表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/49

9. 記録:未確認は終わりではない


夜、ヴァット整備工房の灯りはいつもより遅くまでついていた。


作業台の上には、キールの通信記録、ボイロの観測紙、ギータの帳面、ダッタの記録板が並んでいる。船体調律の針は、布の上で静かに震えていた。炉心断片の光とは違う。熱ではなく、音を待つ光だった。


ゴドは港へ戻った。


ボイロは工房に残っている。父に許可をもらったらしい。帰り際、ゴドは「記録を写してから戻れ」とだけ言った。ボイロははい、と返した。少しだけ不満そうで、少しだけ安心した顔だった。


ギータは戻り板の図を描いている。


ボイロはその横で、観測紙を見ながら線を書き足す。二人はあまり喋らない。けれど沈黙が上から押さえつけるものではなく、同じ音を聞くための隙間になっていた。


ダッタは記録板の新しい紙を留めた。


まず、人に見せる記録を書く。


今日起きたこと。


キールの通信記録に、船体の癖のような光が残っていた。


ギータは、通信だけでなく船体も見た方がいいと言った。


タダマ観測資料店へ行った。


途中で黒い札が一枚、紙束に混じった。


ボイロ・タダマに会った。


ボイロは女の子で、一人称は僕。


そこまで書いて、ダッタは少し迷った。


これは記録に必要だろうか。必要かもしれない。自分が勝手に最初の分類を置きかけたことも、たぶん記録しておいた方がいい。人を見る時、最初の分類は簡単に外れる。


ダッタはそのまま残した。


父親の店だった。


ボイロは父の目録を使って、客の風切り管を見た。


側面穴の詰まりと見た。


でも、戻り板の音もあった。


側面穴の掃除で高い音は澄んだ。


低い音は残った。


ゴドは、見たところと見ていないところを分けて読んだ。


ボイロは「穴詰まりだけでした」「戻り板は見てません」「僕の仮説が外れてました」と言い直した。


ダッタは、さっき自分が言いすぎたことを書こうとして、ペンを止めた。


それは事実だ。


けれど今ここに書くと、ボイロがまた人に見られる場所へ引き出される。


公開する記録には、事実と未確認を書く。


店の札が黒くなった。


保留、再検討、父が戻ってから、触らない方がいい。


その言葉が増えた。


心の中の図書館へ入った。


ボイロの目録と、僕の記録板が混ざった。


僕、という言葉が、どちらのものか分からなくなった。


黒い虫が、空欄や札や本の題名を食べた。


開けても白紙なら、開けない方がいい。


飛んでも落ちるなら、飛ばない方がいい。


知らないなら、触らない方がいい。


ボイロが戻り板を見ていないと認めた時、虫の一部が紙片に戻った。


ボイロが自分の仮説が外れていたと言った時、紙片は小さな紙の鳥になった。


紙の鳥は、答えではなく、次に見る場所へ飛んだ。


ダッタは手を止めた。


別の紙を出す。


公開記録ではない、小さな紙だ。端が少し曲がっている。誰かに見せるための欄も、日付印を押す場所もない。


そこへ、書きかける。


助けたい、と言いながら、見てもらいたかった。


ペン先が止まる。


ギータが顔を上げた。


「何を書いているんですか」


ダッタは紙を伏せた。


「まだ人に見せる記録じゃない」


ギータは頷いた。


ボイロは覗かなかった。


小さな紙を伏せ直した時、調律針が小さく鳴った。


布の上で、針の先が港の方を向く。


ギータが顔を上げた。


「今、鳴りました」


「うん」


ボイロが自分の観測紙を見る。


「風見塔の方向」


工房の窓から港が見えた。


夜の港は灯りが少なかった。係留された船が、いつもより多い。風はある。帆は揺れている。それなのに、出航札の多くが裏返っていた。


ダッタは昼に見た黒い札を思い出す。


保留。


その文字の下に、別の文字があった気がした。


ダッタはキールの通信記録を引き寄せた。墜落直前、北東の通信塔には反応なし。その少し前、第三搬送便が弱い信号を拾っている。紙束の端の光は、その欄の近くで黒くにじんでいた。


ボイロが息をのむ。


「ここ」


ボイロは指を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触っていいですか」


ダッタは頷いた。


「うん」


ボイロは紙の端を押さえた。


黒いにじみの中に、細い文字が浮かび上がる。


最初は読めなかった。


墨が濃すぎて、潰れている。


ギータが黒紙を差し込む。ボイロが観測紙を重ねる。ダッタは調律針を布ごと近づけた。


文字の輪郭が少しだけ整った。


マ……ゴ……ダ。


名前のように見えた。


その擦れた文字を見た瞬間、工房の灯りが一度だけ揺れた。


誰もすぐには喋らなかった。


ダッタの胸の奥で、初飛行の日の赤い警告灯が燃える。戻れ、という声。おお、と聞き替えた声。見られたいと思った自分の手。操縦桿を戻すのが遅れた自分。


誰かの名前にしてしまえば、少し楽になる気がした。


けれど、まだ名前にもなっていない。


ダッタは記録板へ目を落とした。


墜落の中心にあったのは、僕の見栄と空欄だった。


そう書いた。


その下に、もう一行足す。


でも、最後の聞き違いに、黒いものが混ざっていたかは、まだ分からない。未確認。


未確認。


その言葉を、今は逃げにしたくなかった。


ボイロが小さく言った。


「名前みたいに見えたからって、全部分かったことにはならない」


「うん」


ダッタは頷いた。


ギータは紙束から目を離さない。


「次に見る場所が増えました」


それは怖い言葉でもあった。


けれど、止まるための言葉ではなかった。


ダッタは公開記録の最後の欄に、今日分かったことではなく、今日置いておく問いを書いた。


止まる方が安全に見える時、船は何の音を返しているのか。


この擦れた名前は、何を止めようとしているのか。


それから、伏せていた小さな紙をもう一度開いた。


人に「分からない」と言ってほしい時、先に何を聞けばいいのか。


助けたい気持ちの中に、自分を見てほしい気持ちが混ざった時、どう記録するのか。


この二つは、まだ人に見せる記録ではない。


ペンを置く。


窓の外で、止まっていた風見塔の針が一度だけ揺れた。


すぐにまた止まった。


けれど、揺れたことは見えた。


ダッタは記録板の最後に一行だけ足した。


未確認は、終わりではない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