7. 父の死
行方不明だった「彼」の父の顛末が語られます。その後、「彼」はひとりで愛媛県松山市へ向かいます
※注 この話を書いたのは2020年頃なのですが、当時は小倉松山間のフェリーが運航していました
12月15日の夜、彼の家の電話が鳴った。下関警察署からの電話だった。警察官が父の名前を告げるのを聞いて思わず彼は受話器を握りなおした。彼の父と思しき人物の遺体が見つかった、と電話の警察官は彼に告げた。
遺体は愛媛県松山市の山中で発見されたという。木々の隙間に仰向けに倒れた状態で見つかった。遺留品の中に失効した免許証があり、そこには彼の父親の氏名と失踪当時の住所、つまり現在彼が暮らしている下関の家の住所が記載されていた。
警察は遺体を父のものだと断定しているようだった。免許証に加えて指紋などの情報も一致したということだった。遺体は現在愛媛県警察本部に安置されているが、遺族である彼はその遺体を引き取る必要がある。そのために遺体を下関市まで搬送してもらうか、松山市まで赴いて現地で火葬の手続きをするか選ばなくてはならない。彼は現地の火葬場に引き取ってもらうことを選んだ。
電話を切ってから、彼は愛媛県松山市という土地について考えを巡らせた。父が若いころにあちこちを転々としていたことは知っていたが、松山に暮らしていたかどうかは知らない。父の話に四国が出てきたことは、彼の記憶にある限りなかった。息子である彼もまた、松山市を訪れたことはない。つまり縁もゆかりもない土地だった。
父はこのままずっと行方不明のままなのだろうと、彼はいつしか考えるようになっていたし、どこかでそう望んでさえいた。そうすればいろんな可能性が残されたままになる。しかしその望みもついえてしまった。
そのあと彼は松山市の火葬場を調べて電話し、火葬の手続きを行った。慣れないことだし急なことでもあったので、彼の電話での喋り方は非常に混乱した、要領を得ないものになった。それでも何とか手続きを終え、火葬の日取りを決めた。
通夜も葬儀も行われない。遺体は警察署から火葬場に運ばれ、そのまま焼かれることになる。
翌日彼は仕事場に休みの連絡を入れ、四国へ向けて出発した。上山サキが小倉のフェリー乗り場まで車で送ってくれた。車の中で彼は父について話した。
…それほど悲しくはないよ、だってもうずっと長い間、父が不在のまま過ごしてきたのだからね、生きているだろうという望みはとっくに捨ててしまっていたよ、覚悟はできていたんだ、それに母を殺したのは父なんだからね、確たる証拠があるわけじゃないけどたぶんそうなんだよ。父は母を殺して逃げたんだ、まだ子供だった僕を一人残して、と彼は言った。
「本当に、あなたのお父さんがやったの❓信じられない。そんなことする人には思えんのやけどね。優しかったし、あなたのお母さんともすごい仲よさそうやったやん」
僕もそう思っていたよ、でも状況が父が殺したことを示していたんだ、第三者の指紋はないし、家が荒らされた形跡もない、僕だって信じたくはない、でもその可能性しかないんだ、殺したのは父だよ、どんなに信じられなくたてもきっとそれは事実なんだ、と彼は言った。半ば自分に言い聞かせるように。
そのあとは2人ともあまりしゃべらなかった。やがて小倉に着いた。彼は上山サキにお礼を言って車を降りた。
「帰って来たら連絡して、迎えに来るから」と彼女は言った。
明日の朝に帰ると思う、電車で帰るから迎え入らない、と彼は言った。
「じゃあその日その時間にここで待ってるから。じゃあね。気をつけて」と上山サキは彼の言い分に耳を貸さずにそう言った。
雑魚部屋のようなフェリーの2等室の片隅に腰かけて、彼はこれから向かう松山市という土地について考えていた。どう考えても愛媛県松山市と父とを結びつける接点は思いつけなかった。彼が知っている限り父はかつて青年期の一時期に東京と大阪に住んだことがある。四国のことが話題に出たことは一度もなかった。四国に住む親類もいない。
