二
仙谷さんとの初対面を終えた翌日、私は昨日と全く同じ時刻に家を出て、全く同じ道のりを辿って出勤し、十二時間くらい前に見たばかりの店内へと舞い戻っていた。乃々葉さんは既に準備を始めているのでまず挨拶した。
――そう、今週末は連勤である。
ついでに言うと昨日キッチンで獅子奮迅の活躍を見せたらしい二千花も連勤である。もう一人の接客バイトが都合によりこの二日間シフトに入れないという事態に陥ったため、このようにダブル連勤となったわけだ。
ちなみに土日の営業時間は十時から十八時。
基本的にどの席も二時間制となっており、グループ客は概ね女子会を開催して二時間喋り続け、ペア客は概ね向かい合いながら喋り続け、ソロ客は概ね読書しつつ時々料理を嗜む。この空間に長居したくないという人はそうそういないし、そう思うなら初めから来ない。なんとも理に適った予約システムだ。
というわけで本日は八時半出勤。
東急東横線の元住吉が自宅最寄りなので、そこからお店の最寄りである中目黒までは各駅停車でも二十分強。学校よりは遠いが、通勤時間としてはかなり恵まれていると思う。
四月も中旬になってくると桜の見ごろもそそくさと過ぎ去ってしまいそうだが、通勤中に目黒川沿いで桜を楽しめるのもこの職場のいいところである。ありがとう店長と副店長。素晴らしい立地です。
という風にお花見を楽しんだわけだが、店に着いたらうかうかしていられない。
自分の準備をさっさと済ませて仙谷さんを迎えなければならないのだ。
着替えはさっさと済ませ、軽くメイクをする。本当に軽くだけど。
あ、その前に髪型も弄ってた。初めてシフトに入る時に店長からアドバイスされて、バイト中は基本的にサイドポニーにしている。普段は適当に背中に流しているので初めのうちは慣れなかったけど、今はもう違和感なし。
この後するのはテーブルセッティングとオーダーの練習、そしてキッチンの仕込みの手伝いである。今日は二千花にキッチンを丸投げするつもりなので、主に前二つを仙谷さんに教えながら開店まで過ごすことになる。
人に教えるというのは自分の中にある動作や意図を言語化するという難しい作業を伴う。決して苦手ではないはずだが、ある程度振り返って脳内にまとめておき、シミュレーションする。
そうしているといつの間にか二千花が来ていて―
「ことっちおはよー、朝から元気だねえ」
「そりゃあもう、新人研修するのに元気がないのは問題でしょ。あとことっちはそろそろ止めてもらって」
「やだ。ことっちはエターナルだよ? 琴奈より呼びやすいしね」
「ちょっと待って人の名前をなんだと思って」
「母音の並び的に発音しづらいんだよ」
「人の名前を発音ベースで批評しないでもらえる……?」
朝からこんな気の抜ける会話をさせないでほしい。
が、それも含めてなんだか居心地が良いと思ってしまうのが二千花との関係であり、ひいては荷稲 二千花という少女が持つ「会話センス」「人を和ませる天性のセンス」である。
……私にはないな。そんなもの。
おっと、愚痴が漏れそうになった。
先輩が愚痴っていては面目がないよ、と思ったところで後輩の登場である。
なぜか昨日の帰り際と全く同じワンピース姿で現れた仙谷さんは、休憩室でへらへらと笑っている二千花を見るなり――
「ぁ、ぇ、そ、そのっ……わ、ぁ、……」
見事に固まった。清楚系女子とギャル寄り女子の初対面の極端な例だった。
間違いなく極端なパターンである。
そしてワンテンポ遅れて彼女の存在に気付いた二千花はたったったと小走りで駆け寄り、あろうことか仙谷さんの両手をきゅっと握って――
「あなたが新人さんだよね? あたし荷稲 二千花っていうんだ! これから仲間だね、あたしのことは二千花って呼んでね、よろしくだよ!」
「ふぇえぇっ……は、はひっ……」
コミュニケーション強者による先制の一撃を放った。
そしてそれは仙谷さんの人見知りという急所を狙い済ましたかのように撃ち抜き。
「は、はぅっ……」
「二千花ストップ! 仙谷さんは急な衝撃に弱いタイプだから!」
「…………はっ! もしかしてあたしみたいなタイプ苦手系っ!?」
「そうだよっ! っていうか初対面の相手にはそこまでしないでしょ……」
「あー、ごめんね。仙谷さん……でいいのかな。いきなり突撃しちゃって。ええと、とりあえずお菓子食べる?」
なぜか懐からチョコレートを取り出して初対面少女に与えた。どう見ても子供を誘拐しようとしている犯罪者の動きである。警察を呼ばなければ。
時々こうやってテンション上がって暴走するのが二千花のダメなところだった。
そしてチョコによる懐柔を試みてから数十秒。
