十九
実家挨拶はつつがなく進行した。
緊張したけど。
小春が適宜フォローを入れてくれたし、麻子さんも夕飯の席に一緒に座ってくれたから味方が増えた感じがしたし、小春のお母さんはとても穏やかな方だったので私のちょっと失敗したところも笑って許してくれた。
何を失敗したのかといえば、なんというか、カレーをテーブルの上にこぼしたりとか、そういう手元の狂いだった。緊張してた。本当に緊張してた。手が震えてた時もあった。こんなにも心臓に悪い食事は人生初だ。
その後、夕飯が終わったところで緊張の時間は一度終わった。
小春が私を強引に風呂場へ押し込んだことにより結果的に一人になり、そこで衆人環視から解放されたというわけだ。いや、人の家だからまだ緊張はあるけど。
ちなみに小春は私の着替えをわざわざ部屋まで戻って取りに行った。そんな面倒なことをするくらいなら浴室へ連行しなくてもよかったのでは。人の荷物の中から着替えを探して取り出すなんて面倒だろうに。
そのことを湯上がりに尋ねたところ、小春はあっけらかんとこう答えた。
『琴奈の下着のサイズを把握できたからちょうどよかったよ』
その回答に思わずため息をついてしまったことは言うまでもない。
いや、確かに同棲するならそういう情報はわかっていた方が便利だけども。
便利なんだけど、それは本人の前で説明した上で訊いてくれた方がいいんだよ。
……え、まさか最初からそれを狙ってたとか?
いや、でも、小春の悪知恵からすればその可能性もありうる……
ということは、小春は私の下着を勝手に触る趣味をお持ちの変態なのでは?
……まあいい。私もゆくゆく触り返せばいいんだ。うんうん。
などと思考している間にさっさとお風呂に行った小春を見送り、残された私は荷物を整理しながら部屋の中をぼけーっと見渡しながら冷たいお茶を飲んで休憩する。これも小春が用意してくれた。
にしても、小春の部屋は本当に広いし綺麗だし、なんというか余裕がある。
余裕があるということは、そこに気品が生まれる。
物で溢れ返った部屋、狭い部屋、生活感の強い部屋。そこに気品はないと思う。
余裕があるからこそ、この部屋の空間にオーラが出てくるというか、そんな風に感じる。ホテルのスイートルームに気品を感じるのは広くてすっきりしているから。
昔、友達に著名なテーマパークの公式ホテルのスイートルームの写真を見せてもらったことがある。もう圧巻だった。空間全体から気品が溢れていて、余計なものはこの空間に要りませんって宣言してるみたいで衝撃だった。
それと近しいものを小春の部屋からも感じる。
物が少ない、整然としている。しかし広くて明るくて柔らかい雰囲気がある。
私の部屋も物は少ないと思うけど、質素だし狭いし、冷たい印象の方が強いと思う。でも、小春の部屋は違う。温かい印象がある。
……とはいえ本当に物が少ないなあ。自分を棚に上げて言うけど。
私は保護者が機能してなかったから仕方ないものとして、小春の家なら親御さんが何かを買い与えてきそうなものだけど。すぐ捨てちゃうのかな?
この部屋の収納に入りそうなものなんてたかが知れているというか、生活に関わるアイテムでいっぱいになりそうなんだよね。娯楽の品が収納しきれなそう。
ほら、あそこの化粧台の横に置いてあるカラーボックスくらいだよね、趣味の物が入りそうなところって。あ、じゃあちょっと拝見しようかな。
…………
うーん、これはストレッチ用の道具だね。
体幹を鍛えるバンドみたいなやつとか、軽めのダンベルとか。
こっちの段は本が詰まってる。
文庫本とか、あと実用書も結構ある? 勉強熱心だなあ。
…………
全然娯楽の物がない。エンタメは全部スマホとパソコンで済ませてるのかな。
でも今の時代はそれで毎日楽しめちゃうし。
はあ、何の戦果も上げられず探検終了か。残念。
…………
って、あれ?
今気付いたんだけど、化粧台の裏にもなにか収納みたいなものがある?
完全に隠れてたけど横から見たらウォークインクロゼットっぽいよね?
…………
怪しいな。もしやここに小春のやましいものが隠されてるのかも。
見ていいよね? だって小春は私の下着を勝手に取り出してサイズを確認したもんね?人の下着を触ったあげく内側まで覗いたんだよね? そんなやましい行為をした小春への反逆としてこれは適正な範疇だよね?
