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3. 別々の違和感


その日の夕方、通信照合所の前で、キールが客に頭を下げていた。


「返答はまだ届いておりませんわ」


「昨日もそう言った」


「はい。昨日も同じでした」


「じゃあ今日も同じか」


客は怒鳴らなかった。苛立ってはいる。けれど、途中で声を落とした。


「まあ、急いで落ちても困るしな」


キールの目が、ほんの少し動いた。


ダッタは階段の下で、その言葉を聞いた。


急いで落ちても困る。


まただ、と思った。港のあちこちで、同じ形の言葉を聞く。無理に出ても。落ちたら終わり。人が傷むよりいい。急いで落ちても困る。どれも違う人の声なのに、同じ場所へ降りていく。


「ダッタさん」


キールが客を見送ってから、階段を下りてきた。


「来ていたんですのね」


「うん。通信塔の返答欄にも黒い札があるか見に来た」


「黒い札」


キールの声は少し低くなった。けれど、彼女はすぐに札箱の方を見なかった。


「その話は、あとでもできますわ」


「あと?」


「先に、ダッタさんです」


ダッタは記録板を開いた。通信塔ごとの返答時刻、保留欄、出航板の札。書くことは増えている。増えているのに、まだ何もつかめない。


キールは記録板ではなく、ダッタの顔を見ていた。


「今日は、どこを回りましたの?」


「港。工房。ボイロの店。修理依頼の箱。あと、北側の掲示板」


「食事は」


「ギータに食べさせられた」


「それは良かったですわ」


キールは少し笑った。ダッタは記録板を見ていたので、その笑いを半分しか見なかった。


「ダッタさん」


「うん」


「今の客の方、覚えています?」


「返答が遅い人?」


「はい」


「急いで落ちても困るって言ってた」


「その前に、弟さんのことを話していました」


ダッタはペンを止めた。


その前。


客は何を言っていただろう。昨日も同じだと言った。返答が来ないと言った。たぶん、誰かを待っていた。そこまでは思い出せるのに、待っている相手のことだけが抜けていた。


キールは静かに続けた。


「弟さんの船が、北東の雲路で足止めされているそうですわ」


ダッタは顔を上げた。


「言ってた?」


「最初に」


覚えていなかった。


ダッタは客の顔を思い出そうとした。帽子の色。手袋の傷。声の高さ。思い出せるのは、口元が「落ちても困る」と動いたことだけだった。


言葉が出なかった。


客はもういない。謝る先も、聞き直す先もなかった。


キールは責めなかった。責めないまま、閉じかけた記録板へ視線を落とす。


「その言葉だけ、残ったんですのね」


記録板には、たしかに急いで落ちても困る、と書いてあった。その下に、客の弟のことはない。


「聞いてたはずなのに」


「ありますわ」


キールは言った。


「こちらの返答待ちの札箱にも、数日前から黒い札が紛れます。最初は古い札か汚れだと思いました。でも、そういう言葉の近くにあることが多い。だから、少し気になりましたの」


そういう言葉。


その言い方に、ダッタは少しむっとした。


「調べてるから」


「はい」


「黒札と関係ある言葉を拾わないと、分からない」


「はい」


キールは否定しない。否定しないまま、通信照合所の方を一度見た。窓口には、次の客が札を持って立っている。


「けれど、さっきの方は弟さんを待っていました」


ダッタは返事をしなかった。


通信照合所の窓口から、キールを呼ぶ声がした。キールは戻らなければならない。けれど、一歩動く前に、もう一度ダッタを見た。


「黒札が何をしているのかは、私にも分かりません」


「うん」


「ダッタさん」


少しだけ、キールの声が柔らかくなった。


「でも、今のあなたが何を先に聞いているのかは、少し怖いですわ」


ダッタは何か言おうとした。


でも、もう一度呼ばれて、キールは戻った。


その背中を見送ってから、ダッタは記録板に、弟の船、北東雲路、待っている人、と書き足した。字はさっきより小さくなった。


工房へ戻るまでの道で、ダッタは何度か記録板を開いた。急いで落ちても困る、の一行だけが先に目に入る。弟の船、と書き足したはずなのに、その字は紙の端へ沈んでいるように見えた。


工房へ戻ると、ギータは黒札記録を見てすぐに何も言わなかった。


その沈黙が、ダッタには少し怖かった。


ギータは黒札記録だけを読んだ。修理記録の束は、作業台の端へ寄せている。混ぜないための手つきだった。


ダッタの小さな私用の紙が、記録板の下から少しだけ見えていた。


助けたい、と言いながら、見てもらいたかった。


早く飛ばしたい。


その下は空いている。


ギータはその紙には触れなかった。


「黒札は、増えましたか」


「一枚だけ」


ギータは黒札の箱を開けた。中には朝の一枚だけが入っている。ダッタのポケットで少し曲がった黒札だ。


「箱の中は、一枚です」


「うん」


「でも、あなたの記録の中では増えています」


ダッタは顔を上げた。


「記録の中?」


ギータは、落ちたら終わり、急いで落ちても困る、無理に出ても、という行を一つずつ指した。


「他の人が言った言葉です」


「記録しただけ」


「はい」


ギータは否定しなかった。ただ、指先をその行の外側へずらした。


「その人の事情は、ここには少ないです」


キールと同じことを言われた気がした。言葉だけ拾っている。黒いところだけ拾っている。


ダッタは記録板を閉じた。


「あとで直す」


「今、思い出せるところだけでいいです」


「今?」


「後にすると、別の言葉で埋まります」


ギータは短く言った。


その言い方が、少しだけいつもより硬かった。


ギータの視線が、机の隅で止まった。昼に置いた包みが、半分残っている。


「それも、残っています」


「食べた」


「半分です」


ダッタはすぐに言い返せなかった。


食べたはずだった。固いパンの味も、干し果物の甘さも、少しは覚えている。けれど、いつ手を止めたのかは覚えていない。思い出そうとすると、出航板の黒い札が先に出てくる。


ギータはそれ以上追わなかった。


「今日はここまでにしましょう」


「まだ分かってない」


「だからです」


その時、工房の扉が小さく叩かれた。


ボイロが立っていた。観測筒ではなく、薄い紙束を抱えている。店から急いで来たのか、肩紐が少しねじれていた。


「ダッタさん、いますか」


「いる」


ボイロは入ってきて、ギータの箱を見た。次に、箱より長く、ダッタの記録板を見た。


「うちの黒い紙片、動きました」


ギータの手が止まる。


「何に触れましたか」


「戻り板の空欄には触れてません。観測紙にも、直接は」


ボイロは紙束を開いた。


「ダッタさんが今日、僕の店で書いた記録の写しです。港にも、修理依頼にも、黒札があるって話した時の」


紙の端に、黒い点が一つだけ浮いていた。


「強くはないです。でも、僕の店に残っていた紙片が、この写しの近くで濃くなりました」


ダッタは自分の記録板を見た。


「僕の記録?」


「たぶん」


ボイロは言い切らなかった。


「でも、札だけでは動かない。誰かの空欄か、書きかけか、言い切っていないところの近くで濃くなる気がします」


気がします。


前のボイロなら、そうは言わなかったかもしれない。ダッタはまたそう思った。けれど今度も、口に出さなかった。


ギータはダッタの記録板へ目を落とした。キールは待っていた弟のことを見ていた。ギータは箱に入っていない黒さを見ていた。ボイロは紙片の動きを見ていた。見ているものは別々なのに、どれもダッタの記録板の近くで止まる。


その中心に、自分の記録がある。


ダッタは少しだけ記録板を胸から離した。

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