十六
私の両親― だった人たちは俗に言うネグレクトでね。
とにかく子供の面倒を見るという責任を放置し続けた人たちだった。
赤ちゃんの頃は当然そんなこと知らなかったし、知るはずもないし。
その時代のことは何もわからない。保育園に通っていたことだけは、なんとなく覚えてる。建物とか部屋とか、保育園の園庭はぼんやり記憶がある。
幼稚園に上がる頃には物心がつくでしょ?
そうするとお迎えに来てくれる親の顔は流石にわかるわけじゃん。
でも、残念ながらあの人たちは迎えに来なかった。
代わりに来てくれたのは妙齢の優しそうな女の人だった。
その人が私を赤子の頃からお世話してくれたベビーシッターさんだと知ったのは、私が幼稚園を卒園する時、そしてその方が私の仕事から離れる時だった。
小学校に上がるということは、私があの人たちから「ベビーシッター無しで一人でも生活できる年齢」と判断されて、一人暮らしを始めさせられることと同義だったんだよね。
今思うと失笑するしかないよね。小学生に一人暮らしさせるとかさ。
でもあの人たちなりの『生活費削減』だったんだよ。本当に馬鹿らしい。
それから私はありとあらゆる家事を覚えて、防犯意識も安全のための方策も自分一人で身に付けて、学校の先生に言われた「おうちの人に頼んでください」っていうものも全部自分で用意した。
あの人たちは滅多に家に帰ってこない代わりに大量の現金を家に置いていった。
私はその価値をわからないまま実践で少しずつ覚えた。スーパーで買い物する時に店員さんに心配されても大丈夫ってごまかした。
結局、あの人たちが家に帰ってくるのは月に一回くらい。
二人揃って家にいることなんて滅多になかった。
ただ、外面は異様に気にしてたみたいで、学校の保護者面談だけは「キャリアを積んで多忙な共働きの優秀な夫婦」の演技が異常に上手かったよ。
……まあ、その裏では私に口封じしてたんだけどさ。
でもさ、子供なんてそんなもんじゃん。
親に守ってもらう生き物だからさ、親がそう言ったらそうなのかなって思うじゃん。
疑うなんてなかったよね。本当に忙しくて大変なんだって思ってた。
でも、年齢を重ねていったら少しずつ違和感に気付き出すよね。
周りの子と比較して、うちは結構違うんだって思う。
それで不安になるし、でも帰ってこないから話もできないし。
その頃だったかな、五年生の夏だったと思う。
偶然二人揃って家に帰って来た日があってね。
でも、部屋で忙しそうに電話してるし、話しかけられなくて。
だから、夜になって落ち着いた時間になったら話をしようと思って、部屋の前まで行ってさ。そうしたら中から大声が聞こえてきて。
……小春、今からすごく酷いことを言うけど、本当に聞く?
…………
……そっか、じゃあ言うね。後から文句言っても受け付けないから。
あの人たちは大声で喧嘩をしていた。
私に話しかける時には絶対になかった、乱暴な声で。
なんて言ってたと思う?
『ねぇねぇ~、あのゴミいい加減捨てようよ~』
『あーもうッ! うっせえって言ってんだろ! 子供捨てたってバレたら俺役員辞めさせられるんだよ!』
『え~、ゴミを捨ててなんで怒られるの~? あたしたちが気持ちよくセックスしてたら急に湧いてきたゴミなのに~』
…………ごめん、自分で言ってて気持ち悪くなってきた。
自分で警告しといて自分が後悔するとかギャグだね?
