十七
「――小春」
「うん」
小春がお泊まりに来た。
同じ布団で一緒に眠った、気がする。
気がする― というのも起きたら小春は寝室にいなかったからわからない。
久々に長く眠った布団の上で、昨晩のことをぼんやりと思い出す。
ものすごくショックを受けて、胸が苦しくなって、小春に介抱されたこと。
それから小春に甘えてしまい、ずーっと頭を撫でてもらったこと。
最後に布団を掛けてもらって、眠る時も隣で見守ってくれたこと。
それらを思い出し、最初のショックに戻る。
私は、自立した後どうしたいんだろう、って。
頭を鈍器で殴られたみたいな衝撃って、ああいうことなんだと思った。
未来のことまで考えられていなかった自分が悔しいし情けない。
そして、小春がいなかったら、私はこの先ずっと気付かないまま過ごしたかもしれないという事実に寒気がする。怖い。こんなの恐ろしすぎる。
そう考えたらまたぞわって鳥肌が立って、とにかく小春の顔が見たくてリビングに出る。一人でいることが怖い。
そうしたら小春は朝食のパンとフルーツを並べてくれているところだった。
よかった。急にいなくなったりしなくて。
「小春。昨日は、ありがとう。面倒見てくれて」
「ううん、気にしないで。それより身体は大丈夫? 辛いところはない?」
「うん。今はもう大丈夫」
「そっか、ならよかった」
私の席にはお皿に盛り付けられたクロワッサンとデニッシュが並び、カットフルーツは買ってきた時のパックに入れたまま一緒に置かれている。
……先に起きて、ご飯の準備までしてくれるなんて。
私はもう小春に頭が上がらない。
こんな大事なことに気付かせてくれた上で、面倒まで見てくれるんだから。
愛っていうのはきっとこういうものなんだろうな。
というかさ、子供が親から貰うものを、どうして同い年から貰ってるんだろうね。
今更言っても遅いけど。
「琴奈、お腹は空いてる? 朝ご飯、無理しない範囲で食べてほしい」
「うん、それなりに空いてるよ。よく寝たからかな」
「きっとそうだと思う。……琴奈、睡眠時間削って生活してたでしょ」
あ、バレるんだ。平日は五時間睡眠、休日は六時間睡眠で生きてたこと。
本当に小春は何から何までお見通しだなあ。
もうこれじゃ小春には逆らえないよって思いながら席に着く。
向かい側には書斎の椅子を持ってきた小春が、自分の食べる分を持って座った。
テキパキしてる割りに服はまだ着替えていないあたり、起きてすぐにこうやって準備してくれたことが窺えて、それもまた小春のことを愛おしいと思う一因だ。
……ん? 今、小春のことを愛おしいって思った?
え、待って、それは要するに私はもう小春に対して友情以上のものを――
「ところで琴奈、昨日はごめん。あそこまで話させてしまって」
「ぇ、う、ううん。全然気にしないで。むしろ、小春が尋ねてくれなかったら、私、どうなってたかわからなかったし……ありがたかった、というか」
「そう? それならよかった。あ、パン食べてね。わたしも時々食べてるお店のやつだから、きっとおいしいと思う」
「あ、ありがとう。じゃあいただきます」
あ、パン食べよっと。
せっかく用意してもらったし。しかも小春が自分で買ってきてくれたものだし。
……美味しいなあ。食パンしか食べない朝ご飯を続けてきた身にはよく染みる。
でも食パンは安いし量も多いし、節制生活には手放せない。
よくわからないけど食欲が出てきたから手元の二個を食べ切る。
まだ、物足りない気がする。
顔を上げて小春の方を見る。
そうしたら袋の中をごそごそと漁ってもう一個クロワッサンを出してくれた。
それを受け取る。食べる。
お皿の横に置かれたカットフルーツをフォークで突き刺して口に運ぶ。
パンをかじる、果物をかじる。その動作を何回か繰り返したら手元からなくなっていた。そんなにがっついて食べた覚えはないんだけど。
「琴奈、今日はよく食べるね」
「…………そう?」
「美味しそうに食べてる。今まで見たことのない顔をしてる」
知り合ってから一か月も経ってないのに何を言ってるんだろうと思わなくはないけど、バイト先の私の様子を知っている人間は少ないし、プラス一緒に過ごした時間が長いのも小春だから、たぶんこの世界の中でもその言葉の説得力は大きい。
それに、人を見る目があるっていう感じもするし、そうなのかなあ。
じゃあ、この際昨晩の続きを話してもいいのかな。
自分の中だけに抱え込んでおくには重いし。
「あのさ、小春」
「うん」
「昨日の話なんだけどさ。……正直、今もわからない」
