4. みかん色の自動車の女・後編
「彼」は「上山サキ」と近所を散歩します。また彼女から「彼」に対してある提案がなされます
12月の最初の日曜日の午後、彼の家のインターフォンが鳴った。
彼の家の家のインターフォンが鳴ることは珍しいが、その場合には必ず彼は応対する。インターフォン越しにではなくドアを開けて直接面と向かって訪問者と相対する。たいていは新聞の勧誘とか宗教の勧誘とかそうした類の訪問者だったので、当然拒絶の意を伝えることになる。彼はそんなとき、「帰れ」と言えば一言で済むところを遠回しに長々と、自分がいかに来訪を拒絶し迷惑がっているかについてとうとうと述べるのだった。唐突に鳴らされるインターフォンを自分がいかに怯え怖れているかについて、涙声で語ることもあった。そして相手の言葉には一切耳を貸さない。たいていの来訪者は目的をあきらめるというよりはむしろ気味悪がって帰っていった。
そんなわけでその日突如として鳴り響いたインターフォンに対しても、もちろん彼は応対した。その時彼は地下室にいたが、壁に備え付けられたモニターによって来訪者のあることを知った。画面には一人の女が映っていた。上山サキだった。
彼は受話器をとって、一応儀礼的に、どちら様ですか、と言った。
「あ、私です。わかるやろ❓上山」
何だってこの女はいきなり訪ねてきたのだろうと思いながらも彼は用件を尋ねた。
「用事なんてないけど、ちょっと寄ってみたの。ちょっと話したいこともあるし。お土産も、持ってきたよ」
彼は上山サキとの間に話すべき話題など一つも思いつかなかったが、彼女はその態度から察するに容易に立ち去りそうもなかったし、来訪の真意もうまくつかめなかったので直接玄関まで出向いた。
上山サキは彼の姿を見るといつもの笑みを浮かべた。
「こんにちは、はい、これお土産のゴーフル」と言って彼女は包装紙でくるんだ四角い箱を彼に差し出した。上山サキは、彼が幼いころから神戸風月堂のお菓子「ゴーフル」を偏愛していたことを覚えていたらしい。彼はお礼を言ってそれを受け取った。改めて用件を尋ねようとしたが、上山サキはその隙を与えてくれなかった。つまり彼女は一方的にしゃべった。「最近どうしてたん。ご家族はお元気❓(彼女、すぐに思い出して)…あ、ごめんなさい。私最近広島から戻って来てこっちに住んどるんよ。こうやってちゃんと話すのって久しぶりやね。あなた、すごい立派になったね。背も高くなったし。昔はもっと小さくて、おとなしい感じやったよね。でも面白いね、まだ昔の、子供のころのあなたが見えるみたい(彼女はクスクスと笑った)。今はどうして暮らしてるの❓ああ、あそこの工場❓へえ、意外やね。工場で働く人に見えない。ああいう仕事ってもっとヤンキーみたいな人がやるもんでしょ」
最近の工場はシステマチックでなおかつ清潔であり、働く人も必ずしも荒くれものばかりではない、と彼は言った。ついでに自分が働く工場の仕事について簡単に説明した。週に5日か6日働き、主に地域に配布するチラシやダイレクトメールやフリーペーパーの類の印刷をしている。
「へえ、じゃあよくポストに入ってるあのチラシみたいなの、あなたの工場が印刷しよるん」
彼は肯定した。上山サキは感心したように何度か頷いた。「ああいうのもさ、やっぱり誰かが作りよるんやもんね。誰かが文章を書いて、デザインして、校正して、印刷して出来上がるんやもんね。何か勝手にどんどん出てくるものみたいに思いよったけど」
言いたいことはわかるよ、と彼は言った。
「私はこないだまで広島で薬剤師やってたんやけどね、病気になって辞めたの。なんか身体がおかしくなってね。いきなり喉が痛くなったり、熱はないのに顔だけがカーッて熱くなったり、息がうまくできんくなったりするの。神経の乱れのせいだってお医者さんは言ってた。原因はわからんけど、たぶんストレスやろうって。ストレスはないわけじゃなかったから。仕事は好きやったんやけどね」
彼は相槌を打ちながら聞いていた。彼女の突然の訪問を迷惑に感じていないわけではなかったが、そんな態度はおくびにもださず、努めて礼儀正しくふるまっていた。上山サキもまた近所の住人なのだし、友好的であるにこしたことはないのだ。彼は上山サキに、子供の頃よりずいぶん綺麗になったね、などとお世辞を言った。すると上山サキは「あら」と言って笑みを浮かべ、彼の肩を軽く叩くといった仕草をした。
そのあとしばらく世間話をした後で彼女が言った。
「ねえちょっと散歩でも行かん❓天気も良いし」
彼は上山サキが家に上がり込むつもりなのではないかと身構えていたので、その申し出を聞いてむしろほっとした。だから、本当はさっさと一人きりになりたかったのに、つい彼女の誘いに応じてしまったのだった。
彼らは並んで近所を歩いた。人の少ない田舎町なので、日曜の午後であってもほとんど誰ともすれ違わない。彼らは子供の頃に一緒に遊んだ空き地や公園を見て回ったが、そうした場所のいくつかはすでにかつての面影はなかった。空き地だった場所には家が建っていたり、柵で囲われて人が入れないようになっていた。公園では遊具の多くが撤去されていた。遊んでいる子供の姿もない。