ようやく正気を取り戻して日本語を発せるようになった仙谷さんに、二千花はギャルに近しい見た目をしているが真面目でいい人なんだと説明し、二千花からも謝罪と自己紹介を行い、誤解を解くことに成功するまで三分ほどを要した。和解時間三分。二千花はカップ麺だった。
そうしてようやく仙谷さんの方からも自己紹介をした。
この本筋に戻ってくるまでのタイムロスは約五分である。カップうどんだった。
「び、びっくりしました……に、二千花、さんが、急にこっちに来たので……」
「もー、二千花って呼び捨てでいいのにー」
「はいはい待って、仙谷さんはゆっくり距離を詰めるタイプだから」
「そっかー、まあでもそういう子もいるもんね。よし! じゃあ小春ちゃん、あたしが控え室の使い方を教えてあげよう! 仲直り記念ね!」
「…………ええと、それは、店長さんに教えてもらったので」
「二千花、仙谷さんを連れ込もうとする様子は人に見られない方がいいよ」
「え……だ、だって、先輩ぶりたかったから……」
おい、あんた私より年上だろ。なんだその発言は。
という軽いクレームをぐっと押し殺し、とはいえまだ慣れていない仙谷さんにトラブルのないよう付き添ってくれるのはありがたいので、取り急ぎこの場は任せた。
というかいつの間にか名前呼びしてたよね。
なんでそんなにさらっと距離を縮められるの……?
コミュ強のやることはわからない。異界の生物なのかもしれない。
とまあそういった経緯を経て仙谷さんの準備が整ったのは九時過ぎ。
ここから簡単なレクチャーを施す。が、その前に仙谷さんはキッチンの見学に行ったので私と二千花は休憩室に取り残された。仙谷さんの給仕服の桜色が抜け、休憩室は私の薄緑と二千花の淡黄色で染まり、少し地味な静寂が訪れた。
という時にまず話を切り出すのは決まって二千花だ。
「ことっち、レジ打ちって今日はまだやらないでしょ?」
「仙谷さんはね。流石に一気に覚えるのはきついと思う」
「じゃあ今日はあたしがするよ。その時は呼んで?」
「助かる、その間にテーブルの片付けとか急いでやらせてもらう」
さっきまで仙谷さんを振り回していた二千花だが、基本は優秀な人だ。
頭の回転も速いし、細かいところに気が利く。そこは素直に尊敬している。
天性のコミュ強が合う相手と合わない相手がいるというだけ。
私は……どっちでもないかな、中間くらい。
ただ、そんな二千花が急になぜか顔を寄せて小声で喋りかけてきて。
「あのさ……小春ちゃん、めーっちゃ可愛くない?」
人の容姿に関する話だった。
そういうところを大声で喋らないのも二千花なりの配慮なのだと思った。
「あたしの一個下ってマジ? 小動物美少女すぎるでしょ。あたしさ、着替えてるところ横目で見てちょっとドキドキしちゃったんだよね。肌も綺麗だし、衣装めっちゃ似合ってるし、雑誌でジュニアモデルやってても良さそうな感じ」
「わかる。正直私もそう思うよ。体型もすらっとしてて綺麗だし。あと、同じ給仕服なのに中身が違うだけでこうも変わるのかって思った」
「だよね。しかもあのツインテめっちゃ似合ってない? 高校生なのにあの位置で結って似合うんだよ? 逸材過ぎてあたし怖いんだけど……」
「うん。とりあえずお客さんにナンパされないように見張った方がいい」
「それ、マジそれ。監視カメラ増やそう。小春ちゃん親衛隊結成しなきゃ」
こうして当人の与り知らぬところで親衛隊が結成された。
メンバーは二千花と私と店内の監視カメラである。増員予定あり。
などという冗談を頭の中だけで言ってみたものの、二千花も私と同じような感想を抱いているということがわかり、私だけが仙谷さんに対して驚きと興味と関心を抱いているわけではないとわかった。
昨日彼女が見せた一瞬の笑顔がまだ脳裏から消えない私は、どうしてそこまで気になっているのかの理由を探しているわけだが、もしかしたらその一つは恐ろしいまでの整った容姿にあるのかもしれない。
ただ、それだけでもない気がするので引き続き考える。
そうしているうちにキッチンの案内が終わり、私は仙谷さんと一緒にホールへ、二千花は雑談タイムを終えて乃々葉さんの仕込みを手伝いに行く。
ちなみに店長は店舗奥の事務所で材料発注の作業に入っている。平日は自分もホールに出る分、こういった事務作業は土日に消化することが多いそうだ。ちなみに副店長はリモートで総務経理の仕事をしている。実際に会ったことはない。
さて、ホールに出たところで待っていてくれた仙谷さんと合流。
ここから開店までの四十分ほどの間に入門編を叩き込む。
「じゃあ最初の仕事を覚えましょう。お客さんから注文を取る仕事です」
