていいものじゃない気がします」
ダッタは記録板を握る手に力が入った。
違う。
その言葉が、今日は何度も出てくる。
「僕も、まだ違いが分からない」
「何のですか」
「見た方がいいものと、見ない方がいいもの」
ボイロは観測紙を伏せた。
「僕は、見た方がいいと思うことが多いです」
「うん」
「でも、昨日、戻り板を見ていないのに、見たつもりでした」
ボイロは自分の手元を見た。
「見ている場所が狭いと、見ているのに見ていないことがあります」
それから、伏せた観測紙の角を指で押さえた。
「黒い紙の方を見れば分かる、と思いたくなります。でも今は、黒い紙だけ見ていたら外す気がします」
それはボイロ自身の話だった。
けれど、ダッタの記録板にも当たった。
夕方、工房に戻ると、ギータは黒札の箱を見なかった。
ダッタの記録板だけを見た。
「字が濃いです」
「墨を替えた」
「替えていません」
ギータはすぐに言った。
ダッタは黙った。
ギータは記録板を机に置き、指で一行ずつ追った。
誰も責めない。
落ちたら困る。
今日でなくてもいい。
飛ばさなければ、壊れない。
「これは、誰の言葉ですか」
「港で聞いた」
「最後も?」
ダッタは答えられなかった。
飛ばさなければ、壊れない。
誰かが言った気もする。自分で書いた気もする。港の男の声にも、女の声にも、自分の声にも似ている。
ギータはペンを置いた。
「今日は、ここまでです」
「まだ」
「いいえ」
ギータの声は静かだった。静かなのに、作業台の番号札が一つも揺れなかった。つまり、決めている声だった。
「あなたは今、札を集めています。でも、札を読んでいるのか、札に読まれているのかが分かりません」
ダッタは顔を上げた。
ギータは少しだけ言いすぎたと思ったのか、唇を閉じた。
でも、言葉はもう出ていた。
札に読まれている。
ダッタは黒札の箱を見た。
箱は開いていない。
それなのに、記録板の端が少し重かった。




