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6. 心象世界:問い直しと紙の鳥


痛みで自分に戻っただけで、外へ戻れたわけではなかった。


図書館はまだ続いている。


黒い虫の壁は、ボイロの周りでゆっくり回っていた。さっきより厚い。近づけば、また声が混ざる。無理に破れば、ボイロごと潰してしまいそうだった。


ダッタは立ち上がらなかった。


床に膝をついたまま、記録板を自分の胸の前に置いた。


「ボイロ」


返事はない。


「今、開けろって言いそうになった」


虫の壁の内側で、ボイロの目が少し動く。


「開けたら、僕が役に立ったことになるから」


言うと、胸の奥が嫌な音を立てた。


棚の影が少し笑った気がした。


「それで?」


ボイロが言った。


声は細い。でも、さっきよりボイロ自身の声だった。


「だから、今は言わない」


「言わないなら、何をするんですか」


ダッタはすぐに答えられなかった。


言えることは少ない。


正しいことは、たぶんもっと少ない。


「聞く」


「何を」


「ボイロは、どうしたい?」


虫の壁に、文字が走った。


父が戻ってから。


触らない方がいい。


このままなら傷つかない。


最後の一文だけ、ボイロの息で書かれたように見えた。


ボイロは目録を抱えた。


「このままなら、まだ分からないだけで済みます」


「うん」


「開けて白紙だったら、僕が知らないって分かります」


「うん」


「父さんは怒鳴りません。でも紙を見るんです。見て、黙るんです。僕が見てないところを、全部見つける」


ダッタは頷いた。


「それ、怖いと思う」


ボイロが眉を寄せる。


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃない」


ダッタは記録板を見た。親指の血が、紙の端に小さくついている。


「僕も、書かない方が楽なことがある。墜ちた時のこととか。戻れって聞こえてたのに、聞かなかったこととか」


虫の壁が少し遅くなる。


「墜ちた後、どうなったんですか」


ボイロが聞いた。


その声には、さっきまでの店の言葉が少なかった。


「最初は、もう一回飛べば失敗じゃなくなると思った」


ダッタは言った。


「でも、そうすると同じ音をまた聞き逃す気がした。だから、嫌だけど書いた。まだ全部は書けてない。でも、書かないと、次に同じ音を聞いた時また間違える気がする」


成長、という言葉は出さなかった。


そんな立派なものではない。


ただ、次に同じ音を聞いた時、今度こそ止まるための傷だった。


ボイロは黙っていた。


虫の壁の内側で、目録のページが勝手にめくれる。


『見たことにした方がいい』


『知っている顔をしていれば、客は止まらない』


『父が戻るまで保留』


『保留』


棚の奥の影が言う。


「白紙なら、開けない方がいい」


ボイロの指が震える。


ダッタは立ち上がらない。


「どうしたい?」


もう一度だけ聞いた。


ボイロは白い本を見た。


それから、その隣の棚へ目を移した。


そこに、薄い本が一冊あった。


『今日の風切り管』


鍵は小さく、錆びている。


「全部は、見られません」


ボイロが言った。


「うん」


「でも、戻り板は見てません」


その一言で、黒い虫の一部が足を止めた。


虫は紙片へ戻った。煤で汚れた紙片が床に落ちる。


ボイロは胸ポケットを探った。出てきたのは鍵ではなく、細い掃除針だった。先端に煤がついている。店で風切り管の穴を掃除した針だ。


「それで開く?」


ダッタが聞く。


ボイロは針を見た。


「たぶん」


いつもの言葉。けれど今回は、その後に続いた。


「開くかは、分かりません」


ボイロは針を鍵穴へ差した。


一度目、開かない。


二度目、針が曲がりかける。


影が言う。


「折れるぞ」


ボイロの手が止まる。


「折れたら、父さんに」


そこで言葉も止まった。


ボイロは目を伏せる。


「怒られる、じゃない。父さんはたぶん、曲がった針と、曲がった理由を見る」


「うん」


「それも、嫌です」


「うん」


ボイロはもう一度針を動かした。


かちり、と小さな音がした。


本が開く。中は白紙ではなかった。ただし、答えもなかった。


ページには、細い線がいくつも走っている。風切り管の側面穴。戻り板。左側の飾り板。父の目録にはない、客船ごとの癖。まだ読めない線もある。途中で切れた線もある。


ボイロは息を止めた。


「僕の仮説が外れてました」


紙片の一つが折れた。角が立ち、胴ができ、細い羽が開く。


紙でできた、小さな鳥だった。


上手な形ではない。それでも鳥は、答えの本ではなく、次に見る棚へ向かって跳ねた。


『戻り板』


『左側の飾り板』


『低い音』


紙の鳥は三つの題名を順にくちばしでつつく。


影が揺れる。


「一冊開いたくらいで、何が変わる」


「全部は変わらない」


ボイロが言った。


まだ震えている。でも、言い切った。


「でも、今の分類は外れてました。もう一度見直します」


図書館の保留札が、数枚だけ白に戻った。


影の足元に、一枚の黒い札が落ちる。


そこには、擦り切れた文字があった。


マ……ダ。


名前のようにも見えた。けれど、墨が濃すぎて、間の文字は潰れている。


ダッタが目を凝らす前に、黒い札も、紙の鳥も、本棚も、風にほどけていく。


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