でも、今の発言はギャグじゃないよ。今でも口調まで思い出せるし。
ちょっと水飲むから待ってて。
…………
はい、お待たせしました。
じゃあショッキングな話の続きをします。
当時の私はその言葉の意味がわからなくて固まって、頭が真っ白になったまま忍び足で自分の部屋に戻って、スマホで知らない単語の意味を調べて、その後でやっとその意味を理解した。
そこで辻褄が合ったっていうか、今までの暮らしの背景をようやく把握できた。
あの人たちが家を出ていった後で寝室を調べたら色々出てきたよ。
大量の領収書はラブホテルだったり、高級ホテルやレストラン、キャバクラにホストクラブ、会員制のラウンジやバー。面白いくらい出てきた。
勤めてる会社の名刺が散らばってたからネットで検索してみたら、ベンチャーで当たって大儲けした会社だった。成金という単語がよく似合う感じの。
その夏から、私はどうすればいいかわからないまま過ごした。
もうあの人たちの顔を見たくないことだけは確かだったけど……
まあ、夢が覚めたらこんなもんだよね。
親は自分のことを想ってくれているなんていう考えは夢でしかない。
そんな暮らしが変わったのは、ちょうど一年が過ぎた六年生の夏。
あの人たちは離婚した。
後から聞いた話だと私を押し付け合って大喧嘩したみたい。
結局あの人たちは、私の銀行口座を作り、自分の稼ぎから多額の養育費をそこへ振り込むことで手打ちにした。
そして、私は母方の祖父母に保護されることになった。
あ、この祖父母は良い人たちだよ。ちゃんと私を守ってくれた。自分たちの娘が見放した子供の責任を負ってくれた。
そして中学校に上がる時、私はここで一人暮らしを始めた。
自分の世話は自分でできる。奨学金をもらえる特待生枠で私立の女子校に入れたから、学校に掛かるコストも削減できたし、安心できる環境で勉強に励めた。
だけど、何よりも、あの人たちと血の繋がってる人間の世話になりたくなかった。
母方の祖父母は私を引き取ってくれたし、実際関わったら良い人たちだったよ。でも、それならじゃあどうして最初から守ってくれなかったの?って思った。
結局、この二人も長年のネグレクトを見過ごした。
そんな人たちと一緒に暮らすなんてまっぴらごめんだよ。
今、祖父母との関わりは学校や賃貸の保証人っていうだけ。
他は干渉し合わない。年に一回は挨拶に行くけど。
…………ごめん、本当に長くなりすぎた。
要するに、私は早く自立して、あの人たちと近い人間に二度と関わりたくない。
だから、絶対に、なんとしてでもお金を貯めないといけない。
慰謝料のフリをした『ゴミ処理費用』だけじゃ足りないかもしれない。
学校の奨学金は絶対に毎年取る。
大学も特待生で学費が免除されるところを狙ってる。今の偏差値を保てれば大丈夫だとは思うけど、気を抜いたらいつ後れを取るかもわからない。
生活に関するコストもできるだけ削る。
家に物は増やさない。買うだけお金の無駄。食事もそう。
でも節約だけじゃまだ足りないかもしれない。
だからアルバイトもする。自分に合ってるお店があったのは運がよかった。
…………
ここまで喋ったのは正真正銘これが初めてだよ。
学校でも言えないからね。クラスメイトにも、先生にも。
小春もまさかお泊まりに来てこんなしょうもない話を聞かされるとは思ってなかったよね。ごめん。
でも喋ってって言ったのは小春だからクレームは受け付けない。
―――
あーあ、小春が完全に固まった。
真面目な表情のままで何も言わなくなっちゃった。
せっかく仲良くなったのに、こんな話聞かされたら嫌になるよね。
でも話してって言ったのは小春だからなあ、どうしようもない。
「…………琴奈」
「うん」
何かものすごく考え込んだ後で、小春は口を開いた。
表情はまだ真剣なまま。口をぎゅっと結んで、でもそれをもう一度ゆっくり開いて。
「琴奈のこれまでの人生はよくわかった。わたしが思ってたよりもずっと大変なものだったけど、琴奈が何か辛いものを隠してるのはわかってたから、大丈夫」
「琴奈はよくがんばった。本当にえらい。一人でここまで生き延びたことがすごい」
「でも、だからこそ、一個だけ教えてほしいことがある」
それと一緒に手招きしてくる小春。
ベッドの上でぺたんと座っている小春に向かい合うように、私も座り込む。
私を呼び寄せた小春は、目の前で向かい合ってもまだ口元をきゅっと締めて、なにかを堪えているような、躊躇っているような、そんな感じがした。
私に訊くことがあるんだよね?って不思議に思う。
でも、中々それを言ってくれない。
十秒くらい過ぎた気がして、まだ言わない。
三十秒くらい過ぎた気がして、口が小さく開いたけどまた閉じた。
一分くらい過ぎた気がして、ひゅっと息を吸い込む音がやけに大きく聞こえた。
そして二分くらい過ぎた頃に、小春が意を決したように口を開いた。
その口からどんな言葉が出てくるんだろう。
私に、そんなにも尋ねたい大事なことがあるんだよね。
「あのさ、琴奈はさ」
「……うん」
小春の瞳がなぜか悲しそうに揺れて、それで――
「自立して、一人で生きていけるようになったら……その後は、どうしたいの?」
…………
…………え?
自立した後……?
…………
…………
大人になって、一人で生きていけるようになって…………その後?
……わからない。何をしたいんだろう。
…………
何もない。何も考えてない。
考えたことなんてないし、考える余裕もなかったし、考えようとも思わなかった。
そんなこと、少しも考えてなかった。
…………
じゃあ、私は、将来何をしたいかもわからずに、これまで必死に生きてきたの?