頭の中で答えのない問いかけがぐるぐると渦巻くようだった。まわりの乗客たちは雑談をしたりスマートフォンを見つめたり、眠ったりしている。窓の外は暗く、海も景色も何も見えない。彼は布団を敷いてその上に寝っ転がった。長く退屈な、心を躍らせる要素の何もない旅だった。かすかな船酔いの予感があり、彼は何度も唾を飲み込んだ。何か考えようとしても吐き気に邪魔されて一つもまともな形をとらなかった。眠くはなく、眠りたいとも思わなかったが、他にすることもなかったので目を閉じていると、半ば引きずり込まれるように眠りに落ちた。
目を覚ますとフェリーは停止していた。起き上がってあたりを見渡すとすでに誰もいなかった。大勢いた乗客はほとんど降りてしまっていて、部屋には彼ともう一人、小柄な中年の男性がいたが、その人物も荷物を抱えて部屋から出ていくところだった。何だか奇妙なほどに静かだった。彼は布団をたたみ、ロッカーから荷物を出した。そして出口へと向かった。
フェリー乗り場を出るとタクシーをつかまえて市街地へと向かった。暗い早朝の空がだんだん明るくなってくる。空には分厚い雲がたちこめていて、そのせいか風景のすべてがくすんだ灰色をまとって見えた。駅のコンビニエンスストアで朝食を買い、公園のベンチでそれを食べながら時間をつぶした。8時になると愛媛県警察本部に行った。受付で名前を名乗ると担当の警察官のところへ案内された。警察官から父とされる遺体の発見当時の状況を聞く。遺体は松山市郊外の山中の草むらの上で横たわった状態で発見された。首に縄が巻き付いていて、死因は窒息とみられる。縄は刃物のようなもので切られていた。縄の片方の切れ端は、5メートルほど離れた木の枝に結び付けられていた。遺体に外傷はなく、状況から見て自殺に間違いはない。
「ジャンパーのポケットに、硬貨がいっぱい詰まっていました」と警察官が言った。「500円玉から1円玉までまんべんなく、総額にして3040円分の小銭が、両のポケットに入っていたのです」
彼の中で違和感が積み重なっていった。何かがひどく、決定的に間違っている気がする。
本当に父なのでしょうか、と彼は言った。
「所持品やDNA鑑定の情報が一致しています」と警察官が言った。そして彼に、遺体のズボンのポケットに入っていたという財布と運転免許証を示した。そこには父の本名が書かれていた。誕生日も一致していた。顔写真は、ずいぶん人相が悪くなったように見えたが、確かに父の特徴を備えていた。
彼はもう何も質問せず、警察官から死体検案書を受け取り、警察本部をあとにした。それから松山市役所に行って死体検案書と死亡届を提出して火葬許可証を発行してもらった。
そのあと目に付いた定食屋で簡単な昼食をとり、午後3時に松山駅の近くにあるビジネスホテルにチェックインした。部屋に入ってシャワーを浴びてすぐに眠った。6時ごろに目覚めたとき、外では雨が降っていた。彼は洗面所で顔を洗い、またベッドに腰かけてぼんやりした。夕食を食べに行ったり買いに行くのがひどくおっくうだったし、そもそも食欲を感じなかった。
ベッドに横になって目を閉じているとまたすぐに眠りに落ちた。何度か目を覚ましながら、夜の間彼はひたすら眠り続けた。目覚めるたびに雨の音は激しくなるようだった。
次の日の朝には雨はやんでいたが、いぜんとして重そうな灰色の雲が空を覆っていた。彼はホテルをチェックアウトして、葬儀を依頼している火葬場へタクシーで向かった。火葬場につくとすぐに霊安室に通された。警察署から搬送された遺体がそこに安置されている。
冷気がたちこめる霊安室の真ん中で遺体は棺の中に横たえられていた。彼は傍らに立って遺体の顔を覗き込む。父とされる遺体の男はひどく小柄で、年老いていた。髪の毛は頭部にまばらに残っているばかり、頬は鋭くこけていて、薄い皮膚が骨にぴったり張り付いている。無数の細かい皺が顔じゅうに刻まれていた。反射的に彼は、これは別の人間だ、と思った。父ではない。いくつかの特徴が父とは異なっている。父はこんなに小柄ではなかったしこんなに皺だらけでもなかった。しかし彼が父を最後に見たのはもう10年以上前のことだった。10年経てば誰だって年老いる。
