6. 地下より深いさらに地下
「彼」の父がかつて語った地下に対する思いについて
白い生き物を飼育するようになってから、彼は地下室のコンクリートの床と壁と天井を、ペンキで余すところなく白く塗りつぶした。床の血の跡の染みはそれによって隠れた。さらに壁と天井との境目にライトを取り付け、水槽を青白く照らすようにした。そのようにして彼は白い生き物の姿がもっとも美しく際立つ理想的な薄暗さの空間を作り出した。
簡素な木製のスツールに腰かけて彼は生き物が泳ぐのを眺める。長い時間、ときには一日中そうすることもある。水槽のポンプが立てるコポコポという音のほかに音は何もない。意識が巨大なマドラーでかき混ぜられたみたいに混濁し、思考は緩やかになる。記憶の奥深くから失われた思い出や感情が浮かび上がり、波のように押し寄せてくる。彼はその中に溺れる。やがてそれが過ぎ去ったとき、彼はすべてが広く何もない平原に一人で立つような淋しさと、ある種の解放感とを得る。
両親がいなくなって以来、彼の精神状態はしばしば危険な領域へと陥った。ときどき訳もなく激しい衝動に襲われ、物を破壊したり、自分の身体を傷つけたりした。集中力が不安定で学校の勉強にも身が入らず成績はたいてい惨憺たるありさまだった。彼が大学進学を断念したのは経済的な理由ばかりではなかった。
白い生き物を飼育するようになってからは彼の精神的な不安定さは緩和された。地下室にこもって白い生き物が泳ぐ様を眺めていると、衝動は溶けるように薄れ、やがて消えてしまう。心はまるで生き物の表皮のように白く浄化される。生き物を眺めることは彼にとって正気を保つために必要な手段だった。
生き物は月日が経ってもその美しい輝くような白さを失わない。歳月によって何をも奪われた形跡がない。これはたぶん奇跡なのだろうなと彼は思う。そしてこの生き物のためのふさわしい場所を自分が持っていたことを幸運に思った。地下室を作った父親に、いろんなことはさておいて、感謝しなければならない、と彼は思う。
父は「地下」という状況を愛していた。その思いだけでこの家に地下室を築いたのだ。父は自身が若いころに体験したという地下に関係する様々な話を、幼い息子である彼によく語って聞かせたものだった。どれもドラマチックな話ではなかったし、結論もメッセージ性もなかった。地下道で死んだ蝙蝠を見つけただとか、大都市の地下街で道に迷ってしまい一晩中さまよい続けたとか、そうした特に面白味もないエピソードばかり。でも幼い彼はそうした話を退屈せずに聞いた。
父はお喋りな性質ではなかったが地下についてならいくらでも語った。父が話すとき、その首にある尖った咽喉仏が生き物のように動いた。息子である彼はそのさまを見るたびににいくらか不思議な思いにとらわれたことを覚えている。そうだ、それはまさに生きているようだった。彼が父のことを思うとき、真っ先に浮かぶのはその尖った咽喉仏だった。
彼は父が地下について話すのを聞きながらときどき懐かしさに似た感覚に襲われることがあった。幼いころの彼は地下についてなんら特別な感情を持っていなかったし、地下という状況に身を置いた経験さえほとんどなかった。それなのに父の話がまるでかつて自分がどこかで経験した話のように聞こえることがあった。その不思議な感覚を彼は愛していた。そのようにして彼もまた地下への興味を育てていった。父から継承するかのように。
彼は父に尋ねたことがあった。いつも一人で地下室にこもって何をやっているのか、と。それは子供のころの彼にとって父にまつわる大きな謎だった。
「地下より深いさらに地下を旅しているんだよ」と父は言った。
彼はきっと怪訝そうな顔をしていた。父はさらに語った。
「この地下室や、街の地下街や地下道なんかよりもっとずっと深い場所がある。地下より深いさらに深い地下があるんだ。すごく深いところだよ。地球の中心に近いかもしれない。ふつうは誰もそこへは到達できない。誰も方法を知らないからね。でもお父さんは知っている。何度も行ったことがある。どうやって行くのか❓地下室でひとりきりになってひたすら祈るんだよ。さらに深い地下のことにだけ意識を集中させるんだ。そして長い時間かけて祈り続けるんだ。うまくいくと扉が開かれる。地下よりさらに深い地下への扉が開かれる。簡単じゃないんだよ。だから開かないこともある」
そこには何があるのか、と彼は尋ねた。
「巨大な国がある。すごく大きくて広い国があって、そこには神様が住んでいる。深海魚みたいにグロテスクで美しい形をした神様。地下世界を統御し支配する神様だよ。そして地下世界の住人たちがいる。彼らは興味深い連中だよ。様々な形をしていて、モグラに似ているものもいれば魚みたいなのも、鳥みたいなのもいる。蝙蝠みたいなのも。つまりは夢のような国だよ。彼らは地下の言葉で語り合い、思い思いに踊る。そう、踊るんだ。踊りは彼らにとって重要な行為なんだよ。お父さんは何度もその国に迎え入れられて、そして彼らと一緒に踊った」
