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第4章 1. 港の保留


翌朝、港の出航板には、裏返った札が増えていた。


風待ちの札なら、いつもある。積み荷待ちも、調律待ちも、通信塔からの返答待ちもある。船は風と部品と人の都合で動く。全部がそろわなければ出ない。ダッタも、そのくらいは分かるようになっていた。


けれど、その日の札は少し違った。


第三搬送便は見送り、南桟橋小型客船は保留、北東航路郵便船は再検討。理由欄が空いている札がある。時刻だけが書かれ、誰の印も押されていない札がある。端が黒く、文字の下に薄い影を引いている札がある。


風は吹いていた。旗は動いていた。桟橋の縄は軋み、荷車の車輪は石畳を鳴らしている。止まっているわけではない。港は動いている。なのに、動いている音の間に、ぽっかり抜けた場所があった。


「また保留?」


荷箱を肩に載せた男が、出航板の前で首を伸ばした。


隣の男が札を見て、肩を下ろす。


「理由欄、空だ」


「空なら、出せないだろ」


「倉庫へ戻すか」


それだけで、二人の話は終わった。軽い諦めではなかった。けれど怒りでもない。重い荷を一度床へ置いた時の、息の抜け方に似ていた。


ダッタは記録板を出し、出航札の裏返りが多いこと、理由欄が空いていること、風も人もあるのに船が出ないことを書いた。男たちの顔は書かなかった。荷箱の角が片方だけ擦り切れていたことも、片方の男が戻すと言った時に少しだけ指をほどいたことも、書かなかった。


そこまで書いて、違うと思った。船が出ない、だけでは足りない。船を出さないことに、誰かが少しほっとしている。そこが変だった。


ほっとしている、と書くのは違う気がした。人の顔に勝手な札を貼っているみたいだった。けれど、困っている、と書くのも違った。ダッタはペンを止める。


船を出さない理由をもらった顔。


そう書きかけて、消した。


「落ちたら終わりだもの」


少し離れたところで、年配の女が言った。腰に旅袋を下げ、手には折りたたまれた航路券を持っている。同行者らしい若い男が口を尖らせた。


「でも、今日出ないと、向こうの市場に間に合わない」


「間に合わないくらいで済むなら、その方がいい」


「荷は傷むよ」


「人が傷むよりいい」


女はそう言って、航路券を畳み直した。


正しい。


ダッタはそう思った。


落ちたら終わり。人が傷むよりいい。無理に出ない方がいい。


どれも間違っていない。間違っていないから、喉の奥が詰まった。


「落ちても、終わりじゃない」


言いかけた言葉は、声にならなかった。


ダッタは落ちた。終わりではなかった。ギータの工房へ行き、キールの窓口で聞くことを覚え、ボイロの店で分からないを見た。落ちた後にも、何かは続いた。


けれど、その女にそれを言うのは違う。


落ちた後も続くから落ちていい、ではない。


ダッタは記録板を握り直した。板の角が指に当たる。


出航板の下に、小さな黒札が一枚挟まっていた。港の札とは違う紙だ。薄く、端だけが硬い。昨日、ボイロの店で見たものと似ている。表には文字があるように見えるが、灯りを受けるたびに沈む。


ダッタが指でつまむと、紙は冷たくも濡れてもいなかった。ただ軽い。軽いのに、指から手首へ、遅れて重さが来る。


「それ、落とし物か」


荷箱の男が声をかけた。


「たぶん」


「黒いな。縁起が悪い」


男はそう言って、すぐに目をそらした。いつもなら、もう少し聞いてきたかもしれない。誰の札だ、どこの店のだ、港の札箱に戻すのか。そういう会話が続いたかもしれない。


今日は続かなかった。


「まあ、今日は戻るか」


男は荷箱を担ぎ直す。さっきより軽そうに見えた。荷の重さは変わっていないはずなのに。


ダッタは黒札を記録板の端に挟み、出航板下、第三搬送便の見送り札の近く、と書いた。その下に、昨日のにじみのことを書こうとして、手が止まった。


マ……ゴ……ダ。


全部は読めなかった。名前かどうかも分からない。人の名に見えたのは、ダッタがそう見たかったからかもしれない。誰かの名前にできれば、少し楽になる。港の黒さも、墜落前の聞き違いも、どこかの誰かが混ぜたものだと考えられる。


でも、まだそうは書けない。


ダッタは別の行に、黒いにじみの中に、マ、ゴ、ダに見える文字、とだけ書いた。最後に、未確認、と足す。


未確認。


その言葉は、今はまだ、止まるための札ではない。


近くで、子どもの声がした。


「今日は直さないって」


ダッタは顔を上げた。小さな子どもが飛行船の模型を抱えている。片方の翼が外れかけていた。子どもの隣には母親らしい人が立っていて、修理屋の札箱を見ている。


母親は困ったように笑う。


「混んでいるみたいだから、また今度ね」


札箱には、修理依頼の札が何枚も重なっていた。その上に、黒い端の札が一枚混じっている。


「でも、飛ばしたい」


子どもが模型を抱え直すと、母親は少しだけ黙り、それから言った。


「飛ばして落ちたら、悲しいでしょ」


子どもは返事をしなかった。翼の外れた模型を胸に押しつける。


ダッタの指が、自分の記録板へ戻った。


母親の手首には、修理待ちの青い紐が巻かれていた。子どもの模型には、前にも直した跡があった。ダッタはそれを見た。見たのに、記録板に残ったのは、飛ばして落ちたら、の言葉だけだった。


早く飛ばしたい。


前なら、もっとまっすぐだった気がする。早く飛ばしたい。直った船で、もう一度空へ出たい。誰かに見てほしい。落ちた自分ではないところを見せたい。


今は、それだけではなかった。


ギータの番号札。キールの聞き返す声。ボイロの紙の鳥。落ちた後に拾ったものを持って、飛んだらどうなるのか知りたい。


そういう気持ちも、どこかにある。


けれど出航板の黒い札を見ていると、その奥の方から別の言葉が上がってくる。


落ちたら終わり。


人が傷むよりいい。


飛ばさなければ、落ちない。


何か分かるかもしれない。


その言葉が先に出た。


ダッタは黒札を記録板へ挟み直そうとした。紙の端が、さっき書いた未確認の横に重なる。


違う。


記録板に入れるものではない。そう思ったのか、ただ手が迷っただけなのか、自分でも分からない。


黒札は、気づいたらポケットに入っていた。曲がった感触が布越しに残る。


何が分かるのかは、まだ分からなかった。


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