2. タダマ観測資料店
タダマ観測資料店は、塔の足元に寄りかかるように建っていた。
店の壁には、古い風向き札や割れた高度計が並んでいる。入口の上には小さな風車が三つ。風が吹くたび、それぞれ違う速さで回った。速いもの、遅いもの、途中でつっかえるもの。全部が同じ風を受けているはずなのに、音が違う。
扉を開けると、紙と金属と乾いた木の匂いがした。
「いらっしゃいませ。用件札を取ってください」
声は奥から来た。
店内には棚が多かった。天井近くまで積まれた資料箱、分類札のついた引き出し、透明な筒に入った雲の標本、古い船の部品。通路は細く、足元にも測定器が置かれている。
入口の右に、木箱があった。
札が並んでいる。
観測。
鑑定。
複写。
異常音。
古船。
その他。
ダッタはどれを取るべきか迷った。通信記録の光は通信なのか、船体なのか、古船なのか。その他に逃げたくなるが、その他は何だか怒られそうな顔をしている。
「迷う場合は、古船と異常音を重ねてください」
奥から声がまた来た。
「重ねる?」
「はい。用件が二つにまたがるときは、札を重ねます。父さんはそうしてます」
棚の向こうから、少女が顔を出した。
ダッタより年下だ。小柄で、髪は短くまとめられている。大きな眼鏡の奥で、目だけが忙しく動いていた。手には分厚い目録を抱えている。エプロンの胸元には、タダマ観測資料店、と刺繍された布札がついていた。
「父さん?」
「店主です。ゴド・タダマ。今は奥の保管庫です。大型船の風見軸を固定しています。僕で分かる用件なら受けます」
僕。
ダッタは少しだけ耳に引っかかった。でも、少女はそれを気にした様子もなく、カウンターの上に目録を置いた。
カウンターの奥には、小さな札が下がっている。
風見軸固定中。呼出不可。
文字は太く、短い。たぶん店主の字だ。
「札を」
「あ、うん」
ダッタは古船と異常音の札を取って重ねた。
少女は札を見て、頷いた。
「では、その札の順なら、古い船の異常音。資料照合から入ります」
「僕はダッタ・ブゴーマ」
「ボイロ・タダマです」
名前を言う時、ボイロの声は少しだけ硬くなった。店の名前を背負っているみたいな声だった。ダッタには、少し窮屈そうに聞こえた。
ダッタは紙束を出した。
「通信照合所で受け取った記録なんだけど、端に光が出て」
紙束を置くと、細い光がカウンターに落ちた。
その拍子に、黒い札が一枚、紙束の間から滑り出た。
ボイロの手が止まる。
「これ、うちの札じゃないです」
「え」
「少なくとも、僕の知ってる用件札じゃない。紙質も違います」
ボイロは札に触れようとして、指を止めた。黒い札の表面には、文字があるように見える。けれどカウンターの灯りを受けるたび、読める前に沈む。
「途中で、ぶつかった人の札かも」
「なら、混ぜないでください。資料に変な札が入ると、分類がずれます」
「ごめん」
「謝るより、別に置いてください」
ボイロは小皿を出し、黒い札を紙束から離した。
「あとで見ます。今は記録紙です」
ボイロの目が、すぐそこへ吸いついた。
「通信光ではないですね」
言い切るのが早い。
けれどボイロはすぐに言い直した。
「たぶん。少なくとも、照合所の通信鏡だけで残る光ではないです。紙の繊維に沿っているので、記録紙が何かを拾っています」
「ギータも、通信だけじゃないかもって」
「ヴァット工房の人ですか」
「知ってる?」
「資料では。安全点検の記録が細かい工房です。父さんが、あそこは記録の字が硬いって言ってました」
「字が硬い」
「褒め言葉です。たぶん」
ボイロは目録を開いた。紙束の下に薄い観測紙を差し込む。ギータが黒紙を使った時より、線が細かく見えた。光は観測紙の上で、右へ逃げるように震える。
「右へ出ていますね」
「右?」
「船体でいうなら右舷側。通信なら返りの遅れ。風なら、受けた力を逃がした方向。分類上は三つあります」
ボイロは早口で言い、すぐに目録の端を押さえた。
「ただ、現物を見ないと確定はできません」
「そういうの、ちゃんと言うんだ」
ダッタが言うと、ボイロは一瞬だけ顔を上げた。
「ちゃんと言わないと、後で困ります」
「誰が?」
「店が」
短い答えだった。
ボイロの視線は、カウンターの奥の壁へ一度だけ向いた。そこには古い鑑定証がいくつも額に入って並んでいる。タダマの印。タダマの筆跡。たぶん、父親のものだ。
「父さんがいない時に変なことを言うと、後で全部残るので」
「残る?」
「記録に」
その言葉に、ダッタは自分の記録板を見た。
残る。
ギータの帳面にも、キールの記録板にも、ダッタの字にも、起きたことは残る。残るから助かることもある。けれど、残るから怖いこともある。
扉の鈴が鳴った。
「ゴドさんはいるかい」
入ってきたのは、灰色の帽子をかぶった中年の男だった。腕に細長い布包みを抱えている。後ろには荷運びらしい若者が一人。二人とも、迷わずカウンターへ近づいた。
ボイロの背中が少し伸びた。
「父は保管庫です。用件なら伺います」
「ああ、ボイロちゃんか。じゃあ、ゴドさん呼んでくれるか。急ぎなんだ」
ちゃん。
ボイロの指が目録の角を押さえた。
「急ぎでしたら、用件札をお願いします」
「札はいいよ。いつもの風切り管だ。南桟橋の小型客船。今朝から音が濁る。ゴドさんならすぐ分かる」
男は布包みをカウンターに置いた。
ゴドさんならすぐ分かる。
その言葉が、店の棚にぶつかって残った。
ボイロは一度だけ奥の保管庫へ目を向けた。扉は閉まっている。中から低い金属音がしていた。大型船の風見軸。固定中に手を離すと、軸が落ちる。さっき見た札が、ダッタの頭にも浮かんだ。
呼出不可。
ボイロの目は、札と客の顔の間で一度だけ迷った。
「僕が見ます」
男は困ったように笑った。
「いや、急ぎだからね」
「だから見ます」
ボイロの声が少し高くなった。
ダッタは、その声を聞いた。
知っている、と言う前の声。分からない、と言えない時の声。
けれど、まだそれを言葉にはできなかった。




