5. 心象世界:庭、戸惑い、糸
落ちた先は、庭だった。
赤、青、白、黄色。どの花も鮮やかで、整っている。細い道の両側には木が並び、枝から小さな紙の蝶が吊られていた。遠目には綺麗だった。
だが、足を踏み出すと分かった。
花びらは布の切れ端だった。木の幹には別の木の皮が縫い付けられ、葉は紙でできている。道の石も、大きさの違う板を色糸で縫い合わせたものだった。
綺麗だ。
綺麗に、してある。
ダッタは息を呑んだ。
また入った。
ギータの時とは違う。あの時の通路は、閉じた工房の奥へ続いていた。ここは明るい。明るすぎるくらいだ。けれど、足元の板はすべて縫い合わされている。どこか一箇所がほどければ、庭ごと崩れそうだった。
「ここは」
声がした。
キールが少し離れた場所に立っていた。窓口の服のまま、手に札も持たず、周囲を見回している。
「どこですの」
彼女の声には、いつもの窓口の柔らかさが残っていなかった。驚きと警戒だけがある。ダッタを見た目にも、助けを求める色はなかった。
「分からない。でも、たぶん」
ダッタは言いかけて、迷った。
心の中です、と言えばいいのか。あなたの、と言っていいのか。それもまた決めつけになる気がした。
「前にも、似た場所に入ったことがあります」
「似た場所?」
「人の中みたいな場所です」
キールの顔が強ばった。
「アタイの中だって言いたいんですの」
その言い方は、やわらかくなかった。
「分からない。けど、そうかもしれない」
「勝手に入らないでくださいまし」
ダッタは何も返せなかった。
上から糸が垂れていた。光を受けると水色に見え、影に入ると薄灰になる。一本一本は頼りなく見えるのに、風もない庭でゆっくり揺れている。
どこからか声がした。
騒がせないで。
別の糸が、耳元をかすめる。
相手も困っているんだから。
キールの肩が小さく動いた。
「今の」
「聞こえた?」
キールは答えなかった。答えない代わりに、右手で左の袖口を握った。
あなたが少し我慢すれば済む。
断ったら、冷たい人になる。
「ケルゴさん」
ダッタは一歩近づいた。
「さっきのこと、怖いなら怖いって言えば」
その瞬間、上から一本の糸が落ちた。
糸はキールの手首に絡んだ。
キールが息を止める。
「今、何か」
「待って、ほどきます」
ダッタは手を伸ばした。
「触らないで」
キールの声が鋭くなった。
糸がもう一本落ち、今度は肩にかかる。
聞いてあげたんだから、最後まで聞きなさい。
笑って。
笑っていれば、まだここにいられる。
キールの口元が動いた。笑おうとしたのか、言い返そうとしたのか、ダッタには分からなかった。
「大丈夫。今、出します」
「大丈夫じゃ」
キールの言葉は途中で切れた。糸が喉元にかかったからだ。
「怖いなら、怖いって言えばいい。そうしたら」
ぴしり、と音がした。
キールの周りの糸が急に増えた。手首、肩、喉、口元。一本ずつが細いのに、重なると輪郭を隠していく。
「やめて」
声は小さい。糸に吸われて、最後まで届かない。
ダッタはそこで、ようやく自分の言葉が何かを動かしていることに気づいた。
助ける方へではない。
締める方へ。
「違う。僕は」
言い訳の言葉が喉まで来た。
助けようとした。
そう言いかけた瞬間、キールの周りの糸に細い傷が走った。まだ繭にはなっていない。けれど、糸の束が青い液体をにじませた。
液体は庭の石の隙間に広がり、水面のようになった。
そこに、別の景色が映る。
狭い廊下。白い壁。椅子に座る小さな少女。膝の上で手を重ね、笑っている。笑顔はキールによく似ていた。
誰かの声がする。
「騒がせないで」
別の声。
「相手も困っているんだから」
また別の声。
「あなたが少し我慢すれば済む」
少女は笑っている。
でも、膝の上の手は白くなるほど握られていた。
ダッタは一歩下がった。
キールの周りの糸は、今や繭の形になりかけていた。
「アタイを」
糸の奥で、唇だけが動く。
「分かったことにしないで」
ダッタは口を閉じた。
糸の声はまだ続いている。
断ったら、冷たい人になる。
聞いてあげたんだから、最後まで聞きなさい。
必要とされなければ、いなくても同じ。
笑って。
笑っていれば、まだここにいられる。
ダッタは糸を見た。破れば出られると思った。
繭の表面は薄い。指をかければ、どこか一か所くらいは裂けるかもしれない。そこからキールを引き出せばいい。そう考えた瞬間、手が勝手に前へ出た。
「すみま」
謝ろうとした。
けれど、声の先が出る前に、繭の表面がきしんだ。細い糸が何本も同時に張り、キールの喉元を締めるように集まる。水面が濁り、さっきまで映っていた小さな少女の顔が、揺れて見えなくなった。
「っ」
キールの息が、糸の奥で詰まった。
ダッタは言葉を止めた。
謝ればよかったのではないか。傷つけたのは自分だ。すみません、と言うべきだ。けれど、それを言ったら、キールはどう答えればいいのだろう。大丈夫ですわ、とまた笑うしかなくなるのではないか。
助けたいと思っていた。けれど今の自分は、傷つけた自分を早く終わらせたいだけではないのか。
ダッタは伸ばした手を見た。糸に近づいた指先に、薄い水色の液体がついている。
炉心を無理にこじ開ければ壊れる。異音がしたから炉心だと決めつければ、翼の歪みを見落とす。記録を見ずに部品を外せば、壊れていない場所まで傷つける。
修理は、当てることではない。
相手の声を聞く前に答えを当てに行くのは、記録を見ずに部品を外すのと同じだ。
人の痛みも、本人の声を聞く前に触れば壊す。
ダッタは糸を引く手を下ろした。
けれど、手を下ろしただけで何かが良くなるわけではない。キールはまだ糸の奥にいる。
ダッタは一歩、後ろへ下がった。
逃げるためではない。触らないためだった。
糸の揺れを見る。キールの呼吸がどこで浅くなるのか。水面がどの声で濁るのか。分からないことを、分からないまま見る。
見たことを書いてください。決めつけないこと。
ギータの声が、今度は注意ではなく、手元を照らす灯りのように残った。