…………
わからない。頭が痛い。視界がふらふらする。
胸が苦しい。心臓を締め付けられてるみたい。息がしづらい。
あれ……私、今なにしてたんだっけ……
わからない。ただ、早く楽になりたい、横になりたい、身体が重い、背中に鉛を埋め込まれたみたい。辛い、重い、苦しい。
わからないけど、とりあえず、身体を休めたい。
このまま起き上がったままじゃ苦しすぎる。
……あっ、もうだめかも――
―――
琴奈をベッドまで連れてきておいて正解だった。
急に大きなショックを受けた人はこうして対ショック症状として身体がおかしくなることは珍しくない。昔そういう人を見たことがある。
前のめりでふらつき出した琴奈を正面から抱き締めて、自分の胸に顔を埋めさせる体勢で抱き締める。髪からシャンプーの良い匂いがした。
……今日の目的はこれで達成されたと言っていいだろう。
わたしが元から掲げていた「琴奈が危ない状態なのを止めること」の第一段階として、「自分が危ない状態にいることを自覚させること」に成功したから。
無論、自覚した瞬間は激しく動揺するのでこうやって身体の症状も出る。
だから回復するまでこうして見守る。心が原因だから、心が落ち着けば回復する。
お風呂も済ませ、ベッドの上で、最悪わたしも一緒に寝落ちしてもいいという状態で、この第一段階を突破できてよかった。これが食事中だったら危ないと思う。
琴奈の暮らし、思想、金銭への執着、対人関係。
それらから推測したのは、「親子関係が機能しておらず、異常なまでに自立を望む子供に育ち、自立を望みすぎるあまり生活が疎かになっている」という仮説。
バイトで、歓迎会で、お泊まりで、色々と聞いたことが全部ここに繋がる。
無趣味で無味な暮らしを送っているのは自立しか考えてないから。
妙に周りを俯瞰する視点を身に付けたのは世間とのズレを痛感していたから。
金銭に執着するのは自立後のための貯金を少しでも増やしたいから。
対人関係が下手なのは親子関係という対人の基本が抜け落ちていたから。
そういう理解で概ね間違いないだろう。
そして、その先でわたしは致命的な欠陥を確認した。
――自立に執着するあまり、自立後の自分の人生を何も考えていない。
これは琴奈が悪いわけじゃない。
そういう人生を強いられた子供が、自分の将来まで一人で考えるのは酷な話だ。
「自立しなければ安心して生きていくことができない」という強迫観念を植え付けられた琴奈の脳は、人間の生存本能に則って「自立すること」を至上命題とし、それに向かって琴奈の行動と思考をコントロールした。
もちろん自立することがゴールではない。そんなこと誰でもそのうち気付く。
でも、琴奈は不可避の人生経験によって自立以外のものが見えなくなった。
自立がゴールとすら思っていない。人生の指針を自立だけに依存した。
仕方なかった、という表現が正しい。そうじゃないと生き延びることができない。
でも、このまま走っていけば、自立を果たした後に琴奈は壊れてしまう。
自分がこの先どうやって生きていけばいいかわからなくなるから。
最悪、仕事中毒に陥って仕事でしか生きがいを得られなくなって過労で死ぬ。
あるいは新興宗教やアイドルみたいな依存性の高いものにハマって人生が狂う。
なら、まだ傷が浅いうちに自覚させるしかない。
自立してから気付くより遥かにマシだ。
大学生の時でもいいけど、大学や学部の選択は将来のキャリアにも関わるから、入学後に気付いてしまうとミスマッチの可能性が上がる。じゃあまだ取り返しのつく今の方がいい。
本当に大体想像通りだったことが驚きだけど、それくらい琴奈の言動や思想が純粋すぎて、わたしでも予想できてしまったということ。
そんなまっすぐでひたむきで真面目な子をここまで追い詰めた人間は今すぐ地獄に落ちて百年くらい苦しんでほしい。千年でもいいけど。わざと殺さずにひたすら炙り焼きにすればいい。
とにかく背中をさすって、大丈夫だよって何度も伝える。
わたしと同じくらいの背丈の琴奈だけど、今は年齢よりもずっと幼く見える。
小学生の頃の、ひとりで寂しくて辛かった頃の、ただただ優しい子供だった頃の琴奈がわたしの腕の中にいる。いつ泣き出してもおかしくないと思う。
本当はこうやって抱きしめられて、愛情を注がれることが子供の仕事。
