表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/48

5. 心象世界:庭、戸惑い、糸

落ちた先は、庭だった。


赤、青、白、黄色。どの花も鮮やかで、整っている。細い道の両側には木が並び、枝から小さな紙の蝶が吊られていた。遠目には綺麗だった。


だが、足を踏み出すと分かった。


花びらは布の切れ端だった。木の幹には別の木の皮が縫い付けられ、葉は紙でできている。道の石も、大きさの違う板を色糸で縫い合わせたものだった。


綺麗だ。


綺麗に、してある。


ダッタは息を呑んだ。


また入った。


ギータの時とは違う。あの時の通路は、閉じた工房の奥へ続いていた。ここは明るい。明るすぎるくらいだ。けれど、足元の板はすべて縫い合わされている。どこか一箇所がほどければ、庭ごと崩れそうだった。


「ここは」


声がした。


キールが少し離れた場所に立っていた。窓口の服のまま、手に札も持たず、周囲を見回している。


「どこですの」


彼女の声には、いつもの窓口の柔らかさが残っていなかった。驚きと警戒だけがある。ダッタを見た目にも、助けを求める色はなかった。


「分からない。でも、たぶん」


ダッタは言いかけて、迷った。


心の中です、と言えばいいのか。あなたの、と言っていいのか。それもまた決めつけになる気がした。


「前にも、似た場所に入ったことがあります」


「似た場所?」


「人の中みたいな場所です」


キールの顔が強ばった。


「アタイの中だって言いたいんですの」


その言い方は、やわらかくなかった。


「分からない。けど、そうかもしれない」


「勝手に入らないでくださいまし」


ダッタは何も返せなかった。


上から糸が垂れていた。光を受けると水色に見え、影に入ると薄灰になる。一本一本は頼りなく見えるのに、風もない庭でゆっくり揺れている。


どこからか声がした。


騒がせないで。


別の糸が、耳元をかすめる。


相手も困っているんだから。


キールの肩が小さく動いた。


「今の」


「聞こえた?」


キールは答えなかった。答えない代わりに、右手で左の袖口を握った。


あなたが少し我慢すれば済む。


断ったら、冷たい人になる。


「ケルゴさん」


ダッタは一歩近づいた。


「さっきのこと、怖いなら怖いって言えば」


その瞬間、上から一本の糸が落ちた。


糸はキールの手首に絡んだ。


キールが息を止める。


「今、何か」


「待って、ほどきます」


ダッタは手を伸ばした。


「触らないで」


キールの声が鋭くなった。


糸がもう一本落ち、今度は肩にかかる。


聞いてあげたんだから、最後まで聞きなさい。


笑って。


笑っていれば、まだここにいられる。


キールの口元が動いた。笑おうとしたのか、言い返そうとしたのか、ダッタには分からなかった。


「大丈夫。今、出します」


「大丈夫じゃ」


キールの言葉は途中で切れた。糸が喉元にかかったからだ。


「怖いなら、怖いって言えばいい。そうしたら」


ぴしり、と音がした。


キールの周りの糸が急に増えた。手首、肩、喉、口元。一本ずつが細いのに、重なると輪郭を隠していく。


「やめて」


声は小さい。糸に吸われて、最後まで届かない。


ダッタはそこで、ようやく自分の言葉が何かを動かしていることに気づいた。


助ける方へではない。


締める方へ。


「違う。僕は」


言い訳の言葉が喉まで来た。


助けようとした。


そう言いかけた瞬間、キールの周りの糸に細い傷が走った。まだ繭にはなっていない。けれど、糸の束が青い液体をにじませた。


液体は庭の石の隙間に広がり、水面のようになった。


そこに、別の景色が映る。


狭い廊下。白い壁。椅子に座る小さな少女。膝の上で手を重ね、笑っている。笑顔はキールによく似ていた。


誰かの声がする。


「騒がせないで」


別の声。


「相手も困っているんだから」


また別の声。


「あなたが少し我慢すれば済む」


少女は笑っている。


でも、膝の上の手は白くなるほど握られていた。


ダッタは一歩下がった。


キールの周りの糸は、今や繭の形になりかけていた。


「アタイを」


糸の奥で、唇だけが動く。


「分かったことにしないで」


ダッタは口を閉じた。


糸の声はまだ続いている。


断ったら、冷たい人になる。


聞いてあげたんだから、最後まで聞きなさい。


必要とされなければ、いなくても同じ。


笑って。


笑っていれば、まだここにいられる。


ダッタは糸を見た。破れば出られると思った。


繭の表面は薄い。指をかければ、どこか一か所くらいは裂けるかもしれない。そこからキールを引き出せばいい。そう考えた瞬間、手が勝手に前へ出た。


「すみま」


謝ろうとした。


けれど、声の先が出る前に、繭の表面がきしんだ。細い糸が何本も同時に張り、キールの喉元を締めるように集まる。水面が濁り、さっきまで映っていた小さな少女の顔が、揺れて見えなくなった。


「っ」


キールの息が、糸の奥で詰まった。


ダッタは言葉を止めた。


謝ればよかったのではないか。傷つけたのは自分だ。すみません、と言うべきだ。けれど、それを言ったら、キールはどう答えればいいのだろう。大丈夫ですわ、とまた笑うしかなくなるのではないか。


助けたいと思っていた。けれど今の自分は、傷つけた自分を早く終わらせたいだけではないのか。


ダッタは伸ばした手を見た。糸に近づいた指先に、薄い水色の液体がついている。


炉心を無理にこじ開ければ壊れる。異音がしたから炉心だと決めつければ、翼の歪みを見落とす。記録を見ずに部品を外せば、壊れていない場所まで傷つける。


修理は、当てることではない。


相手の声を聞く前に答えを当てに行くのは、記録を見ずに部品を外すのと同じだ。


人の痛みも、本人の声を聞く前に触れば壊す。


ダッタは糸を引く手を下ろした。


けれど、手を下ろしただけで何かが良くなるわけではない。キールはまだ糸の奥にいる。


ダッタは一歩、後ろへ下がった。


逃げるためではない。触らないためだった。


糸の揺れを見る。キールの呼吸がどこで浅くなるのか。水面がどの声で濁るのか。分からないことを、分からないまま見る。


見たことを書いてください。決めつけないこと。


ギータの声が、今度は注意ではなく、手元を照らす灯りのように残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