幼い彼は父の言葉をそのときほとんどひとかけらも理解できなかった。でも今にして思えば父は正直に語っていたのだ。子供の頃の彼にはその答えは何か適当なごまかしのように聞こえた。
成長した彼もまたいつしか地下室で「祈り」を行うようになる。地下より深いさらに地下。そう、父は正しいことを語っていた。なぜならその場所が確かに存在することを、今の彼は知っている。
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どうせすぐ飽きるだろうと思っていたのに、上山サキは彼への食事の提供をやめようとしない。彼にしてみればいわばずっと「おごってもらっている」状態だったので、あるとき彼はこれまでの分の費用を支払おうとしたのだが、上山サキは受け取ろうとしなかった。
「お金のことなら大丈夫やし、お母さんも、あなたが一人暮らしで大変やろうから親切にしてやり、って言ってるから。あなたに食事を作ってあげることをお母さんに話したらお母さんは喜んでたよ。『あんたもそろそろ結婚を考えんといかんものね、あの人ならしっかりしてるし、あんたにお似合いだよ‼』って言ってた。私たち、両親の公認の仲なんだよ。だから遠慮しなくていいの」そして彼女はキャアアアハハアと笑うのだった。
彼はいきなり出てきた結婚という言葉に驚いていた。上山サキと結婚することなど彼の頭には微塵も浮かんだことがなかった。彼女でなくても彼は誰とも結婚などするつもりはなかった。耐えられるわけがないとわかりきっている。かつて彼が付き合っていた何人かの女性が、結婚をほのめかす言動やそぶりを見せたことがあったが、彼は気づかないふりをした。そうした女たちはいずれ自ら去っていったが、上山サキがそうなるかはわからない。上山サキの母親がどのようなニュアンスで結婚などと口にしたのかは知る由もないが、上山サキはまんざらでもなさそうに見えた。今の関係はすでに結婚生活に似ていなくもないのだし、もはや夫婦のようなものだと上山サキは考えているかもしれない。彼女はいつからか食事だけでなく彼の家での家事全般をほとんど行うようになっていた。
今日もまた上山サキは彼の家にやってきて、長い時間居座っている。黒いニットの上着とジーンズを身に着けた彼女は、箒と塵取りを手に持ち、腰をかがめて床を掃いては塵取りで拾い集めるという行為を繰り返している。
改めて観察してみると、彼女の体型は女性らしい魅力に富んでいる。腰の上のあたりから臀部にかけて腰骨が緩やかに膨らみ、肉付きの良い太ももはジーンズを張りつめさせている。彼はソファに腰かけたまま彼女を後ろや横から眺めていた。彼女の魅力はいびつだった。おどけたフグのような顔と、その身体つきは、それぞれ別人のもののようだった。どうしてこんなにアンバランスなのだろう。そしてどうしてこの女はこの家でこんなに我が物顔にふるまっているのだろう❓いつの間に彼女はこんなにも自分の生活圏を侵すようになったのだ。このままにしておいたらそのうち、彼女は地下室に近づいてしまうかもしれない。そうなる前に関係を修正しなくてはならない。今のような食事や家事をまかなってもらうような関係は明らかに距離が近すぎるし、危険すぎる。何も絶交までする必要はないが、なるべく穏当に彼女を遠ざけなければならない。…そうした考えはこれまでに何度か起こった。しかし彼はさほど深刻にとらえていなかった。どうせ上山サキだって時が来れば去っていくはずだ。どんな女も遅かれ早かれいつかは必ず去ってゆくのだ。彼は経験上そのことをよく知っていたし、上山サキも例外ではないと信じていた。それはきっとそう遠い先のことではないはずだし、その時まで地下室を隠し通すことは、難しいとは思えなかった。
上山サキは塵取りの中身をゴミ袋に捨て、そして言った。
「なんでこの家掃除機ないん❓箒で掃除するの大変やろ」
音がうるさいからだよ、掃除機の音が耐えられないんだよ、と彼は言った。すると彼女はパンと手を叩いて、顔をほとんど輝かせた。そして言った。
「ああ、わかるわ‼私も神経の調子がひどかったときにさ、アパートの隣の部屋から掃除機の音とか、ヘッドが壁に当たってガンガンいう音が聞こえてきたことがあってさ、我慢ならなかったことあるもの。あなたの言う通りあれはうるさい。うるさすぎるわ‼子供のころとか、お母さんが掃除機かけだしたら怒ってたもの。テレビとか何にも聞こえんくなるし。しかも掃除機って偉そうな感じがするよね。家電の中でも特に偉そうだよ。場所も取るしさ。わかるでしょ⁈…それに比べると箒と塵取りはいいね。静かやしコンパクトやし、綺麗にしているっていう手ごたえみたいなのがある」
「結婚」という言葉が持ち出されてから、上山サキは妙に元気そうだった。何だか不安になる上機嫌さだった。しかし彼はそれについても深くは考えないようにした。
心なしかそれ以来上山サキの毎日の料理はさらに丹念なものになり、彼女が家を訪れる頻度も増えた。