…………
よし、見ちゃおう。
化粧台はそんなに重くないからすぐずらせるし。
おっと、本当にウォークインクロゼットだ。この見た目は間違いない。
ではこのスライド式の扉を開けさせてもらって――
…………
…………
ウォークインクロゼットの中には、洋服以外のものも収納されていた。
なにか大きなプラスチックの箱に詰められている雑多なものたち。
その箱の上に色々と積まれたり、床に放置されているものたち。
どう見ても部屋の中の収納には入り切らないものもある。
こうやって部屋の奥に、隠れた場所に保管されているそれらを見て、私は思った。
たぶん、小春の心の穴を埋めるものはこれなんだって。
達観していて、いつもすごくて、聡明で理知的な人。
そんな小春が抱えている心の穴。完璧な子じゃないという証拠。
そして、それらを隠している理由も、なんとなく想像できた。
恐らく人に知られることを避けたいと思うだろう。
だって……………………だし。
多分このウォークインクロゼットは、それらを隠すことが主目的になっている。
もちろん季節外れの洋服やコートをしまう場所でもある。だけど、それ以上に『それら』を隠して、親御さんや麻子さんの目にも映らないようにしたかったんだと思う。
そして、何より、少し前にこの家を訪ねてきた数人の友人の目にも。
だから、私は小春がお風呂から戻ってくる前に全てを元通りに戻す。
ウォークインクロゼットの中のいろいろなものを目に焼き付けて、それから扉を閉じて、化粧台も全く同じ位置に戻して、一切の違和感がないようにする。
もし私がこれを見たと知ったら、小春は相当動転するだろう。
まだそれを言ってはいけないと思った。
―――
「琴奈、今日はたらまめの続きを見ようよ」
「うん。この前の視聴会の続きってことだよね?」
「そうそう。あと四話だから最後まで見れるんじゃないかな」
「よし、見よう」
というわけで何も知らずに戻って来た小春と楽しい視聴会リベンジが始まった。
今日は世俗のお菓子ではなくカットフルーツをテーブルに並べ、大画面のテレビでゆったりまったり視聴する。小春はカットフルーツがお気に入りなのかな?
「やっぱり果物を摂るのは健康にいいし、重くないから夜食にぴったりだよね」
「うんうん、そうだね…………って、え?」
え、心を読まれた?
「琴奈がそんなに果物を凝視してるから何か考えてるんだろうとは思ったよ」
「…………」
「琴奈は顔に出やすいからね」
「そ、そうなんだ……」
顔に出やすいのか、ショック。
顔に出ないように頑張ってきたんだけど……小春のせいかな。きっとね。
そんな顔に出にくい小春と出やすい私で、ころころと表情の変わるアニメを見る。
色々な感情を顔に出して、声に出して、行動で表して、キャラクターたちは物語を動かす。まるで喜怒哀楽の四重奏かのようにたくさんの感情が生まれては消えたり、時々消えなかったり、そんなやり取りを画面越しに見守る。
今までの自分だったら、時間の無駄だと思って見ようとも思わなかった。
人の不毛なやり取りをわざわざ自分が見届けることに何の価値も感じなかった。
「小春はさ、この中で好きなキャラクターっているの」
「うん」
「どの子?」
「ポニテの子」
「あー、元気がある子ね」
だから、見ながら人の好みを訊いてみようと思うのも珍しいことだと我ながら思った。小春がどう思ってこの作品を見ているのかに近付きたいと思ったのかも。
「人を明るくできるって、いいことだと思う」
「うん。あの子みたいに周りを明るくできるってすごい」
じゃあ小春も周りを明るくできる人に憧れてるのかなって推測したり。
うん、自分がちょっとずつ変わってる感じがする。
「じゃあさ、琴奈はどの子が好き?」
「……そうだね、あの黒髪の落ち着いてる子」
「うんうん。予想通りだったよ」
「バレてたかあ」
小春がそんな質問と一緒に視線を私へ向けた。
画面見てないけどいいのかな。
「琴奈は、落ち着いているというか、わたしと同じで内向的だよね」
「そう、だね」
「だから友達といても自分は一歩引いてるし、騒がしくなるとそこには関わろうとしないし、自分のペースを保って生きていたいタイプ」
「まるで私の人生を見てきたような言い方」
「なんとなく想像はつくよ。でも、詳しいところは琴奈から聞きたいな」
小春はもう完全に画面を見ていない。
ゆっくりと進む物語を背景に、こちらをまっすぐ見つめていた。
その瞳からは逃れられないって思った。
「小学生の頃は、ネグレクトのせいで家事を自分でしないといけないからそれに必死で、友達と遊びたいとか思わなかった。たまに誘われても、早く帰ってご飯を作らなきゃって思ってたから、上の空だったと思う」
「うん」
