2. 記録に混ぜない
ヴァット整備工房では、推進翼の羽根が作業台に並んでいた。
ギータはいつものように番号札を置いている。外した順番、向き、細い傷の位置。羽根は同じように見えるのに、ギータの札がつくと、それぞれ別の部品になる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
ギータは手を止めずに言った。
「日付は」
「書いた」
「食事は」
「まだ」
そこでギータの手が止まった。
「朝から港へ行ったのですね」
「うん」
「先に食事です」
「これだけ」
ダッタは黒札を出した。布には包んでいない。ポケットの中で少し曲がっている。ギータはそれを見て、眉を少し寄せた。
「またあったんですか」
「港にもあった」
「どこですか」
「出航板の下。第三搬送便の見送り札の近く」
ギータは黒札を受け取った。作業用の手袋をつけたままだった。薄い部品を持つ時と同じ手つきで、曲がった端だけを少し見た。
「少し折れています」
「ポケットに入れた」
「次は、そのまま持ってきてください」
ギータは新しい紙を一枚出し、黒札をその上に置いた。修理記録の束から、少しだけ離す。近くにあった番号札を一枚ずらし、黒札の紙がどの部品の列にも触れない角度にした。
「修理記録には貼らないでください」
「貼るつもりはなかった」
「挟んでいました」
ダッタは記録板を見た。さっきまで黒札を挟んでいた端が、少し黒くなっているような気がした。気のせいかもしれない。
「これは別にします」
ギータは作業台の端に浅い箱を置いた。外した螺子を入れるための箱だ。中には何も入っていない。
黒札は、特別な箱に閉じ込められなかった。ただ、ほかの記録の上には置かれなかった。ギータは怖がっているのではなく、混ざる場所を一つずつ減らしているだけに見えた。
「これ、何だと思う?」
ダッタが聞くと、ギータは少し考えた。
「分かりません」
ギータは黒札の端を見た。
「でも、分からない紙を炉心の記録に挟むと、あとで読み違えます。まず、どこにあったかと、何に触れたかを分けます」
ダッタは少し息を吐いた。
分ければ扱える。黒い札も、黒いにじみも、出航板の保留も、全部が同じ塊ではなくなる。
「じゃあ、黒札記録?」
「見出しとしては分かりやすいです」
ダッタはギータから渡されたペンで、紙の上に黒札記録と書いた。たったそれだけで、机の上に置けなかった黒さが、少しだけ扱えるものに変わった気がした。
「見つけたら、ここへ。修理記録とは別です」
「鍵は?」
「今はいりません」
「いらない?」
「まだ紙です」
ギータはそう言って、推進翼へ戻った。
まだ紙。
ダッタはその言葉を記録しなかった。けれど胸のどこかで、その言葉が少しだけ軽く鳴った。まだ紙。ただの紙かもしれない。ただの紙なら、ここまで気にすることはないのかもしれない。
でも港の出航板は黒かった。女は「落ちたら終わり」と言った。子どもは模型を抱えたまま黙った。
ダッタは黒札記録の下に、港で聞いた言葉を書いた。無理に出てもな。落ちたら終わりだもの。人が傷むよりいい。そこまで書いてから、ペン先が止まる。
どれも間違っていない。
そう書くか迷った。
迷って、書かなかった。
「ダッタ」
ギータが呼んだ。
「はい」
「食事です」
「今?」
「今です。黒札記録の前に、あなたの記録が切れます」
ダッタは反論しかけたが、ギータはもう作業台の隅に包みを置いていた。固いパンと干し果物。工房で食べるための簡単な食事だ。
「黒札は逃げません」
ギータはそう言った。
ダッタは黒札の箱を見た。
逃げない。
本当にそうだろうか。
箱の中の紙は、動かなかった。
昼過ぎ、ダッタはタダマ観測資料店へ向かった。
ボイロは店の奥で、昨日の観測紙を広げていた。カウンターには小皿があり、その中に黒い紙片が一つ乗っている。
「あ」
ボイロは顔を上げた。
「ちょうど、来るかと思ってました」
「黒札?」
「うちにも残ってました。札箱の底に」
ボイロは小皿を指す。紙片はダッタが拾ったものより小さい。角だけが残ったように見える。
「触った?」
「触りました」
ボイロはすぐに答えた。
「でも、手は黒くなりませんでした。紙質は普通ではないです。厚さは薄いのに、角が曲がりにくい。光を当てると、文字が沈みます」
「分かったこと、多いな」
「まだ少ないです」
ボイロは少し不満そうに言った。
「でも、昨日みたいに虫は出ません。札だけなら、ただ黒い紙です」
「ただの紙?」
「ただ、とは言ってません」
ボイロは観測紙をめくった。そこには昨日の戻り板の欄が写し取られている。黒い点がいくつか残っていた。
「昨日、虫が出た時は、戻り板の空欄に触れていました。僕が見ていなかった場所です」
そこでボイロは言葉を止めた。
「今日の紙片は、何にも触れていないと動きません」
「何かに触れると?」
「分かりません」
ボイロは今度はすぐに言った。
分からない、を早く言えるようになっている。ダッタはそれに気づいた。気づいたのに、口に出さなかった。
「でも、分からないから見ます」
ボイロは小皿の横に、細い筆を置いた。
「直接混ぜるのはしません。写します。形と文字の沈み方だけ」
ボイロは小皿を少しだけ自分の方へ寄せた。店の奥では、昨日の目録がまだ開いたままになっている。戻り板の欄には、薄い紙が一枚挟まっていた。
ボイロは自分の店で、自分が見落とした場所の続きを見ている。ダッタはその横に立っているだけだった。
それなのに、黒札記録を出したくなった。
ボイロの紙片と、自分の拾った黒札。ギータの箱。港の出航板。全部を一枚の紙に並べれば、何か見える気がした。
ダッタは記録板を開いた。
ボイロが目を上げる。
「港にも?」
「あった。修理依頼の箱にも」
「修理依頼」
ボイロの指が止まった。
「船を直す場所にもあるんですね」
船を直す場所。
その言葉が、ダッタの胸に少し刺さった。
「直す場所に、保留が増えてる」
ダッタが言うと、ボイロは観測紙を見た。
「直せないから保留なのか、保留にしたいから直せないのか」
「同じじゃない?」
「違います」
ボイロは即答した。
「でも、見ただけでは分かりません」
その返事に、ダッタは少し笑いそうになった。
分からないのに、違うとは言う。
それがボイロらしかった。




