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7. 現実帰還:店で言い直す


戻ってきた最初の感覚は、親指の痛みだった。


ダッタは記録板を握っていた。留め具が少しずれ、指先に赤い線を作っている。


ゴドはカウンターの前にいる。


「どこまで見た」


同じ問いが、まだそこにあった。


ボイロは観測紙を見た。


「穴詰まりでした」


また、最初はそう言った。


けれど声は途中で薄くなった。


戻り板の欄は空白のままだ。


ボイロは目録を抱え直す。抱え直して、それでも隠さなかった。


「穴詰まりだけ、でした」


ゴドは何も言わなかった。


「戻り板は、見てません」


ボイロの喉が小さく動く。


「僕の仮説が外れてました」


店の中が静かになった。


扉の鈴が鳴った。


さっきの男が戻ってきた。布包みを抱え直している。後ろの若者は、帽子を握ったまま、店の床を見ていた。


「すまない、今、桟橋の前で鳴らしてみたんだが」


男が言う。


「やっぱり低い音が残る。船長が、戻り板も見た方がいいんじゃないかって」


ダッタは口を開きかけた。


僕が止めればよかった。


ボイロだけのせいじゃない。


そう言いたい。


けれど、それを人前で言えば、またボイロの札を勝手に表へ返すことになる。


ダッタは記録板を握って、口を閉じた。親指が少し痛んだ。その痛みが、余計な言葉を止めた。


ゴドはボイロではなく、観測紙を見た。


怒るかと思った。


けれどゴドは、まず紙を読んだ。


「見ていないところはどこだ」


「戻り板と、船体側の飾り板です」


「見たところは」


「側面穴。煤はありました。掃除で高い音は澄みました。でも、低い音が残りました」


ゴドは観測紙を受け取った。


しばらく黙った。


その沈黙に、ボイロの肩がこわばる。


「読める」


その一言に、ボイロの肩が少し落ちた。


「戻り板は、船体側だな。管だけでは決められない」


男は困った顔をした。


「出せないってことかい」


「今のまま、出せるとは言えません」


ボイロの声が少し震えた。


「父さんと船体側を見ます。ただ、待つだけじゃなくて、僕が見た音と外した仮説を記録します。船長さんにも、戻り板を確認する理由を伝えてください」


若者が小さく頷いた。


「自分、言ってきます」


男は渋い顔をしたが、布包みをもう一度カウンターへ置いた。


「午後便、遅れるな」


ボイロの肩が揺れた。


ゴドは観測紙を畳んだ。


それ以上言わない。


謝りすぎない。


けれど目録の横に、観測紙を出した。側面穴、戻り板、低い音。見たことと、見ていないことを分けて書く。


ダッタは横で見ていた。


手伝いたいと思った。


けれど今は、何を手伝えばいいか分からない。


「僕は」


ダッタは小さく言った。


ボイロが目だけを向ける。


「何をすればいい?」


ボイロはすぐには答えなかった。


「紙束を、もう一度見せてください」


ダッタは紙束を置いた。


「それと、あなたの記録板も。さっきの音を聞いたなら、聞いた場所と、どんな音だったかを書いてください。分類は僕がします。でも、聞いたことはあなたの方が覚えているはずです」


ダッタは頷いた。


記録板を出す。


今度は、誰かに褒められたいからではなく、聞いた音を逃がさないために。


書く。


低い音。


高い音の後ろに残った。


喉で返事が止まるような音。


ボイロが横から覗き込む。


「その表現、使えます」


「本当?」


「分類ではないです。でも、音の形としては使えます」


ダッタは少しだけ息を吐いた。


ゴドは観測紙をもう一度見て、短く頷いた。


「では、桟橋へ行く。ボイロも来い。これも経験だ」


ボイロは顔を上げた。


「僕も?」


「お前の記録だ」


ボイロは唇を結んだ。


その横で、ダッタの紙束の端の光が震えた。


ゴドの目がそこへ向く。


「それは」


「僕の船の通信記録です」


ダッタが言った。


「ギータが、船体の癖も混ざってるかもしれないって」


ゴドは紙束を見た。


「古い船だな」


「分かるんですか」


「分かる、ではない。そう見える」


ボイロが父を見る。


ゴドは続けた。


「午後便の桟橋を見た後、ヴァット工房へ行く。戻り音なら、整備士の耳も要る」


ボイロは小さく頷いた。


「行きます」


ダッタも頷いた。


店の外へ出る時、札箱の奥に黒い札が一枚だけ見えた気がした。


保留。


でも、ボイロはそれを取らなかった。


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