4. 善意のかばい方を間違える
男たちが出ていってから、店の中は急に広くなった。
さっきまで客の声が埋めていた隙間に、棚のきしみや紙のこすれる音が戻ってくる。ボイロは風切り管を置いていた布を畳み、煤を小さな瓶へ落とした。瓶には日付を書く欄がある。ボイロはそこに今日の日付を書いた。
手が少し震えていた。
「今の、いいのかな」
ダッタは言った。
ボイロの肩が止まる。
「何がですか」
「低い音が残ってた」
「穴詰まりの残りです」
同じ答えだった。
「でも、紙の光も震えた」
ボイロは紙束を見ない。
「あなたの船の記録と、客船の風切り管は別です」
「別かもしれない。でも、同じ音に聞こえた」
「聞こえ方は分類ではありません」
さっき若者に言った言葉が、そのまま戻ってきた。
ダッタは少しむっとした。
「分類じゃなくても、聞こえたものは聞こえたんだろ」
ボイロは目録を閉じた。
閉じる音が大きかった。
「父さんなら、ここで何を言うか分かります」
「え」
「未確認の音で船を止めるなら、根拠を出せ。根拠がないなら、見たところと見ていないところを分けろ」
その言葉は、ボイロの声なのに、別の人が書いた文章を読んでいるみたいだった。
「それ、お父さんの言葉?」
「店の言葉です」
ボイロはすぐに返した。
「父さんの店だから?」
言ってから、踏み込みすぎたと思った。
ボイロの顔が硬くなる。顔より先に、目録を抱える腕が強くなった。
「あなたは依頼人です。失敗しても、ヴァット工房に戻ればいい。僕はここで言います。父さんの店のカウンターで。僕が分からないと言ったら、あの人たちは次から父さんが出るまで待つようになります」
「でも、無理に分かる顔をして、客船が」
「分類上は穴詰まりです」
「分類上じゃなくて」
ダッタは一歩近づいた。
「ボイロが怖いなら、怖いって言えば」
ボイロの目が上がった。
しまった。
その言葉は、店の中では大きすぎた。
棚の向こうで紙を探していた年配の客が、ちらりとこちらを見た。奥の保管庫からも、金属音が一瞬止まった気がした。
ボイロは動かなかった。
「怖い?」
「いや、今のは」
「僕が?」
ボイロは笑わなかった。
「それ、ここで言いますか」
「したいんじゃなくて、僕は」
助けたい、と言うつもりだった。
けれど舌の裏に、別の言葉の苦さが残った。
ダッタは息を止めた。
「僕は、助けようと」
「助ける?」
ボイロがカウンターの端を握る。爪の先が白くなった。
札箱のふたが、かたりと閉じた。
奥の保管庫で、重い金属が台に置かれる音がした。
扉が開く。
背の高い男が出てきた。髪に金属粉がついている。ゴド・タダマ。ボイロと同じ目をしていた。ただ、疲れ方が少し違う。
「低い音がしたな」
第一声は、叱る声ではなかった。
「それと、言い合う声もした」
ボイロの肩が伸びる。目録を胸へ寄せ、観測紙をカウンターに置く。
「どこまで見た」
ゴドが聞いた。
ボイロは口を開いた。
「穴詰まりでした」
言い切る前に、観測紙の空欄へ目が落ちた。
戻り板。
そこには何も書かれていない。
ダッタの胸の中で、さっきの低い音がもう一度鳴った。
ゴドは答えを急がなかった。ただ、観測紙の空欄を見ている。
その沈黙が、ボイロの肩に乗った。
ボイロの唇が動く。
「穴詰まりの、残りで」
言い切れない。
言えば、ボイロをさらに追い込む。
言わなければ、音がなかったことになる。
ダッタは記録板を握った。
「低い音、残ってました」
声は小さかった。でも、店の中では十分に聞こえた。
ボイロの表情が崩れた。
怒ったのではない。泣きそうになったのでもない。目録で支えていた何かが、少しだけ外れた顔だった。
「やめて」
ボイロが言った。
小さい声だった。ダッタを責める声ではない。これ以上見せないでほしい、という声だった。
カウンターの端で、小皿が鳴った。
黒い札が、ひとりでに皿から滑り落ちた。
観測紙の空欄に、黒い札の角が触れる。
煤の点が一つ落ちた。
風切り管から落ちた煤ではない。どこから来たのか分からない黒い点が、戻り板の欄ににじむ。
点は足を出した。
小さな黒い虫になった。
虫は空欄の端を食べ始めた。戻り板、という文字の下をかじり、穴を広げる。次の虫が目録の角から生まれる。三匹目が札箱の隙間から這い出す。
観測。
鑑定。
異常音。
古船。
札の文字に黒い虫が群がり、食べ残した紙くずが別の字へ変わる。
保留。
父が戻ってから。
触らない方がいい。
ボイロの声が聞こえた。
「分からないなら、触らない方がいい」
それはボイロの声だった。
でも、少し違った。
低く、乾いて、どこかで前にも聞いたような声。
ダッタは自分の記録板を見た。字がにじんでいる。自分の字なのに、父親の目録のような硬い筆跡へ変わっていく。
僕は。
誰の僕だ。
黒い虫が、その「僕」の字に集まった。
店の床が、紙のように白くなった。