「はいっ」
「では……これが店舗支給のオーダー用スマホです。これに注文を打ち込む用のアプリが入っているので、お客さんがオーダーしたものを選んで、最後に決定を押すとキッチンに内容が飛びます」
というわけで早速スマホを渡す。
これも出来るだけ内装に合わせようと試行錯誤があったようで、紆余曲折を経てスマホカバーを和風なデザインにすることで決着した。スマホを使わない案もあったが、流石にそれは不便ということで落ち着いた妥協案らしい。
アプリは汎用のものを使っているが、この店用に設定が済んでいる。
「軽食」「メイン」「スイーツ」「ドリンク」といったようにタブが分かれており、そこを開くとメニューがずらっと出てくる。タップして数量を選んで、そこまで済んだら次の商品へ。
料理によっては追加の選択肢が出てくる。トッピングの有無とか。
最後にオーダーを復唱。ここまででOKだ。
とまあ口頭で説明するのもいいが、やはり実践が早い。
私がお客さん役でオーダーして、それを取ってもらう。(キッチン側には練習分が飛ぶと伝えてあり、それはキャンセルしてもらえるよう頼んだ)
そして実践してみてわかったのだが、彼女は飲み込みが早い。
アプリの操作は戸惑うことなく一瞬で覚えたし、私が矢継ぎ早にオーダーを入れても早く正確に対応していた。後になって注文を取り消したりドリンクの種類を変えるという意地悪な出題もしてみたが、ミスはなかった。
正直、この十数分でオーダーの練習は終わったも同然だった。
これ以上私が教えることなんてない。
すごいなと思って話を聞くと、こういったリアルタイムの対応は心の準備さえできていれば問題ないらしく、普段は英会話レッスンでネイティブの方を相手に喋っているらしい。私よりよっぽどすごかった。
逆に心の準備がないと慌てるようで、例えば急にお客さんに呼ばれてオーダー以外のことを頼まれるとかなり動揺しそうで心配だ、との自己分析も伝えられた。
あの棚に置いてある小物はなんですか?とか、このカレーってどれくらい辛いんですか?とか訊かれるとアウト、ということだ。
そういう時は迷わず私か二千花に確認してほしいという旨を伝えて、ひとまずの対処とした。ここまでで十五分。テーブルセッティングの練習にまだ十分以上使える。
とはいえテーブルセッティングも難しいことはない。
各テーブルにフォーク・スプーン・ナイフ・箸などを配置し、メニュー表に不備がないかの確認を行い、紙ナプキンが不足していないかを見ておく。
お手拭きはお水と一緒に渡すので今は必要ない。
最後に思い出してお客さんを座席へ案内する練習もしたが、これも問題なし。
というのも入口の会計カウンターには今日の予約状況を確認できるタブレットが用意されており、名前と人数を聞けばどのテーブルに通すかすぐわかる。小さい店なのでテーブル番号も簡単に覚えられる。
よく個人経営のお店に行くと「○○番さんお会計です~」と店員さんが言いながらレジ打ちをする様子に遭遇するが、ああいうのを見るとよく席番号とかすぐに出て来るよなあと感心してしまう。
それに比べれば四人掛けテーブルA~Cと二人掛けテーブル一~四だけで構成されているこの店は良心的だ。初心者アルバイターにも優しい。
そういうわけで仙谷さんの最低限の研修はつつがなく完了した。
よくあるのが初心者で内容を覚えきれずにキャパオーバーして大混乱してしまうというパターンだが、彼女に関してはその心配もなさそうだ。キャパシティは超えない。大丈夫、たぶんね。
そうして練習を終えて落ち着いた彼女の後姿を、やけに長いけど綺麗だなと思うツインテールの黒髪を眺めながら一息つく。そういえば髪が料理に接触しないか突然心配になったが、まあ身体の前側まで来ることはないだろうと自己解決した。
……この新人研修というものにドギマギしているのは私の方かもしれない。
「あ、あの。夏谷さん」
と認識した瞬間に声を掛けられたものだから一瞬ビクッとなってしまった。
先輩が震えているとバレたら恥ずかしいので気を強く持つ。
「色々、教えてくれてありがとうございます。……き、緊張しますが、やってみます」
「う、ううん。こちらこそ。仙谷さんは覚えが早かったから大丈夫だと思います。あとは慣れるしかないから、気負わずにやってみてください」
「はい、そうしますっ……!」
そう言ってぎゅっと握りこぶしを作った仕草もなんだか小動物っぽいというか、二千花は言っていた通りというか。私の言葉でいうと人を惹き付ける感じがする。
気分的には妹の面倒を見ているような(一人っ子だけど)。
