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5. 広場のような海峡

「上山サキ」による関門海峡の印象が語られます。また海響館の生き物が描写されます



次の月曜日の朝、朝の6時過ぎにインターフォンが鳴った。その頃には彼は先日の約束のことなどほとんど忘れていた。上山サキだって忘れているだろうと考えていた。しかし彼女は真剣だったのである。

「おはようございます。朝ごはんと昼食のお弁当、お持ちいたしましたよ」上山サキは笑みを浮かべながらわざとらしく丁寧な口調で言った。お盆には作りたての湯気を立てる朝食が乗っていた。黄色いクロスに包まれた弁当箱もあった。

ああ、おはよう、あの…、と彼は言った。

「なんでそんなにびっくりしてるの❓」

いや、まだ起きたばかりだったから、それに本当に持ってきてくれると思わなくて、と彼は言った。

「本当にってどういうこと❓冗談だと思ってたの❓そんわけないでしょう。今日はね、ご飯と卵焼きとお味噌汁と漬物、あなたが小食だっていうからそんなにたくさんは作らんやったよ。あとこれがお弁当ね」

彼は恐縮して、丁重にお礼を言った。

上山サキは笑った。「相変わらず他人行儀やね。何年も会ってなかったから、まだ昔の感覚が戻ってこんのやろ❓そういう人っておるよね。すぐ食べる❓ちょっとあがるね。テーブルまで持って行ってあげる」

いや、いい、自分で運ぶから、ありがとう、と言って彼は彼女からお盆を受け取った。

しかし女は立ち去らずになおも玄関先に立っていた。「掃除とかアイロンがけとかやってあげようか❓遠慮せんでいいよ、私暇だから」

本当にそういうことはみんな自分でやるのでいい、と彼は言って半ば無理やりに彼女を家の外に追いだしドアを閉めた。上山サキはそのあともドア越しに何か言っていたが、やがて帰って行った。


彼はテーブルに向かって朝食を食べた。普段朝食はパン一枚とかそういったもので済ませていたので、それに比べるとその朝食はずいぶん豪華だったし、味も申し分がなかった。朝食を終えると彼は食器を流しに置き、それから少し迷いながらも通勤用の鞄に上山サキが持ってきてくれたお弁当箱をおさめた。そして家を出た。

彼は5キロ離れた印刷工場に自転車で通っている。自転車にまたがって家を出ると上山サキが彼女の家の前に立っていた。彼女は彼の姿を見ると「いってらっしゃい」と大声で言った。彼はそっけなく返事をしてすぐに走り去った。彼女の顔にはごく親しいものにだけ向ける優し気な微笑みが浮かんでいた。



午後7時に帰宅した彼は入浴を終えたあと地下室にこもっていた。夕食はまだとっていなかった。昼食に食べた上山サキのお弁当はじゅうぶんな量があったから、そのおかげで空腹を覚えなかった。普段から彼は空腹という状態にあまり注意を払わない。長い間空腹でいても、そのことに気づかないこともある。

そういえばあの弁当箱を鞄に入れっぱなしだった、と彼は思い出し、地下室から出て居間へ行こうとした。その途中玄関の前を通ったとき、三和土に人が立っているのに気付き、彼は驚いて足を止めた。それは上山サキだった。

彼は混乱してしばらく固まったようになった。なぜこの女がここにいるのか、なぜ勝手に玄関をくぐっているのか❓インターフォンは鳴っていなかったはずだ。彼女は両手にビニール袋を提げていた。中にいろんな食材が詰まっているのが見える。