彼は遺体の咽喉仏を見た。父の、あの首から何かの間違いのように飛び出した咽喉仏をそこに探し求めたのだった。しかし記憶にあるような鋭角的な隆起はそこにはなく、ただ控えめな、小さなこぶのようなものが、縄の跡が残った首の真ん中でわずかに盛り上がっているばかりだった。
これは父ではないような気がします、と彼は言った。
火葬場の職員は、お気持ちは理解できます、と口にするばかりだった。
違和感は解消されるどころか増大していた。彼は遺体の咽喉仏から目を離せない。父の咽喉仏はこんな形ではなかった、と彼は思う。もっと大きく飛び出していたし、鋭く尖っていた。
彼はその場に立ち尽くしたまま目を閉じていた。瞼の裏に、生きていたころの父の咽喉仏が動く様子が、引っ込んだかと思うとすぐ突き出たり、わずかに震えたりする映像が描き出されていた。そしてまた別の様々な記憶が頭の中を通過していった。彼は誰かに名前を呼ばれたみたいに目を開いた。そして改めて遺体を見た。そして彼は悟った。そうだ、認めなくてはならない。この小柄な干からびた遺体の男が、まぎれもなく自分の父親だということ。この首からわずかに盛り上がった控えめな隆起は、かつては生き物のように動いていたあの父の咽喉仏の、死んだ姿なのだということを。
火葬は午後に行われた。立会う遺族は彼のほかには誰もいない。遺体が燃え尽きるまでの1時間弱の間、彼はがらんとした火葬場をうろうろしながら待った。やがて火葬炉から引き出された父の亡骸はバラバラの骨と化していた。
火葬場の職員に促されるまま、彼はまだ熱が残る骨を箸で取って骨壺におさめた。最後に壺に入れたのは父の咽喉仏の骨だった。それは白く分厚い輪のような形をしていた。彼は不意に白い生き物のことを思い出す。今、あの生き物は水槽の中でどうしているだろう、と彼は思う。今この瞬間も、あれは本当に存在しているのだろうか❓
職員が骨壺の蓋を閉じて桐の箱にしまった。彼はその箱を抱えて火葬場をあとにした。
この地で行うべきことはもう何もなかった。彼は喫茶店でコーヒーを飲みながら、父の遺体が発見されたという山の場所を、スマートフォンの地図ソフトで調べた。
店を出ると彼はバスに乗ってその山へ向かった。30分ほど乗車したあとで降りると、あたりは古びた民家と、田や畑があるばかりの寂れた土地だった。冷たい風が吹いていて、彼はコートのボタンをいちばん上までとめた。そしてスマートフォンで位置を確認しながら歩いた。地図ソフトなしにはよそ者にはまずたどり着けそうもないような場所に、目的の山は位置していた。
20分ほどで山に到着した。登山道の入り口には山の名前が記された立札が立っている。さほど高くもないこれといった特徴のない山だった。中腹と山頂近くに鉄塔が突き出しているのが見える。彼は山を登りはじめた。もちろん登山を楽しむなどといった気分ではなかった。この山のどこかで父の遺体が発見されたのだ。しかし彼はその正確な位置は知らなかったし、その位置を特定することが目的でもなかった。坂道を上るうちに息が切れてくる。人の姿は一度も見かけなかった。
山頂もやはり無人だった。小さな石碑があって、表面には細かな文字がびっしりと刻まれていた。標高を示す立札が立っていて、ベンチが一脚置かれていた。彼はそのベンチに腰かけ、ペットボトルのお茶を飲んだ。木々の隙間からふもとの町が見下ろせる。建物はくすんだ灰色に霞み、ひどくおぼろげだった。冷たい風と冷えた汗が彼の体温を奪っていったが、彼は寒さが気にならないほど眼下の景色に意識を奪われていた。正確には彼は景色を見ていたのではなかった。彼が見ていたのは、あるいは見ようとしていたものは、視界に生じていた正体不明のズレのようなものだった。父の遺体と対面した時にも覚えたあの違和感のようなものがよみがえっていた。あのときから、ズレの感覚は消えるどころか大きくなっている。
やがて彼は目を閉じ、ベンチの背もたれに頭を乗せた。そして瞼の裏の暗闇に白い生き物の姿を描き出そうとしたが、ほんの一日ちょっと離れていただけなのに、それがどんな風だったか思い出せなかった。そのあと彼はもうほとんど身体を動かさず、眠ったように長い間目を閉じていた。
突然鋭いしゃがれたような声が聞こえて彼は目を開けた。黒い鳥が木々の隙間をかいくぐり、空へ飛び去ってゆく姿が見えた。
