7. 現実帰還:小さな実行と記録
視界が戻った時、最初に聞こえたのは通信鏡の音だった。
灰色の上着の男は、まだ口を開きかけたままだった。現実では、ほんの数秒しか経っていないのかもしれない。後ろの客は、まだ同じ姿勢で立っている。
キールは連絡卓の向こうに立っていた。
笑っていなかった。
そのことに、ダッタは少し遅れて気づいた。キールは笑顔を消しても、そこにいた。ただ、顔色は悪く、手は卓の端を押さえている。
男が苛立った顔で言った。
「何だよ、急に黙って」
キールは息を吸った。
「昨日」
声は小さかった。
「あなたが窓口の外で待っていて、近づいてきた時」
男の眉が動く。
「私は怖かったです」
男は一瞬、言葉をなくした。それから顔を赤くする。
「は? 俺が何かしたって言うのかよ」
ダッタの喉が動いた。
けれど、足元にまだ糸の感触が残っていた。
ダッタは口を閉じた。
「窓口で話したことは、仕事の記録として扱ってほしかったです。私個人への合図として受け取られると、困ります」
「昨日は優しかっただろ」
「仕事です」
短い言葉だった。
男が一歩近づこうとした瞬間、キールは一歩下がった。
「これ以上、近づかないでください」
通信鏡のひとつが、低く鳴った。
キールは横の職員へ顔を向けた。
「すみません。こちら、窓口外の対応をお願いします。昨日からの件として、記録にも残してください」
職員はすぐに頷いた。男は何か言いかけたが、二人に間へ入られると、口を曲げて身を引いた。
「受付札を通せばいいんだな」
その言い方は、ただ引き下がる人のものではなかった。
キールの肩が震えた。けれど、彼女は笑わなかった。
「必要な連絡は、受付札を通してください」
男は返事をせず、通路へ消えた。職員の一人が、卓の横にある小さな記録板へ何かを書き込む。
ダッタは、何を言えばいいか分からなかった。大丈夫ですか、と聞きかけて、それも違う気がした。だから、受け取り札をそっと卓の上に置いた。
キールはそれを見て、ようやく息を吐いた。
「すみません。お待たせしました」
「待ちます」
ダッタは言った。
「急がなくていいです。記録だから」
キールは小さく瞬きをした。
それから、引き出しからダッタの記録板と薄い紙束を取り出した。紙束には通信塔の応答時刻、搬送便の通過位置、拾われなかった信号の欄が並んでいる。
「墜落直前、北東の通信塔には反応がありませんでした。でも、その少し前に、第三搬送便が弱い信号を拾っています」
キールは指で線を追う。
「この位置なら、船の通信装置そのものが完全に死んだというより、返す力が弱くなっていた可能性がありますわ」
「返す力」
「呼ばれても、返事が届かない状態です」
その言葉が、少しだけキール自身のことのように聞こえた。
ダッタは言わなかった。
「ヴァットさんに、この紙束を渡してください。写しですので、書き込みはしないでくださいまし」
「分かりました」
ダッタは記録板と紙束を受け取った。
そのとき、紙束の端に細い光が見えた。
通信鏡の反射ではない。紙の端から、ほどけた糸のような光が一本だけ伸びている。指で触れると、熱くはない。ただ、そこに小さな震えがあった。
キールもそれを見た。
「何ですの、それ」
「分からない」
ダッタは正直に言った。
「でも、ギータに見せます」
キールは少しだけ笑った。今度の笑顔は、上から糸で引かれたものには見えなかった。疲れていて、まだ怖さも残っている。けれど、自分の顔に戻ろうとしている笑い方だった。
「それがいいですわ」
窓口を離れる前に、一度だけ振り返る。
キールは次の通信鏡へ手を伸ばしていた。指はまだ震えている。けれど、鏡の光が点いた時、彼女はすぐに笑わなかった。
一度息を吸ってから、言った。
「通信照合所です。ご用件を、順に伺います」
順に。
その言葉を、ダッタは記録板の上に置いた。
港の外へ出ると、風が強くなっていた。飛べる船の帆が鳴り、係留縄が張る。ダッタの船はまだ飛ばない。炉心も、通信も、まだ足りない。
けれど、紙束の端の細い光は消えなかった。
ダッタは立ち止まり、記録板の余白に一行だけ書いた。
聞く前に、分かったことにしない。
字はまだ少し荒い。
でも、読めると思った。