「夕食を作りに来たの」と彼女は言った。

何のことかな、と彼は言った。

「作ってあげようと思って。それとももう食べた❓」

そんな約束はしてない、と彼は言った。

「いいじゃない別に。もう食べちゃったんなら、これ冷蔵庫に入れとくね。また使うやろうし」

彼女はそう言って家に上がり、廊下を歩き出した。

彼はよほど彼女の肩を掴んで押し返そうかと思ったが、不用意に身体に触れることに気が引けたし、そもそも彼女はそういう行為を許さないほど素早く動いたのだった。

「あなたさあ、今どこにおったん❓呼んでもなかなか出てこんやったけど。あっちがあなたの部屋❓」

彼女はいま彼が出てきたばかりの地下室へ続くドアを指差して尋ねた。彼は、ここは物置だと答えた。すると何がおかしいのか彼女はけたたましく笑った。

「物置で何しよったん。夜の7時に」

古本の整理だと彼は嘘をついた。

「お風呂に入って、ご飯食べてすぐ、本の整理なんかしてたの」

夕食は食べてないんだけどね、と彼は言った。

「なんだ、やっぱりまだやったんやね。それならちょうどよかったね」

今日はもう食べないつもりだったんだけど、と彼は言った。

「あら、よくないよそういうの。ちゃんと3食食べんと。あと朝の食器とお弁当箱も、取りに来たんよ。そのついでに作ってあげようと思って。お弁当どうやった、おいしかった❓」

彼は肯定した。そんなやりとりの間に2人は台所に到着した。

上山サキはビニール袋をどさりとテーブルに置き、食材を取り出した。上山サキはひとしきり台所を点検し、家の中を眺めまわしていた。「へえ。本当に、結構ちゃんと綺麗にしてるんやねえ」と彼女は言った。

ところで君はどうやって家に入ったのだ、鍵はかかっていたはずだ、インターフォンも鳴らしていないだろう、と彼は問い詰めたが、上山サキはろくに取り合わず、当たり前のように料理を作りはじめた。彼はあきらめて、黙って椅子に座った。彼は上山サキに対して強硬的に出ることができない。帰れと怒鳴りつけたり無理やり肩をひっつかんで家の外に押し出したり、そうした行為は彼にはできないことだった。それは優しさというよりはおそらく怖れからいていた。彼は女性に対する恐怖心をいまだ捨てきれずにいる。恐怖心というよりは得体の知れないものに対する畏怖といったほうが正確かもしれない。彼には女性がまるで森の奥に住む誰も知らない神秘的な鶴のように見えることがある。

上山サキはお米を炊いたり味噌を溶かしたりひき肉を練ったりして、30分後には料理はすべて出来上がっていた。彼はテーブルの向かいに座った上山サキの視線に見守られながら夕食をとった。彼女が作ってくれた「ハンバーグ定食」は文句のつけようのないものだった。彼はすぐに平らげてしまった。

おいしかった、ありがとう、と彼が言うと上山サキは満足げに微笑んだ。彼女はそのあとも2時間ほども彼の家に居座った。食事を3食ともごちそうになってしまった以上、それも非常においしかったので、早く帰れとも言えず、彼は結局そのまま何となく彼女の滞在を許したまま、彼女が作ってくれてコーヒーまで一緒に飲むことになった。そのあと上山サキは、彼が止めるのも聞かずに家のあちこちを掃除しはじめた。もはや彼はなすがままにしていた。別に気にする必要はない、地下室さえ露見しなければいいのだ。これまで誰にも家に人を上げなかったのは地下室の存在を知られたくなかったからで、それさえ見つからなければこの女が何をどうしようとかまわないのだ、と考えることにした。


9時を過ぎてようやく彼女は「そろそろ帰ろうかな」と言った。

彼はうなずき、それがいいよ、と言った。

「また明日来るから。明日のおかずは何がいい❓コロッケとかどう。そういや聞くの忘れてたけど、あなた嫌いなものとかあるの」

嫌いなものはないしコロッケでいい、と彼は答えた。そして上山サキに別れを告げ、彼女を家の外に送り出した。別れ際に彼は、どうか次に来るときは必ずインターフォンを鳴らしてほしい、今日のように勝手に上がりこむような真似は決してしないでほしい、泥棒かと思ってすごく怖かったから、と彼女に伝えた。