彼は立ち上がり、山を下りはじめた。バスに乗って松山市の市街地へ戻る。松山駅のお土産売り場で、上山サキへのお土産に蜜柑のタルトケーキを買った。
午後21時55分に彼は松山観光港からフェリーに乗り込んだ。着替えて布団に横たわるとすぐに眠ってしまった。泥に沈みこむような眠りだった。
翌朝5時に小倉に着いた。小倉港を出て少し歩くと、見覚えのある黄色い自動車が道路沿いに停車しているのが見えた。彼に気づくと上山サキは笑顔を浮かべ、ドアを開けた。
彼は上山サキにお土産を渡した。
「愛媛県と言えばみかんやもんね。ありがとう」と彼女は言ってそれを受け取った。
車内で上山サキは彼に何も尋ねず、運転しながら何か別の話をひっきりなしに続けていた。彼は眠気がさめていなかったのでほとんど何も聞いていなかったが、そのとき上山サキの声が妙に心地よく、まるで遠くから届くおぼろげな音楽のようだった。
途中で上山サキは『マクドナルド 下関東駅店』に立ち寄り、テイクアウトでポテトとハンバーガーとコーラを注文した。それを彼に渡し、食べるように言った。ほとんど命令のような口調だった。
「食べなさい。あなたすごい疲れてるみたいやから」
食べたくないし食欲がない、と彼は言ったが、そういうときにこそジャンク・フードがいいのだ、と彼女は主張をして半ば無理やりに食べさせようとした。彼は気が進まないながらもフライドポテトをつまんで口に入れてみたが、その一口によって自分がどれだけ腹を空かせていたかを知った。数分ののちに彼はすべてを平らげていた。それは控えめに言って彼にとって人生で上位に入る充実した食事だった。
やがて車は家に着いた。車を降りて別れる前に、彼は上山サキに改めて感謝の意を伝えた。送り迎えのことだけでなく、マクドナルドのおいしさを教えてくれたことに対する感謝の念も含まれていたかもしれない。
「ゆっくり眠りなさいね」と彼女は言った。そして彼らはそれぞれの家に戻った。
実際に彼はその日上山サキが言うとおりに長く眠った。ほとんど一日中。
父の遺骨は祖父や祖母が眠る坂の上の墓地に納められた。父の遺産として彼が受け取ったのは、父がポケットに詰め込んでいたという3040円分の小銭だけである。
⚪⚪⚪
地下室で白い生き物を眺めていると、生前の父の幻影がしばしば彼を襲った。幻の父は生前のように彼にいろんな話を語ってはくれなかった。ただ黙って無表情に立ち尽くすのみ。父はいつも水槽の反対側に出現した。彼らは水槽越しに向かい合い、言葉にならない思いを交換した。両者の間では白い生き物がひっきりなしに形を変えながら優雅に、滑らかに泳ぎ続けていた。
やはりまだ父はどこかで生きているのではないか、という思いが何度となく彼を襲った。あの死骸はやはり別人のものだったのだ。誰が、何のために縄を切ったんだ❓なぜ遺体は、縄がくくりつけられていた木のところから5メートルも離れていたのか。なぜ父は小銭をいっぱいポケットに詰めていなくてはならなかったのか。やはりあれは父ではなく、よく似た別人だった。別の人間を父に仕立て上げたのだ。でもいったい誰が、何のために、そんなことをする必要があるのだろう。彼の頭の中は疑問で入り乱れた。
生き物はかまうことなく泳ぎ続けている。適当な食べ物を投げ入れると、生き物はそれを余さず飲み込み、それから輝く虹色の排泄を行った。
年が明けた。1月の半ばに大雪が降った。上山サキはどことなく彼に対して以前より親切になった。そして彼はその親切さを以前ほどにはありがた迷惑のように感じなくなっていた。彼女が何度か窓や勝手口から無断で家に上がり込んできたときにも、それほど強く注意しなかったし、彼女がどんなに長居しても、早く帰るよう促したりはあまりしなくなった。
彼は、自分が上山サキをそんな風にある程度許すようになったのは、彼女がある懐かしさを喚起させるからだということに気づきつつあった。彼の両親がまだ健在で、彼がまだその庇護下にあった頃の、平和で幸福な時代への懐かしさ。上山サキはそんな日々を一緒に過ごした幼馴染でもあるのだ。そのような思いが彼女への警戒心を少しずつゆるめていた。