「中学生になってからは、ちょっと余裕ができたし、家事を楽にこなす知恵もついたし、友達との付き合いも必要なのかなって思って、同じクラスの子と遊んだりしてたよ。あんまり頻度は高くなかったけど」
「うん」
小春は静かに聞いてくれる。相槌を打ってくれる。
「でも、やっぱり合わなかったよね。元気で、外向きで、仲間の輪を大事にする子たちとは合わなかったよ。結局、三年生の春にさ、私が一人暮らしで必死に奨学金を取りに行ってるってことが知れて、そこでもう声を掛けられなくなった」
「そっか」
あの時の同情に満ちた視線は忘れられない。
今でもあまり思い出したくないのに忘れられない。
「まあ言ったのは私なんだけどね。流れでさ、クラスのそれなりの人数が聞いてるところで、生活に困ってるんだって言っちゃって」
「仕方ないことだよ。琴奈は悪くない」
「でもさ、あの時の私はたぶん、もう友達と関わるのが辛いって言いたかったんだと思うよ。そういう本心があったから、ブレーキを掛けられなかった。後悔もしてるけど、それ以上に自分を苦しめなくて済むんだっていう安心もあった」
「よく頑張ったね」
……小春は優しいなあ。
「それからはずっと一人だよ。週に一度だけ約束して喋っている子はいるけど」
「琴奈に深入りしてこないあの子だよね」
「そう。でも、それ以外は本当に何もない。バイト先だけだよ、雑談なんてするの」
二千花と紬さんとは楽しく喋れる。
あの二人も深入りしてこないし、学校での自分は知られていないし。
「だから、本当の意味で自分が遠慮せずに喋れるのは小春だけ」
ふと目をやった画面の中では主人公三人が顔を寄せ合って楽しそうに言葉を重ね合っている。その姿を羨ましいとは思わない。私には小春がいるし。
そんな私の言葉に、小春は嬉しそうに頷いて、それから頭を撫でてくれた。
その手のひらが心地よくて、いつか小春の頭を撫でた時のことを思い出す。
好きな人に優しくしてもらうってこんなに嬉しいことなんだなって。
たぶん、昔の自分はこんなことできなかった。
こうやって誰かに甘えてたら、自立なんてできないし。
一人で生きていけないとまた誰かに頼らざるを得なくなる。
でも、今はそこまでは思ってない。
自立はしたい。でもそれだけじゃなくて、小春がいてくれる。
もし私が大学生になって生活が苦しくなったとする。
返済不要の奨学金が取れなかったり、授業料無償枠に入れなかったとする。
すると家計は圧迫される。バイトを増やさないといけなくなったり、生活費を削らないといけなくなったりする。それがあまりにも怖くて、まともに生きられないんじゃないかって、あの人たちの親に頼らないといけなくなるんじゃないかって、だから今まではこうして勉強と貯金に必死になってきた。
でも、今は小春がいる。
私が苦しいって言ったら金銭的にも精神的にも助けてくれる。
それはもう誰かに甘えてるんじゃなくて、人生のパートナーに助けてもらうことであって、それは私がその先の人生で返せばいい。
小春の後ろにはご両親がいて、金銭面には全く問題がない。
その事実がすごく心強い。人の家のお金に頼るなんてどうだろうって思うこともあるけど、だけどそれでも、小春と私が二人とも困ることがあってもきっと助けてくれるんだろうって思うと安心する。
弱音に聞こえそうだけど……本当に、ただ安心してる。
もうこれ以上自分に無理をさせなくてもいいんだって。無理をしているとも気付かずに無理をしてきた自分に、これ以上頑張らせなくてもいいんだって、そう思えるだけで心も身体も楽になる。もう苦しまなくていいんだよって。
これ以上自分と自分の心に無理をさせなくても、私は安心して生きていける。
小春に頭を撫でてもらっている時間は、それを実感できる時間だ。
別に小春に母性を求めているわけではないし、私も小春の頭を撫でたい。
小春の撫でられてる時の嬉しそうな可愛らしい笑みをまた見てみたいと思う。
頭を撫でるという行動は撫でる側にも心の安らぎを与えてくれる。
でも、今はこうして撫でてもらうのが一番いいなあ。
小春が守ってくれる感じがする、色々なものから。
頑張らないと生きていけないって囁いてくる昔の自分から、そして、人に甘えてたら自立できないって脅してくる昔の自分から、小春が守ってくれる。
こんなに幸せな時間、十五年生きてきて初めてかも。
「ふふっ、こんなに無防備な琴奈なら何を聞いても答えてくれそうだね」
「……何でもは答えない」
「むむ、それはダメだったかあ」
顔を上げたら嬉しそうに笑っている小春がいたので、牽制はしておく。
その表情は好きだからもうちょっと見せてほしいけど。
「じゃあギターについて聞こうかな」
「それならいいけど」
「どうして弾き始めたの? 勉強とも自立とも関係ないことだよね?」
あぁ、それね。
確かに私の目指していたものとは違う方向の趣味だし。