「うん」
自分がこの先どうしたいか。自立した後どうしたいか。
そんなのわからない。
目の前を生きることに精一杯だった昔の私と、勉強とバイトと節制しか考えられなかったここ数年の自分に、将来を考える余地なんてなかったのかもしれない。
そういえば進みたい大学ってどうやって決めたんだっけ。
それなりに偏差値が高くて、特待生は授業料免除してもらえて、引っ越したくないから東京横浜近郊で…………あれ、どの学部に行きたいんだろう。わからない。何を勉強したいか、わからない。何がしたいんだろう。
「多分だけど、考えられるような頭じゃない」
「そう思うよ。今はまだ混乱してるから、すぐにどうこうは決められない」
「うん。だから、ゆっくり時間をかけて考えさせてほしい」
「もちろん。だって琴奈の人生だもん。わたしが口を出す権利はないし」
……はあ、小春はどうしてこんなに大人なんだろうなあ。
私の回答がわかってたみたいにスラスラと返事をくれる。
そう、たぶん今すぐに何かを考えて結論を出すのは無理。
それに目の前にはバイトのシフトが迫っている。明日は月曜日だから学校だし。
「それでさ、琴奈」
「う、うん」
小春が私の名前を呼ぶ。
昨日と同じくらい真剣で、少し緊張している表情だった。
「ゆっくり考える時にさ、悩むこととか不安になることとか、きっとあるよね」
「……そうだね。きっと」
「考えてもわからなくて途方に暮れる可能性だって、あるかもしれないよね」
「ある、かもね」
「だからさ、そういう時のために……その、あのね」
視線を彷徨わせながら喋っていた小春が、一瞬目を閉じて、それからまっすぐに私の方を見て。
「こ、琴奈の人生にさ、わたしも置いてもらえないかな」
小春の薄い頬がすーっと赤くなった。
「わたしは琴奈のことを好いている。琴奈もきっとわたしを信頼してくれてる。だから、わたしなら、琴奈が悩む時も一緒にいて、安心させられると思う」
赤みが増す。朝日よりも濃い色になる。
「わたしは、琴奈と一緒にいたい。琴奈の感じた嬉しいことも、抱えている辛いことも、全部知りたい。琴奈のことが好き」
頬が真っ赤になった。私も、顔が熱い。
「琴奈……わたしの恋人になって?」
心臓がドクンドクンと脈打つ。
昨晩の苦しみとは全然違う、心地よく幸せな脈動。
小春が、私を求めてくれている。
私もまた、自然に小春を求めたくなる。
だって、こんなに直接的な言葉で求めてくれてるんだよ?
そんなの、心が欲しいって言ったらもう逆らえないよ。
私のぽっかり空いた心の穴まで含めて全部好きだって言ってくれてるんだよ。
……こんなのもう我慢できるわけないじゃん。
「小春」
「う、ん」
「私も、小春のことが好き」
「――!」
席を立つ。向かい側の小春のところまで数歩で向かう。
「私のこれからの人生に、小春がいてほしい。出会って一か月も経ってないのに言っていいのかわからないけど、たぶん、こんなに自分と心の形が似ている人は初めてだと思う。だから、こうやって一緒にいる」
「……うん」
「小春のことは、たぶん、最初から好きだった。自分でも説明できないけど、好きだったし、この人のことを知りたいって思ってた」
「そっか……嬉しいよ」
小春が立ち上がって、私たちは向かい合う。
すぐ近くで、小春は小さく微笑みながら私の言葉を聞いてくれる。
「私のしたいことが見つかるまで……それから、見つかった後もずっと」
「うん」
「小春にいてほしい。私の一番近いところにいてほしい」
ダメだ。もう止まれない。
こんな言葉を口に出すなんて人生で初めてだけど、恥ずかしい気持ちよりもこれをちゃんと言いたいっていう気持ちが勝る。
「小春、私の恋人になってください」
「――うん。よろこんで」
小春の返事はシンプルだった。
でも、それで十分だった。
綺麗な顔が目の前に来る。
いつの間にか私たちの距離はこんなにも近付いていた。
自分でも気付かないうちにこんなところまで。
先に動いたのは小春だった。
顔を少しずつ近づけてくる。
私たちは身長がほとんど同じだから、顔のパーツの位置や高さも大体同じだ。
じゃあこのまま私も顔を近づければ、きっと大事なところがちょうど重なる。
小春は目を開けたまま近付いてくる。
その潤んだ瞳を見つめながら、私からも近付く。
小春の息の音がすぐ近くに聴こえる。
誰にも許したことのない距離まで、お互いの存在を許しているんだって実感する。
ほら、あと数センチでもう触れ合ってしまいそう。
あっ、本当にもう触れ合っちゃうから……目を閉じて、それで――
