8. 三人で船を見る
夕方近く、ダッタの船は森の外れで静かに傾いていた。
その前に、南桟橋の客船は止まった。戻り板の緩みが見つかり、午後便は遅れた。客は文句を言った。男は頭を下げた。ボイロは自分の観測紙を持って、父の横で黙っていた。
全部がうまく収まったわけではない。
でも、客船は音を濁したまま出なかった。
その後、ギータが工房から来た。
「こちらですか」
ギータはダッタの船を見るなり、船首の飾り板へ目を向けた。
「やっぱり、そこを見るんだ」
ダッタが言うと、ギータは少し首を傾げた。
「やっぱり?」
「ボイロも、紙束の線が右へ逃げてるって」
ボイロが観測紙を胸の前で握る。
「右に出ています。でも、起点とは限りません。客船の件で、同じように見間違えました」
ギータは責める顔をしなかった。
「では、逃げた先と戻る場所を分けましょう」
命令ではなく、作業の提案だった。
ダッタは少しほっとした。
ゴドは腕を組んで船体を見上げている。
「古い型だ。飾りに見える部品が、音の戻りを持っている可能性がある。俺も全部は知らん」
ギータが頷いた。
「私は、この型を完全には知りません」
ボイロが小さく息を止めた。
ギータは普通に言った。
「だから、音を聞きます」
ボイロの目が、ギータに向く。
「知らないって、言えるんですね」
「知らない型ですから」
「でも、工房で」
「工房でも、知らないものはあります」
ギータは音叉を取り出した。
「ただ、知らないまま触ると危ない。知らないと書けば、次に見る場所が決まります」
ボイロは観測紙を見た。
ダッタはその横顔を見ていた。何か言いたくなった。でも、言わなかった。
ギータは船首の飾り板に音叉を近づける。
ゴドは風向きを見る。
ボイロは観測紙を構える。
ダッタは、ギータに言われる前に尋ねた。
「僕は、どこにいればいい?」
ギータは少し考えた。
「船首の横で、紙束を持っていてください。光が震えたら、その時刻を書けますか」
「書ける」
「字は」
「読める」
ギータの口元がほんの少し動いた。
音叉が鳴る。
細い音が、船体へ入った。
最初は船首で止まりかけた。次に、左舷上部で軽く跳ねる。それから右舷後部へ逃げる。紙束の端の光が、遅れて震えた。
ボイロが線を引く。
「起点、船首飾り板。左舷上部で戻り。右舷後部へ逃げ」
「もう一度」
ギータが言う。
二度目。
今度は、低い音が混ざった。
ダッタの背中が冷える。
初飛行の日、警告灯が赤く燃えていた時の音に似ていた。船の腹で誰かが咳をしたような音。戻れ、という声を、歓声に聞き替えたあの瞬間。
紙束の端の光が黒くにじんだ。
ダッタは息を止めた。
黒いにじみは、すぐには消えない。
ボイロが顔を上げる。
「今の」
「記録する」
ダッタは言った。
声が少し震えた。
「墜落前の音に似てた」
ギータの手が止まる。
「どの音ですか」
「警告灯が消えなくなった時。船体の奥で、低い音がした。僕は、分かってたのに」
言葉が止まる。
言えば、また落ちる気がした。
でも、今は森の地面に立っている。ギータもボイロも、ゴドもいる。誰も歓声を上げていない。誰も名前札を見上げていない。
「僕は、見られたくて、戻るのが遅れた」
紙束の黒が少し動いた。
「でも」
ボイロが小さく言った。
「その音、右へ逃げた後に黒くなってます。船体の音だけじゃないかもしれない」
ゴドが眉を寄せる。
「記録紙が拾ったのか」
ギータは紙束を見た。
「通信の返りに、別の反応が混ざっています」
「別の反応?」
ダッタは聞いた。
ギータはすぐには答えない。
ゴドも黙っている。
ボイロが、観測紙の端に小さく書いた。
未確認。
そして、声に出した。
「未確認です。今は」
その言い方は、逃げではなかった。
未確認。
終わりではなく、次に見る場所。
ギータは音叉をもう一度鳴らした。今度はゴドが船尾側へ回り、ボイロが左舷上部を見る。ダッタは紙束を持ったまま、光の震えを追った。
何度か音を取るうち、紙束の端の光が細い針の形へ固まり始めた。
煤けた銀色。
先端だけが、風に反応して微かに震えている。
ボイロが息をのむ。
「船体調律の針」
「知ってる?」
ダッタが聞く。
ボイロは頷きかけて、止まった。
「昔の船で使っていた部品です。船体の戻り音を拾って、調律に使う針。今はほとんど出回ってません」
ボイロは針を見たまま、声を少し落とした。
「資料で見たことはあります。でも現物は初めて」
ギータが布を出し、針を受け止めた。
「これで全部直るわけではありません」
ダッタは頷いた。
「うん。全部直るとは、まだ書かない」
ギータがこちらを見る。
ボイロも見る。
ダッタは記録板を握った。
「でも、船が何を返しているか、少し聞けるようになった」
風が森を抜けた。
遠くの港で、風見塔の針が止まっているのが見えた。
風は吹いている。
なのに、針だけが動かない。




