表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/54

5. 心象世界:黒い虫の結界


最初は、まだ店だった。


棚があり、札箱があり、カウンターがある。けれど棚は奥へ伸びすぎている。札箱は壁一面に増え、カウンターの向こうにあったはずの保管庫の扉は、いつの間にか巨大な本棚の間へ移っていた。


黒い札は、観測紙の上に落ちていた。


そこから黒い虫が湧いている。


虫は戻り板の空欄を食べ、目録の角を食べ、棚札の文字を食べる。食べられた文字は消えない。別の言葉へ変わる。


戻り板。


保留。


未確認。


父が戻ってから。


低い音。


触らない方がいい。


ボイロはカウンターの向こうにいた。


いや、図書館の奥にいた。


黒い虫がボイロの周りを回っている。最初は煤の輪だった。それが少しずつ厚くなり、薄い壁みたいに立ち上がる。目録を抱えたボイロだけが、その内側に閉じ込められていた。


「ボイロ」


ダッタが呼ぶと、ボイロは顔を上げた。


「来ないでください」


声は近いのに、遠い。


「そこ、危ない」


「危ないなら、なおさら来ないでください」


虫の壁に、文字が浮かぶ。


保留。


父が戻ってから。


触らない方がいい。


「それ、ボイロの声じゃないだろ」


「僕の声です」


「違う」


「僕が言っているなら、僕の声です」


ボイロは目録を抱き直す。胸元の店名札が黒く食われ、タダマの文字だけが残った。


ダッタは一歩踏み出した。


足元の札が沈む。紙なのに泥のように重い。観測、鑑定、異常音、古船。その下から保留札が何枚も出てくる。


行けば、助けられる。


そう思った。


思った瞬間、胸の奥で別の熱が跳ねた。


助けられたら、見てもらえる。


「違う」


ダッタは小さく言った。


でも足は止まらなかった。


ボイロが首を振る。


「やめて」


今度ははっきり聞こえた。


それでもダッタは、虫の壁へ手を伸ばした。


指先が黒い膜に触れる。


冷たかった。


次の瞬間、声が一気に入ってきた。


僕は父さんの店を守らないといけない。


僕はギータに助かったと言われた。


僕は知らないと言ったら、客が父さんを呼ぶ。


僕は見られたい。


僕は見られたくない。


僕は白紙を開けたくない。


僕は墜ちたところを見られたくない。


僕。


僕。


僕。


どれが自分の僕なのか、分からない。


ダッタは自分の手を見た。指先に黒い煤がついている。風切り管を掃除した時の煤。けれど掃除したのはダッタではない。ボイロだ。手の大きさも、爪の形も、見るたびに変わる。


「ダッタ」


名前を言おうとした。


舌が動かない。


記録板を探す。手元にあるはずだった。けれど板にはタダマ観測資料店の目録文字が並んでいる。


『依頼人:ダッタ・ブゴーマ』


『用件:古船・異常音』


『処理:保留』


『理由:触らない方がいい』


黒い虫が、記録板の「僕」の字へ集まる。


字が太る。動く。別の筆跡になる。


『僕が見たことにした』


違う。


いや、違わない。


店で、低い音が残っていた。ダッタは聞いた。けれど、客の前でボイロの顔を崩したくなくて黙った。黙った後で、今度は二人きりになってから「怖いなら」と言った。


どちらも、自分が少し良く見える場所を選んでいる。


虫の壁の向こうで、ボイロが小さくなる。


棚の奥から、声がした。


「助けたいなら、触ればいい」


男の声だった。顔は見えない。黒い札束が本棚の影のように揺れている。


「触れば混ざる。混ざれば、分からなくなる。分からないなら、止まれる」


止まれる。


その言葉だけが、妙に優しく聞こえた。


初飛行の日の赤い警告灯が見える。


止まれの赤。


でも耳は、それを歓声の赤に塗り替えた。


戻れ、風が変わった。


おお、と驚く声。


違う。あの時は、自分が聞き違えた。見られたかったから。自分が。


本当に一人で?


黒い声が、耳の奥で笑う。


ダッタは記録板を握りしめた。


金具が跳ねた。


鋭い痛みが親指に走る。


「っ」


息が戻った。


親指の腹に、細い血の線が出ている。記録板の木が硬い。金具が冷たい。痛いのは、自分の指だ。


これは自分の手だ。


ダッタの手だ。


黒い虫の壁が、少しだけ遠のいた。


ボイロはまだ、その内側にいた。


ダッタは膝をついたまま、やっと分かった。


自分は、助けたかった。


それは嘘ではない。


でも、助けた自分を見てもらいたかった。


それも、混ざっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