「んっ…………」
「んぅっ…………」
柔らかくてふわふわしてる、って思った。
でも温かくて、自分の唇が溶けちゃいそうなくらい。
溶けちゃいそうになってるのは唇だけじゃない。
身体中がぽわーって熱くなって、お腹の奥がじんじんと疼く。
そして、心の内側の弱いところが溶けていく感じがした。
なんて言えばいいかわからないけど、ずっと緊張していた心が安心していくみたいな、そんな感じがする。心臓を締め付けていた何かが消えていく気がする。
小春とのキスは、すごく心地いい。
いつの間にか私は小春の背中に腕を回していた。小春の腕も私の背中に回されていた。これじゃあお互い離せなくなるっていうくらい密着していた。
息がちょっと苦しい。でもやめたくない。
小春と唇を重ね合わせている時間を少しでも長くしたい。
だから、小春の方が先に音を上げて唇を離した時に私もキスをやめた。
何度か深呼吸をして息を整えている小春を眺めながら、私は背中に回した腕は離さないように力をこめておく。
「……琴奈、まさかファーストキスからここまでがっついてくるとは思わなかったよ」
「えっ、これってそんなに激しかったの?」
「うん。少なくともわたしは息が持たなかったし」
「…………ごめん」
「ううん。琴奈がそれだけわたしのことが好きなんだってわかったから嬉しい」
ああもう、小春は本当に優しくて私にべた惚れだなあ。
苦しいなら途中で切り上げてもよかったのに。
でも、がっついてしまった私の方が百倍惚れているのかもしれない。
「今になって恥ずかしくなってきた……」
「もう遅いよ? これでわたしたちは恋人だからね。これからはもっと恥ずかしい琴奈の様子を見させてもらうことになるから、覚悟しておくべきだね」
「……不健全なものはお断りします」
「えっ、こんなに顔真っ赤にしてもじもじしてるのに?」
「っっ――!!!」
「なーんて、冗談だよ。わたしたちの最重要項目はお互いのことをよく知って、そして琴奈がしたいことを見つけられるように一緒に考えることだからね」
「…………小春はさ、意地悪だよね」
「褒め言葉ありがとう」
「褒めてない」
あぁ、ファーストキスの雰囲気が粉々に砕けていく……
でも、それも含めて小春のことを好きになっちゃったから、しょうがないか。
それにこうやって話してたら心も軽くなったし。
なんか今の気分だったら元気よくバイトにも行けそうだな。
家を出るまであと一時間もあるし、ゆっくり準備しよう。
「小春、まずは恋人になった記念として今日のバイトをばっちりこなしてこよう」
「うん。そうだね、わたしたちの息が合ってるところをアピールしないとね」
「ごめん別にアピールまでは頼んでない」
「そっか、じゃあアピールする手前くらいで相性の良さを見せつけよう」
「見せつけるのも頼んでない……」
私が呆れていると、ふふっと笑った小春が楽しそうに食器の後片付けを始めた。
朝からいいように遊ばれている。
ともかく、それも含めて私の気持ちは明るい。
とりあえず小春がいてくれたらそれでいいと思っている。
……これがベタ惚れかあ。
そこから小春の行動はすぐだった。
即座に着替えを済ませて、自分の荷物を全部まとめ、食べ切れなかったお惣菜を手際よくまとめて今日のお昼ご飯として鞄に入れ、出発準備を整えた。
私は置いていかれないように寝室を片付け、急いで歯を磨いて顔を洗って髪を整えて、優雅にお茶を飲んで待っていた小春に追いつき、いつもよりも十分ほど早い時刻に家を出た。
小春のこの静と動の切り替えはなんなんだろう。
どこで身に着けたのか。今度落ち着いた時に話を聞こうと思う。
日曜朝の東横線はそれなりに混んではいたけど、小春が一緒にいるというだけで気分は上向きになる。
お店に着いた後もやたらと元気だった。
もしかして悪いものでも食べたんじゃないかと怪しく思えてきたけど、小春曰く「わたしがいると琴奈は安心するから、その安心から元気になってる」とのこと。
百パーセント合っているかどうかはわからないけど、半分くらいはそうなんだろうな。小春のことが好きだなあって気持ちと、何か不安なことがあっても小春がいてくれたら大丈夫だろうなっていう安心感が確実にある。
お店の控え室で一緒に着替えた時も、なんだかもう小春のことを他人扱いしていないというか、「恋人だし身内だし、別に下着見られたってそれは当たり前のことだよね」くらいに認識している。脳が勝手にそう認識する。
ついでに余裕が出てきたのか、小春の着替えてるところも普通に見させてもらった。お肌だけじゃなくて体型も綺麗だなとかそういうことを思った。