ある公園を歩いていたときに上山サキが言った。「あの砂場で昔さ、小学校の頃やけど、私が一人でいたときにさ、私すごく落ち込んでて、何があったのかは覚えてないけどひとりでしゃがんでたらあなたが来てくれて、お菓子のおまけみたいな人形をくれたよね。覚えてない❓あのときすごい嬉しかったんよ。その人形はぜんぜん女の子向きのやつじゃなかったけど…戦隊ヒーローのフィギュアみたいなやつ。でも私はすごく気分が晴れたの。あの人形、まだ持ってたらよかったんやけどね。どっかいっちゃったね。でもあのとき、あなたは優しいなって思った」
彼は身に覚えのない出来事によって褒められているような妙な気分になった。もし本当に子供だった自分がそんなことをしたのだとしたら、俺は結構な紳士じゃないか‼と彼は思った。
そのあとも上山サキはいろんな場所を通りかかるたびに思い出話を語った。「この広場に昔、子犬がたくさんおったことがあったよね。あのときあなたもおったっけ❓そう、いっぱい近所の子供が集まってたもんね。それでみんなで子犬と一緒に遊んだんよね。あの子犬たち、おかしくなりそうなほど可愛かった。連れて帰りたかったけど、うちは犬飼えんやったからね…」とか「この坂道で昔転んだんよ。そのときに血がたくさん出て、その血のあとが、そのあとずっとアスファルトに残っとったんよ」とか「この家の塀にボールをぶつけて遊びよったら若い女の人が出てきて、怒られるんかと思ったらそうじゃなくて、一緒に遊んでくれてさ、そのあとしばらく友達みたいになった。あとで引っ越して行ったけどね」
そういった子供の頃のエピソードを彼女はじつによく覚えていて、そんな話を聞くうちに彼もまた子供の頃の記憶がいくつか掘り返されていくのを感じた。
彼らは川にたどり着いた。川面は冬の日差しを反射してキラキラと光っている。上山サキは橋の欄干から身を乗り出すようにして川を見下ろした。
「子供のころはずいぶん高く感じたのに、今見るとぜんぜん低いね」
彼もまた川を眺めた。上山サキが言う感覚は、理解はできたものの、彼は大人になってからも何度もこの川の周辺を通っていたので、すでに彼とは無縁のものだった。
上山サキは道路の小石を拾って次々に川に投げこんでいたが、不意に彼の顔を見て言った。「あなたって一人暮らし❓結婚してないの」
一人暮らしだと彼は答えた。
「じゃあ食事とか掃除とか洗濯とかはどうしてるの❓誰かにやってもらってるの❓彼女とか」
全部自分でやっている、と彼は答えた。
「仕事しながら家事まで一人で全部やるのって大変やない❓」
そんなこともない、慣れているし大した労力でもないから、と彼は言った。
「でも食事とかさ、栄養バランスとかカロリーとか考えてないでしょ」
確かに彼はそんなことは考えたこともない。そもそも彼は食に対する関心が薄い。空腹を満たせるのなら何でもよいと考えるタイプだった。場合によっては食事を抜くこともあった。そういうことを彼が話すと上山サキはもっともらしくうなずいた。そして言った。
「ほら見なさい、そんな暮らしをしてるといつか身体を壊すよ。今度からさ、あなたのご飯を私が作って持って行ってあげるよ。あなたの家まで。遠慮せんでいいんよ。私料理得意やし、ぜんぜん手間じゃないから。いい考えでしょ」
いや本当に、どうかお構いなく、と彼は言った。
「遠慮せんでええんよ。私もさあ、毎日じっとしているわけにもいかんし、なにかやることがあったほうがいいって、お医者さんにも言われてるんよ。あなた朝何時に起きるの」
だいたい6時、と彼は言った。
「じゃあ私が6時半ごろに朝ご飯を作って持って行ってあげるから。あとお昼のお弁当もつけて」
気持ちはとても嬉しいのだけれど君にそんな負担をかけるのは申し訳ない、と彼は言った。
「別に負担じゃないよぜんぜん。どうせいつも朝はやることがないし、家にいるばっかりで何もせんのもあれやし。家族の食事とか私が作ることもあるから慣れているの。食事が一人分増えるなんて何でもないんよ」
自分は胃が小さいからあまり多く食べられないし残すようなことになったら申し訳ない、と彼は言った。しかしそんな理由では彼女は引き下がらなかった。
「そんなこと気にせんでええんよ。胃が小さいって、それはこれまでちゃんとした食事をしてこんかったからやろ❓私の料理やったらたくさん食べられるよ。今まで食べてくれた人みんなそう言ってたから」
彼女があまりに熱心なので、彼はだんだん断る気力を失ってきた。今では彼の頭にはかつての幼いころの「サキちゃん」の姿がはっきりとよみがえっていた。確かに昔から彼女はこんな風に、親切ではあるのだがやや押しつけがましいところがあった。自分が正しいと信じたことは、特にそれが誰かのためになると判断した場合には、ほとんど強引なほど押し通して実現させてしまう。考えようによっては慈愛に満ちた性格ともいえるが、たいていの場合はありがた迷惑のようになっていた。
彼はそれ以上拒み続けることをあきらめた。彼女が自らこんなに望んでいるのなら別に受け入れたっていいのではないかと思った。確かに彼にとって不利益なことは何もないのだ。それで彼は、君がそうしたいのなら好きにすればいいよ、とついに言ってしまった。
上山サキはそれを聞いて「そうだよね、そのほうがいいよ」と言った。