でも、琴奈にはそれがなかった。忙しすぎるわたしの両親でもしてくれたことだ。
それがどれだけ恐ろしく苦しいことか、今のわたしなら想像できる。
もし両親がわたしを肯定して安心させて愛情をもって育ててくれなかったら― 自分がどんな人間に成長していたかわからない。少なくともバイトに応募しようと思うことはなかっただろうし、琴奈と出会うこともなかったはず。
そして、琴奈もまた、わたしと出会わなかったら最悪のルートを辿っていた可能性がある。これはわたしの自意識過剰な気持ちもあるけど。
……結局、琴奈がショックから回復したのは十分とちょっとが過ぎてから。
顔を上げてこちらを見てきた琴奈の表情は、悲しいくらい虚ろだった。
だから、とにかく頭を撫でて安心させる。それしかない。
本当に幼い子供みたいで、胸の奥がずきんと痛むくらい無防備な表情。
「……こ、はる」
「うん」
何度も頭を撫でる。琴奈の心の中の子供をあやすように。
「わ、たし……どうすればいいか、わからない」
「うん」
今度は背中を撫でる。無理しなくて大丈夫だって言い聞かせるみたいに。
「こはる、あたまなでて」
「うん。いっぱい撫でる。琴奈の気が済むまで」
こんなに弱々しい声は初めてだった。
いつも気丈に振舞っていたんだなって、改めて感じる。
今はこれでいい。琴奈が満足するまで。
そして琴奈が自分から何かを喋ろうと思うまで、続ける。
今は琴奈が自分の中にいるはずの昔の自分まで深く潜って、自分がどう思ってきたのか、自分がどう思っているのかを見つめ直している時間。
そして、その時間に必要なのは、その間ずっと外界から守ってくれる存在。
それをわたしが担う。琴奈が人生で初めて自分の内側まで招き入れた人間が。
数分か、それとも十分か二十分か、とにかく琴奈を安心させてやる。
…………
そして、次に琴奈の口から出てきた言葉は――
「こはる…………ねむい」
「うん。じゃあ一緒に寝ようね。布団の中でも頭撫でてあげる」
「……うん」
きっと考えすぎて疲れてしまったんだろう。
自分から枕に抱き着いた琴奈に掛布団をそっと掛けてあげる。
それから電気を消して、わたしも同じ布団に入る。
琴奈がこっちを向いていたから、頭を撫でてみればすっと目を閉じた。
その姿は、これまで抜け落ちていた「安心」を取り戻したことを物語っている。
その表情が少しだけ和らいだことを確かめると、小さく寝息が聞こえてきた。
……今日は、もう大丈夫かな。
一晩ゆっくり眠れば、明日の朝には落ち着いて話せると思う。
眠ることは、時と場合によっては何よりの薬になる。
今日はまだ二十一時。
たっぷり眠るだけの余裕があるから、わたしも安心して寝れる。
ねえ、琴奈。わたしたちってまだ出会ってから一か月も経ってないんだよね。
それなのにこんなに仲良くなって、お互いが自分の内側までお互いを招き入れてるってすごいことだよ。相性が良いどころの話じゃない。もはや運命かも。
わたしが琴奈に惹かれて、この人のことを知りたいって、あとスキンシップしたいって思ったみたいに、琴奈もきっとわたしのことを同じように思ってくれているはず。
それはたぶん、琴奈の心の中の子供が、この人になら自分の気持ちを言っても大丈夫だって、この人には甘えてもいいって、無意識のうちに感じたからだと思う。
ただ性格が似ているからだけじゃなくて、心の中の大事なものも似てるから、自分の大事なものをこの人に見せても大丈夫って思ったんだよ、きっと。
だから、わたしも今、心の奥でちくちくと痛むものを感じながら、でも琴奈と一緒にいるから大丈夫だって思えるんだよ。
琴奈を見ていると、近くにいると、二人きりだと、すごく安心する。
一緒にいるだけで心がやわらかくなって、緊張も不安もすーって溶けていく。
……もう、このまま琴奈と同居しちゃおうかな。
もしくは琴奈をわたしの家に住ませちゃうか。
楽しいね。考えてたら楽しくなる。
寝る前だから落ち着きたいのにね。
でも、そうさせるのが琴奈の力。
わたしが初めて自分の世界を共有してもいいと思えた人。
明日の朝、琴奈がどんな言葉を発したとしても、わたしはそれを正面から受け止めて、ただ頷いて、その言葉を最後まで聞き届ける。
そのためにも、早く眠ってしっかり休まないとね。
じゃあ琴奈、おやすみなさい。