あと、小春のツインテールも私が結ってあげた。
結構高い位置だよなって初めは思ったけど、でも可愛いし。似合ってるし。
小春の髪は柔らかいのにサラサラしてるっていう不思議な髪質で、触っているだけで手が気持ちいい。これはどうやったら手に入るんだろう。やっぱりシャンプーとか高級なやつにしないといけないのかな。
で、その後は小春が私のサイドポニーも結ってくれた。
髪を触られるって美容院のスタッフさん以外にはまずないから、美容院でもない場所で、二人きりの場所で丁寧に触られるっていうのは少しむずむずした。
でも心地よかった。小春に髪を撫でてもらうのは気持ちいい。
昨晩の頭を撫でてもらった時もすごくよかったなあ。
と思ったら、結った後で撫でてくれた。
後ろから何度も優しくすりすりって撫でてくれて、気持ちよかった。
撫でてもらった後に振り返ったら小春がにこにこしててそれも嬉しかった。
ただ、小春はそれでちょっと調子に乗ったのかもしれない。
悪いことじゃないし、小春が楽しいなら私はそれでいいんだけど、ただ――
「こはるん、ことっち、おはよー!」
「おはようございます、二千花さん」
「ん、おはよう」
朝から気力満タンのオーラで出勤してきた二千花。
控え室のベンチにどさっと鞄を置いて、そのタイミングでやたらと機嫌の良い小春の様子に気付いたのか、私たちの方に向かって疑問符を投げてきて。
「こはるん、今日はご機嫌うるわしゅうな感じだね! 何かあったの?」
「はい。とてもうるわしゅうな気持ちになることがありまして」
「へー! なになに? 教えて教えて!」
「はい。じゃあ特別に教えてあげます」
その言葉から一秒と経たずに、小春は隣に立っていた私を抱き寄せて――
「この子を嫁にしましたので、以後お見知りおきを」
私の頬に何の遠慮もなく口づけを落とした。
一瞬頭が真っ白になって、次に二千花の視線が注がれているのを感じて。
「…………こはるん」
「はい」
二千花が固まった。目を見開いて静止していた。
……いや、静止ではなく、わなわなと小さく震えていて。
「え……ええぇぇーーーっっ!? こはるんっ、ことっちを落としたの!?」
「はい。ちょろいのですぐ落とせました」
「えぇ……私って落とされたんだっけ……」
「いやさ! ことっちがクソチョロなのは知ってたけど出会って一か月で!?」
「琴奈はわたしのことが好きすぎるので」
なんか私すっごい甘い人間みたいに形容されてる。
違うよね? 小春と私の相性が良すぎるからだよね?
「ともかくおめでとーーー!!! ハッピーお付き合い!!!」
「ありがとうございます。温かく見守ってもらえれば嬉しいです」
「…………よくわかんないけど、そういうことで」
ただ、その後で小春がこっそり耳打ちしてくれた。
ここで真面目に経緯を話すと必要以上に気を遣われそうだから、そう思われないように面白おかしくごまかしてみたよ、って。
それを聞いて小春のことがもっと好きになった。好き。優しい。大好き。
やっぱり小春とは心の相性がよすぎる。
二千花もうんうん頷いて、それから私の方に近寄ってきて、肩にぽんと手を置いて、感慨深そうに目を瞑って――
「ことっち、これからは飼い主の言うことをよく聞くんだよ」
なんだそれ。私はペットか。
「ことっちはクソチョロだから、飼い主以外の人に付いていっちゃダメだからね」
いや、それは小学生の登下校中の防犯対策でしょ。
「ことっちの人生がこはるんの力で明るくなりますように」
なんか最後は至極真っ当な祈りを捧げられた。なんだこいつは。
…………
「……とりあえず二千花が祝ってくれてるだけよしとするよ」
「うんうん。あたしはいつでもことっちのハッピーを祈ってるからね」
「祈った割にはペット扱いしたよね」
「ことっちはこはるんに逆らえない存在だからね」
「怖っ、私たちの何を見抜いてそう言ってるのさ」
「ことっちの心には、『小春のことだししょうがないなあ』の気持ちが一定量存在する」
「なんで私の心わかったの怖いなにこのギャル怖い」
「ギャル言うなギャル」
「じゃあペットって言うな」
……あぁ、ファーストキスの後も、交際宣言の後も、すぐにムードが壊れていく。
でも、それもまあ私らしいと言えばそうなのかもな。
じゃあそれでいっか。悪いことはないし。
そんな気の抜けた会話を繰り広げている約二名を、小春は隣で微笑ましく見守っていた。
ただ、見守る暇があったらペット扱いを否定してほしかった、とは思う。