上山サキは悪びれる様子もなく、「あなたにも怖いものなんてあるんやね」と言った。「でもわかった。ちゃんとインターフォンを鳴らすよ。さっきも一応ノックはしたし、名前も呼んだんやけどね。でも返事がなかったし、鍵が開いてたから勝手に入っちゃった。あなたも鍵はかけたほうがいいよ」

彼は改めて別れを告げた。上山サキが向かいの家の中に入るのを確かめてから、彼は家に戻った。

本当に玄関に鍵をかけていなかっただろうか、と彼は自問した。思い出せない。日常的に無意識にやっている行為なので記憶がない。これまで鍵をかけ忘れたことなんてあっただろうか❓しかし上山サキは実際に家に上がり込んでいたのだ。いくらなんでも彼女が鍵をこじ開けたとは考えにくい。結局何もわからず、彼はそのことについてはそれ以上深く考えないことにした。


それからも上山サキは彼に食事を送り届けた。平日には欠かさずやって来たし、休みの日でも時々訪れることがあった。あまりにしつこく、また熱心なので、いちいち拒むのも面倒になって彼はやりたいようにやらせていた。それに食事のことを考えなくて済むのは彼にとって有難からぬことでもなかった。上山サキが黙って家に上がり込むようなことは約束した通りなくなったものの、彼は地下室が彼女に見つからないように常に注意を払っていなくてはならなかった。

あるとき上山サキが言った。

「あなたって家でいつも一人で何してるの」

本を読んだりゲームをしたりしている、と彼は答えた。これはこうした質問を受けた場合のために用意してある彼のお決まりの返答である。

「でもこの前の夜、あなたの家どこにも明かりがついていなかったよ。まだ8時ぐらいやったのに」

カーテンを閉めているし、明かりは小さな読書灯ぐらいしか灯さないから、と彼は答えた。

「ふうん。あなたって『インドア派』なんやね‼いつもそんな風なの❓どっか出かけたりせんの❓」

仕事以外は、買い物と散歩ぐらいしか外出はしない、と彼は言った。

「そんなんで退屈じゃないん」

別に、僕にとっては普通のことだから、と彼は答えた。

「今度の日曜、どっか行かん❓たまには出かけるのもいいでしょ。私が運転するよ」

どこへ行くの、と彼は尋ねた。

「別にどこにも。ただのドライヴ。町をぶらぶらするの。よさげなところがあったら降りたり、カフェでコーヒーを飲んだりとかさ」

いいよ、と彼は答えていた。経験的に彼はこの女の申し出は拒絶しないほうが良いということを学んでいた。拒んだところで素直に引き下がることはないし、あまり逃げ回っていると前のように勝手に家に上がり込んだりとか突飛な予想のつかない行動に出ることがある。そうして次の日曜日の約束が取り決められた。


日曜日、彼は上山サキのみかん色の車の助手席に乗っている。車は関門海峡沿いの道路を南下していた。薄曇りの寒い日だった。上山サキは鼻歌を歌いながら運転している。

君の病気は運転には支障ないの、と彼は尋ねた。

「今は運転ぐらいなら大丈夫、別に発作みたいなのが起きるわけじゃないから。しょっちゅうあちこちドライヴしよるんよ」

体調を崩してどれぐらいになるの、と彼は尋ねた。

「1年ぐらい。最初の頃はもっとひどかったんよ、息切れみたいに呼吸が苦しくなったり、動悸がしたりね。心臓が本当に壊れて止まってしまうんじゃないかっていうほどカタカタいうの。そういうのは怖かったよ。だんだんひどくなって、仕事中にも症状が出るようになって、病院に行ったけどはっきりと悪いところはないらしくて、それで神経がおかしいっていうことになって、しばらく仕事を休んで安静にしてなさいって言われた。両親に相談したらそれならこっちに帰ってこいっていうから、仕事辞めて帰ってきたの。こっちに帰ってきてからはずいぶんよくなった。やっぱり仕事のせいやったんかねえ。平気な時は平気なんやけどね。仕事してた時もね、仕事中にしんどくなって休んでたりすると、文句とか嫌味を言われたりすることがあったよ。あなた別に悪いとこなさそうやけどねえって言われるの。そういうのもしんどいんよね」