昨日の笑顔はまだ二度目を見れていないけれど、そのうち見る機会が来るのだろうか。そもそも人見知りな子は感情を出すのが苦手そうな印象があるが。……ま、まあともかく今日一日をしっかりとサポートするのが私の仕事だ。
彼女のことをもうちょっと知りたいなと思う気持ちは一度置いておき、もうあと数分に迫った開店に備える。
最初は私が後ろで見守りながらお客さんの誘導を済ませる予定だ。
今日は開店からいきなり六組が訪れる予定を見越してである。どうやら十時から十二時で予約して、その後街に出たり別の用事をこなしたりする人が多いらしい。お客さんとの雑談でたまに聞く。
そして、店内の時計が十時ちょうどを指した。
キッチンの方からにわかに気合いを入れたと思しき約二名の声が聞こえてくるのを背に、私は早速入口を開けに向かう。
この店は表のドアから入り、そこから細い通路を通り、更にその先のドアで店内に入るという二段式だ。この通路で外界と店内を分け、わずかな時間でも十分にお客さんの気持ちを高めてあげる。そしてそこから店内に入ってもらおうという気の利いた設計なのだ。注文の少ない料理店は今すぐ見習ってほしい。
そうして正面へ出ると既に十人以上のお客さんが待っていた。
手際よくドアの看板をOpenに変えて、それから落ち着いた笑顔を作って「ようこそお越しくださいました。順番にご案内しますのでお待ちください」と告げる。お客さんたちも慌てずに待っていてくれる。ありがたいことだ。
早速順番に店内へお連れして、そこからは仙谷さんにバトンタッチ。
お客さんを案内してきた私を見て(というか私の背後を見て)初めは一瞬だけ震えたようだったが、その後の案内は見事だった。
出てくる言葉遣いがすごく丁寧で、声も少し幼いながら人を安心させるような温度を持ち合わせているように聞こえる。研修の時よりもよほど堂々としていた。
そこからお水とお手拭きを準備して運んでくるのも初バイトとは思えない堂に入った立ち振る舞いだったので、この時点で私は先輩としての威厳が崩れ始めるのを感じていた。彼女には勝てない気がした。
列の最後尾で待っていたのは常連のお一人で来ているお客さんで、私からすると(ほとんど会話はしなくても)顔馴染みである。
そんな三十代と思しき読書家のお姉さんは、初めて見た仙谷さんに少し驚いたようだったが、新人バイトだと察したのかかなり優しく応対してくださった。私がお水を持って行った時に小さな声で「新人さん素敵な子ね」と言ってもらい、私もなんだか誇らしい気分だった。
お客さんを入れ切った後はオーダーと配膳が主な仕事になるが、オーダーは言うに及ばず余裕の対応で、ドリンクの配膳に関してはあまり一度に多く運べないという弱点はありつつ、全体的にそつなくこなしていた。というか一気に運ぶのは私も無理だ。
そこでちょっとひと段落したタイミングで話を聞いてみた。
キッチンの隅でお水を飲みつつ休憩しつつである。
「仙谷さん、ここまでどうでした? かなり順調に見えましたけど」
「はい、お客さんも丁寧な方が多いので安心してできています。オーダーアプリの料理の並び順とかはまだ覚えられていないので、そこを覚えてスピードを上げたいです」
おや、やけに発言が滑らかになっていないか?
開店までの研修の時は結構途切れ途切れというか、一言ひとことをゆっくり噛み締めて喋る感じだったのに。もしかして仕事スイッチが入ると本領を発揮するタイプなのか?
「ですね。慌てずぼちぼちやっていきましょう。あと、緊張もほぐれてきたみたいで安心しました。声もよく通ってて聞きやすいです」
「本当ですか? よかったです。お客さんがいるとすごく身が引き締まるというか、いい緊張感が出てうまくできました」
「それはいいことです。私もサポートしますのでこの調子で」
「はい」
たぶん今彼女は「心の準備ができている」状態でうまく動けているのだろう。
この様子だけ見ていると、対人経験を積みたいという希望はもうとっくに叶っているように思える。だが、「心の準備ができていない」状態での訓練は今からだ。
接客は予想だにしないことが起こったりする。
そこを私がしっかり見守って、時々助けて、そういうこと。
それが一番起こるのはこの先の料理が出始めるタイミング。
というわけで私も気合を入れ直す。
そしてちょうどそのタイミングで二千花から呼ばれて。
「おーい、三番さんのカレーとオムハヤシができたよー!」
「はい、今行きます!」
仙谷さんは自分から積極的に受け取りに行った。
そこからホールへ出ていくのもすぐだった。
……そして私だけ何もしていない状態になった。うーん。