まあ趣味と呼べるほどのものじゃなくて、正確に言うと――
「現実逃避」
「現実逃避?」
「楽器弾いてるとさ、無心になって全部忘れられるから」
「なるほど。確かにピアノも似てるところがあるよ」
「だよね」
楽器はそういうところがある。
演奏って集中するし、とにかく意識を演奏することに向けざるを得ない。
そうやって静かに集中していると俗世のいろんなことを忘れられる。
そういえば二千花は家の掃除をしていると無心になれるって言ってたけど、それと近い原理かもしれない。現実から意識を切り離せる行為。
「日々の生活で辛いことも、勉強で疲れたことも、学校で心が擦り減ったことも、全部忘れて無心になって、自分の演奏した音に耳を傾けるっていう」
「それが琴奈の心の休息になってたんだ」
「うん。世界が汚くても音楽は綺麗だし裏切らない」
「……琴奈らしい言葉だね」
「そりゃどうも」
今のは褒められたのかな……わからない。どっちだろう。どっちでもいっか。
「アコギは中古のすっごい安いやつを小学生の時に買ってね。教則本を見ながら練習してた。あの人たちの暴言を聞いちゃった頃だったから、アコギに逃げて忘れようとしてたのかも」
「琴奈の心が生存戦略として編み出した現実逃避ってこと?」
「たぶん。それで長時間没頭してたから上達したんだろうね」
「それが今に繋がってるんだ」
「そう。手慰みって言ったのはそういうこと」
気晴らしには間違いないし、辛いことを思い出すだけの時間を潰せる。
趣味というよりは暇つぶしかな。決して暇ではなかったけど……
「そういえばさ、お店で使ってる桜色のアコギはプレゼントだっけ」
「うん。楽器メーカーのキャンペーンに応募したら当たったやつ」
「すごくラッキーだよね。きっとお高いものなんでしょ?」
「三十万では足りない代物らしいよ」
「それは流石にうちでも買えないなあ」
「グランドピアノを買えた家ならこれくらいいけるって……」
「ああ、それもそっか」
……小春って頭いいけど、たまに抜けてるところあるよなあ。
まあ、それも可愛いから好きだけど。
―――
「琴奈……ごめん、もう眠くなってきた」
「ううん、気にしないで。早めに布団入る?」
「そう、しようかな……ふぁぁ……」
そんな雑談&癒しタイムが終わった時、小春が眠気を催した。
まだアニメは再生が続いているけど、小春は結構大きめのあくびをしている。
寝不足なのかと心配になって訊いてみると、今日は私が泊まりに来るから楽しみで仕方なくて昨晩はあまり眠れなかったとのこと。
――正直嬉しかった。私が来るのをそんなに楽しみにしてくれたんだって。
ただ、寝不足なのは事実なので可及的速やかにベッドに入ってもらう。
無理に起きてると身体に良くないし。
アニメは適当に停止しておいた。
このやり方で合っているかはわからないけど、まあいい。
時計を見ると時刻は二十一時半。
小春が普段寝るのは二十二時半くらいだと聞いたから、確かに普段より早く眠くなるほど疲れていたのだろう。ベッドに入ると案外すぐに寝息が聞こえてきた。
……と思うと、これはちょうどいいなと不覚にも考えてしまった。
小春のお母さんから指定された待ち合わせは二十二時だから、小春に気を遣わせずに親御さんとの会話を受けることができる。
まさか小春が寝不足なのを見抜いた上でここまで?
だとしたらすごい。
というわけで少し照明を暗くした部屋で、私も寝る準備を進めつつ、この後に待っている会話に備える。
完全初対面、しかも向こうからすれば娘と同い年の子供。
そんな相手に対していきなりサシで会話しようと提案してくる時点で、そんなに軽い話でないことは想像がつく。
十中八九、小春についての話をすることになる。
そもそも小春がいる前で私に対して気質や性格の話題を出していた時点で、あれはもう小春に対して「お相手さんにそういう話をするからね」と牽制を入れているようなものだ。
そんな状況を作っておいて私を呼び出すのであれば、ただ単にこちらを値踏みするだけで終わるとは思えない。小春について、何かしら、本人には話せないような内容が出てくると思う。
ベッドですやすやと眠っている小春を見ていると、隠し事をしている感じになってしまって申し訳ない気持ちもあるけど……ここはちゃんと話を聞いてこないと。
……あ、っていうかパジャマのままで行っていいのかな。
でも今から着替えるとなると大変だし、小春を起こしちゃいそうだし。
よし、それなら今のうちに麻子さんに聞いてこよう。
たぶんまだ一階のリビングにいるよね。
まさかその場にお母さんもいて、そのまま本題に入っちゃうとかはないよね。
うん、流石にそれはない。忙しい方みたいだし、私を待ってるわけがないし。
うんうん。じゃあ一階に行ってみよう。




