5. 心象世界:黒い虫の結界
最初は、まだ店だった。
棚があり、札箱があり、カウンターがある。けれど棚は奥へ伸びすぎている。札箱は壁一面に増え、カウンターの向こうにあったはずの保管庫の扉は、いつの間にか巨大な本棚の間へ移っていた。
黒い札は、観測紙の上に落ちていた。
そこから黒い虫が湧いている。
虫は戻り板の空欄を食べ、目録の角を食べ、棚札の文字を食べる。食べられた文字は消えない。別の言葉へ変わる。
戻り板。
保留。
未確認。
父が戻ってから。
低い音。
触らない方がいい。
ボイロはカウンターの向こうにいた。
いや、図書館の奥にいた。
黒い虫がボイロの周りを回っている。最初は煤の輪だった。それが少しずつ厚くなり、薄い壁みたいに立ち上がる。目録を抱えたボイロだけが、その内側に閉じ込められていた。
「ボイロ」
ダッタが呼ぶと、ボイロは顔を上げた。
「来ないでください」
声は近いのに、遠い。
「そこ、危ない」
「危ないなら、なおさら来ないでください」
虫の壁に、文字が浮かぶ。
保留。
父が戻ってから。
触らない方がいい。
「それ、ボイロの声じゃないだろ」
「僕の声です」
「違う」
「僕が言っているなら、僕の声です」
ボイロは目録を抱き直す。胸元の店名札が黒く食われ、タダマの文字だけが残った。
ダッタは一歩踏み出した。
足元の札が沈む。紙なのに泥のように重い。観測、鑑定、異常音、古船。その下から保留札が何枚も出てくる。
行けば、助けられる。
そう思った。
思った瞬間、胸の奥で別の熱が跳ねた。
助けられたら、見てもらえる。
「違う」
ダッタは小さく言った。
でも足は止まらなかった。
ボイロが首を振る。
「やめて」
今度ははっきり聞こえた。
それでもダッタは、虫の壁へ手を伸ばした。
指先が黒い膜に触れる。
冷たかった。
次の瞬間、声が一気に入ってきた。
僕は父さんの店を守らないといけない。
僕はギータに助かったと言われた。
僕は知らないと言ったら、客が父さんを呼ぶ。
僕は見られたい。
僕は見られたくない。
僕は白紙を開けたくない。
僕は墜ちたところを見られたくない。
僕。
僕。
僕。
どれが自分の僕なのか、分からない。
ダッタは自分の手を見た。指先に黒い煤がついている。風切り管を掃除した時の煤。けれど掃除したのはダッタではない。ボイロだ。手の大きさも、爪の形も、見るたびに変わる。
「ダッタ」
名前を言おうとした。
舌が動かない。
記録板を探す。手元にあるはずだった。けれど板にはタダマ観測資料店の目録文字が並んでいる。
『依頼人:ダッタ・ブゴーマ』
『用件:古船・異常音』
『処理:保留』
『理由:触らない方がいい』
黒い虫が、記録板の「僕」の字へ集まる。
字が太る。動く。別の筆跡になる。
『僕が見たことにした』
違う。
いや、違わない。
店で、低い音が残っていた。ダッタは聞いた。けれど、客の前でボイロの顔を崩したくなくて黙った。黙った後で、今度は二人きりになってから「怖いなら」と言った。
どちらも、自分が少し良く見える場所を選んでいる。
虫の壁の向こうで、ボイロが小さくなる。
棚の奥から、声がした。
「助けたいなら、触ればいい」
男の声だった。顔は見えない。黒い札束が本棚の影のように揺れている。
「触れば混ざる。混ざれば、分からなくなる。分からないなら、止まれる」
止まれる。
その言葉だけが、妙に優しく聞こえた。
初飛行の日の赤い警告灯が見える。
止まれの赤。
でも耳は、それを歓声の赤に塗り替えた。
戻れ、風が変わった。
おお、と驚く声。
違う。あの時は、自分が聞き違えた。見られたかったから。自分が。
本当に一人で?
黒い声が、耳の奥で笑う。
ダッタは記録板を握りしめた。
金具が跳ねた。
鋭い痛みが親指に走る。
「っ」
息が戻った。
親指の腹に、細い血の線が出ている。記録板の木が硬い。金具が冷たい。痛いのは、自分の指だ。
これは自分の手だ。
ダッタの手だ。
黒い虫の壁が、少しだけ遠のいた。
ボイロはまだ、その内側にいた。
ダッタは膝をついたまま、やっと分かった。
自分は、助けたかった。
それは嘘ではない。
でも、助けた自分を見てもらいたかった。
それも、混ざっていた。