車は壇ノ浦を通過し、唐戸に差し掛かった。

「ちょっとこのへんを散歩しようよ」と上山サキが言って、駐車場に車を停めた。

2人は海沿いの遊歩道を歩いた。天気はすぐれず風は冷たかったが遊歩道にはかなりの数の人がいた。家族連れやカップルや外国人観光客。市内でこれほどの人混みを目にする機会は少ない。彼と上山サキは海を眺めたり、近くの商店でたこ焼きを買って食べたりした。いくつもの船が関門海峡を行き来している。

「関門海峡って広場みたいじゃない」と上山サキが言った。彼は意味がよくわからなかったので曖昧な返事をした。

「昔から思いよったんよ、特に朝に、波がなくて、朝日に照らされて海が一つの色になっているときとか、よく思った。海面が地面みたいに見えるの」

広場だとしたらすごく広いね、と彼は言った。

「そうよ。でも海だと思うと狭い感じするよね関門海峡って。大きい川って感じ」

彼らはひとしきり歩いたあと『スターバックスコーヒー 下関あるかぽーと店』に入って一休みした。そのあとで上山サキが「海響館に行きたい」と言った。海響館とは下関市にある唯一の水族館の名前である。拒む理由もなかったので彼は同意した。

「私海響館って行ったことない。あなたは❓」

僕もない、と彼は答えた。

「地元に住んでると意外と行く機会ってないよね。こないだ知ったんやけど市民なら1000円で入れるんよ。普通だと2500円もするのに」

チケット売り場に行き、下関市民であることを証明するために上山サキは運転免許証を、彼はマイナンバーカードを提示してチケットを購入した。そして館内に入場した。

海響館は下関にある最大級の施設であり、たくさんの水生生物が飼育されている。イルカやペンギンやマンボウや、その他さまざまな海の生き物を2人は見て回った。ピラルクの大きさと見た目を上山サキはひどく怖がってろくに見もしなかった。寄り添って泳ぎまわる2頭のスナメリのことは気に入って、なかなかその水槽の前から離れなかった。

下関の名物であるフグもいた。いくらか間の抜けたような顔をしているくせに尾に猛毒をはらんだその魚。一口にフグとはいっても実にさまざまな形や色や模様をしたフグが存在することを彼は知った。四角いものや丸いもの、とても小さなもの、ずっと砂に隠れているもの、複雑な模様を備えたもの、泳がずに砂の上でじっとして口をぱくぱくさせるだけのものもいた。上山サキはそれらのフグを一匹ずつ熱心に眺めていた。

「私フグって好きなんよ、食べても美味しいし」と彼女は言う。「フグに顔が似てるって言われたこともあるよ。今考えると馬鹿にされたみたいやけど、そんなに嫌じゃなかった。まあ、私には毒なんかないけど」

彼らは1時間半ほどかけて館内を何周かしてから海響館をあとにした。

「楽しかったね」と上山サキが言った。彼も同意した。

「でもさあ、ああいうところの魚たちって可哀想じゃない❓水槽って狭いしさ。自由に泳げないし。ピラルクとか、窮屈そうやったよ」

そうだよ、気の毒で残酷なことだよ、あんなふうに生き物を閉じ込めるべきじゃないんだ、と彼は言ったが、自分も白い生き物を同じように閉じ込めていることを思い出した。

「逃げ出せないんだよね。もし地震とかきたらどうなるんかな。水槽が壊れて外に放り出されて、海が近いから、何とかして海に帰れるかも」

いや、無理だろう、前に何かで見たけど、水族館の水槽って地震が起きてもびくともしないんだって、だから魚たちは地震が来たとしてもまずあそこから逃げられない、と彼は言った。

「でも水槽での暮らしも悪くないこともあるんやろうね。そう考えるしかないよね。自分で餌を探さんでいいし、飼育員の人たちにも可愛いがってもらいよったし」そんなことを話しながら彼らは家に帰った。

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