第3章 1. ギータ工房:返らない声
港の外へ出ても、紙束の端の光は消えなかった。
細い。糸というには硬く、針というには頼りない。キールの通信照合所で見えたそれは、ダッタが歩くたびに少しだけ震えた。風に揺れるのではない。歩幅に合わせるわけでもない。どこか遠くから、呼ばれたのに返しきれなかった声が、紙の端でまだ迷っているようだった。
ヴァット整備工房の扉は、半分だけ開いていた。
中ではギータが、午後便の推進翼を作業台に載せていた。羽根は一枚ずつ外され、番号札と一緒に並んでいる。いつものように、整っている。けれど今朝より少しだけ机の上が狭く見えた。ギータが抱えている仕事が、机の端からはみ出しているせいかもしれない。
「戻った」
ダッタが言うと、ギータは顔を上げた。
「おかえりなさい。どうでした」
「いろいろあった」
「それは、記録に向いている返事ですね」
硬い言い方だったが、押しつける響きではなかった。ギータは手袋を外し、作業台の空いた場所を指で払った。ここに置いていい、という合図だった。
ダッタは記録板と紙束を置いた。
ギータはまず記録板を見た。キールの窓口、困った客、受付札、通信塔の応答時刻。ダッタの字はまだ荒い。けれど、ギータは眉を寄せなかった。
「読めます」
「それ、最近よく聞く」
「読めないと困りますから」
「褒めてるんじゃなくて」
「少しは褒めています」
ダッタは思わず顔を上げた。
ギータはもう紙束を見ていた。褒めた顔ではない。真剣に線を追う顔だった。だから、たぶん本当に少しだけだったのだろう。
紙束の端で光が震える。
ギータは作業台の引き出しから薄い黒紙を出し、紙束の下へ差し込んだ。光は黒紙の上で少し濃くなった。真っすぐではない。呼ばれて返ろうとして、途中で横へ逃げた線のように見える。
「通信鏡の反射ではありませんね」
「キールも、何ですのって顔してた」
「でしょうね」
「ギータは分かる?」
ギータはすぐには答えなかった。黒紙の角を押さえ、光の震えを見ている。ダッタは、その沈黙を待った。待てた、と思う。少なくとも、答えを急かす声は出さなかった。
「通信だけの問題ではないかもしれません」
「船体?」
「可能性はあります。呼ばれても返事が届かない、というキールさんの言い方は、通信装置にも船体にも当てはまります。声を出す場所が壊れているのか、声が通る道が歪んでいるのか。それで見る場所が変わります」
ダッタは紙束を見た。
「じゃあ、次は船体?」
「私の工房でも見られます。ただ、あなたの船は古い型です。しかも、墜落で基準になる部品がいくつか動いています。通信記録の光まで絡むなら、観測資料もあった方がいい」
ギータは帳面の余白に住所を書いた。
「タダマ観測資料店。港の北側、古い風見塔の下です。船体の共鳴、風の読み、古い部品の資料が多い店です」
「観測資料店」
「店主のゴド・タダマさんは、古船の癖を見る人です。私は直接仕事を頼んだことは少ないですが、資料は確かです」
「その人に見てもらえばいい?」
「見てもらえたら助かります。ただ、今いるかは分かりません」
ギータの言い方は、命令ではなかった。行ってきてください、ではない。行くならこの店がある、という置き方だった。
ダッタは少し迷った。
キールから受け取った紙束を、ギータに渡せばそれで自分の役目は終わり、ということにもできる。ギータが後で店へ行く。店主と話す。ダッタは工房で待つ。その方が、たぶん間違いは少ない。
けれど、紙の端の光はまだダッタの方へ伸びているように見えた。
自分の船だ。
壊したのも、自分だ。
だから自分が行く、と言えば少し立派に見える。そう思った瞬間、胸の奥で熱が跳ねた。
ダッタはその熱をそのまま言葉にしないよう、息を吸った。
「僕が行ってくる」
ギータはペンを止めた。
「一人で?」
「うん。ギータは午後便の翼があるだろ」
「あります」
「だったら、僕が聞いてくる。分からないところは、分からないまま持って帰る」
言ってから、少しだけギータの顔を見た。採点されるのを待つみたいに。
ギータは採点しなかった。
「助かります」
その一言は、思ったより普通に出てきた。
ダッタの手が記録板の端を握る。助かります。その言葉が胸の奥で大きくなりかける。任された。役に立てる。今度こそ。
ギータが、こちらを見る。
「今、何か急ぎました?」
「え」
「顔が少し前へ出ました」
ダッタは反射で背筋を戻した。
「そんな見方ある?」
「あります。整備では、部品も人も前に出すぎると見落とします」
「僕は部品じゃない」
「そうですね。だから自分で止まれます」
ギータは紙束を包み直した。命令ではないのに、言葉が少しだけ残る。
自分で止まれる。
ダッタはその言葉を記録板の余白に書きかけて、やめた。今は店へ行く方が先だ。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。気をつけて」
「また、それだけ?」
「ほかに何か言った方がいいですか」
「いや。言われすぎると、たぶん僕がむっとする」
ギータは少しだけ瞬きをした。
「では、言いません」
その返事が妙に真面目で、ダッタは少し笑いそうになった。
扉を開けると、港の風が紙束を鳴らした。細い光が、北へ引かれるように伸びる。
古い風見塔の針が、遠くでゆっくり回っていた。
北側の通りは、昼前の荷運びで混んでいた。
帆布を抱えた人、部品箱を押す人、風見塔の修繕札を担ぐ人。ダッタは紙束を胸に寄せて歩いた。
角を曲がったところで、肩が何かに当たった。
「あ」
黒い札束が、石畳に散った。
相手は背の高い人だった。帽子の影が深く、顔はよく見えない。
「すみません」
ダッタは慌ててしゃがんだ。
札はどれも黒かった。店の用件札より薄く、端だけが妙に硬い。表には文字がある。けれど、拾おうとすると読めなくなる。
保留。
そう見えた気がした。
「急ぐなら、急がない方がいい」
相手が言った。
声は低かった。忠告にも、独り言にも聞こえた。
「え」
顔を上げた時には、相手はもう札束を抱え直していた。
「落としましたよ」
ダッタは拾った札を差し出す。
相手は受け取らなかった。
「それは、そちらの紙だ」
「僕の?」
ダッタが手元を見ると、黒い札はキールの通信記録の間に半分だけ挟まっていた。いつ入ったのか分からない。
もう一度顔を上げる。
相手は人混みの向こうへ消えていた。
ダッタは黒い札を抜こうとして、やめた。紙束の光が震えている。知らない札を道端に捨てるのも、誰かの落とし物を勝手に外すのも、どちらも違う気がした。
店で聞けばいい。
そう思って、ダッタは紙束を抱え直した。




