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6. 傾聴と共感:聞く側へ変わる

ダッタは一歩離れた。


「ケルゴさん」


糸の奥で、キールの輪郭が揺れる。


「何が、起きたんですか」


自分でも頼りない声だった。助言ではない。答えでもない。ただ、置いただけの問いだった。


糸の締まりが、ほんの少し緩んだ。


けれど、ほどけはしない。


「何がって」


糸の奥で、キールの声が擦れた。


「見ていたのでしょう。聞いていたのでしょう。なら、分かるはずですわ」


ダッタは、分かる、と言いたくなった。でも、それはまた、先に答えを取ることだった。


「分かりません」


言った瞬間、恥ずかしさが喉をこすった。


「見えたものはあります。でも、ケルゴさんがどうだったのかは、僕が決めることじゃないです」


喉元に絡んでいた糸が、ほんの少しだけ浮いた。落ちたのではない。ただ、息の通り道から離れた。


「・・・。昨日」


声がした。


「昨日、あの人が近づいた時」


水面に、通信照合所の窓口が映る。男の手が卓に置かれる。キールの指が札の角をそろえる。


「怖かった」


その一言で、喉元に絡んでいた糸が一本ほどけた。


ほどけた糸は地面に落ちず、水面の上で細く揺れた。濁っていた水が、そこだけ薄く澄む。


ダッタは何も言わなかった。


言わないことが、こんなに難しいとは思わなかった。すぐに、じゃあ、だから、次は、と言いたくなる。言えば自分が何かしたことになる。沈黙していると、ただ立っているだけの人間になる。


でも、今はそれでいいのかもしれない。


「怖かったのに」


キールの声は震えていた。


「笑えば、何とかなると思った」


水面の中で、窓口のキールが笑う。笑った口元に糸がかかり、上へ引かれる。


「笑えば、相手も怒らない。後ろのお客さまも困らない。アタイはまだ、役に立つ人でいられる」


糸の声が、キールの声に重なる。


必要とされなければ。


嫌われたら。


ひとりになる。


ダッタは喉まで来た言葉を飲み込んだ。それは違う、と言いたかった。ひとりにならない、と言いたかった。でも、それを今の自分が言っても、また糸を締める気がした。


「どう扱ってほしかったんですか」


問いを置く。


「仕事として」


声は細い。


「仕事として扱ってほしかった」


手首に絡んでいた糸が、ゆっくりほどける。


糸の奥に、薄い羽の影が見えた。まだ濡れていて、開くには早い。けれど、そこに羽があることは分かった。


「話を聞いたのは、記録のためでした。困っていたから、手伝っただけでした。でも、アタイがちゃんと言わなかったから」


キールの声が詰まる。


「言ったら、冷たいと思われる気がした」


水面に別の景色が映る。


小さなキールが、誰かに向かって首を横に振りかける。すぐに笑う。笑った瞬間、天井から糸が降りて、口元を吊り上げる。


「嫌だって言ったら、面倒な子になる。怖いって言ったら、場を壊す。だから、アタイが合わせればいいって」


水面の濁りが、少しずつ薄くなった。


完全に澄んだわけではない。断ったら、冷たい人になる。聞いてあげたんだから、最後まで聞きなさい。その声は消えずに、水底で揺れている。


ダッタは記録板を持っていなかった。けれど、心の中で一行ずつ書いている感覚があった。


昨日、男が近づいた。


ケルゴさんは怖かった。


仕事として扱ってほしかった。


合わせれば済むと思っていた。


言えば冷たいと思われる気がした。


そのどれも、ダッタの答えではなかった。キールの言葉だった。


「今、言うなら」


ダッタはゆっくり聞いた。


「あの人に、何を頼みたいですか」


長い沈黙があった。


糸の声が騒ぐ。


怒らせる。


離れていく。


必要とされなくなる。


また、ひとりになる。


キールの輪郭が震えた。


「これ以上」


声が途切れる。


ダッタは待った。


「これ以上、近づかないでください」


庭の奥で、紙の蝶が一枚落ちた。


落ちた紙は地面に触れる前に、細い光へ変わった。通信鏡の水色に似ている。けれど、鏡の冷たい光ではなかった。ほどけた糸の先に残る、小さな熱のようだった。


光はすぐに出口にはならなかった。


細い線になって、継ぎ接ぎの庭の奥へ伸びる。途中で何度も途切れながら、まだ垂れている糸の隙間を抜けていく。


糸はまだ完全には消えない。


キールも、すぐには自由にならない。


喉元の糸は緩んだ。手首の糸もほどけた。水面の濁りも薄くなった。けれど、肩や背中にはまだ細い糸が残っている。歩けば、きっと引っかかる。


二人は、光の線に沿って歩き出した。


ダッタは前に出すぎないようにした。糸がキールの肩で震えるたび、足を止める。早く、と言わない。こっちです、と決めつけない。


途中、糸が一度、キールの足首に絡んだ。


聞いてあげたんだから、最後まで。


声がした。


ダッタは反射的に手を伸ばしかけた。けれど、手のひらを途中で開いたまま止めた。キールが自分で足を動かすと、糸は切れないまま、地面に影を落とすだけの軽さになった。


庭の端に、通信照合所の連絡卓が見えた。現実の形が、薄い紙の向こうにある。


ただ、傷口から流れていた液体は止まった。水面は静まり、そこに映っているのは過去ではなく、今のキールの輪郭だった。


ダッタは、やっと息を吐いた。


「聞く前に、分かったことにしていました」


その言葉は誰かを助けるためではなく、自分の記録の一行のように落ちた。


「それが」


糸の奥で、キールが小さく笑った気がした。


「一番怖い時もありますわ」


上から垂れていた糸が、一本だけダッタの足元へ落ちた。それは絡まるためではなく、道を示す線のように、庭の出口へ向かって伸びていた。

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