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3. みかん色の自動車の女・前編

彼が属する地域社会における「彼」の立場、および「彼」という人間についての若干の考察が行われます。また、「彼」の近所に住む女性「上山サキ」が紹介されます。

彼は自身が属する地域社会においていつも自分が不必要に「浮いた」存在になることのないよう注意していた。トラブルの種となるような人物とみなされないように、怪しまれることのないように気を配っていた。ルールは決して破らず、地域の催しや集会などには可能な限り参加する。必要以上の個人的なつきあいを避けつつ自然に地域社会にとけこむこと。それが彼の望む状態であり、今やおおむね実現していた。

もともと彼は近所の人々から特に悪い印象を持たれてはいない。礼儀正しく身なりも清潔で言葉遣いも丁寧だったし、両親にまつわる暗い過去のために人々から漠然と同情を寄せられてもいた。しかし特に好かれていたわけでもない。彼は自身の周りに壁を、それほど堅牢ではなくても「膜」のようなものを張り巡らさせていた。ほとんどすべての物ごとをその膜の外側で処理し、「膜」の外にあるものに対しては積極的に関心を示すことがなかった。彼とわずかにでも接点を持ったことのある人ならその「膜」の存在は容易に感知しうるものだった。愛想もよくハンサムだけど何を考えているのかわからない、口にする言葉はことごとく心がこもっていない。程度の差はあれ誰もが彼についてそんな印象を抱いた。そのような人物はめったに人に好かれない。一部の人々は、彼の「膜」は彼が内側に抱く異常な思想や傾向を隠すためのものだと想像したが、それは単なる想像にとどまった。

彼自身も自分を包み込む「膜」の存在を感じていた。それが年月とともに分厚く硬くなっていることも自覚していた。そしてそのことを問題だとは考えなかった。他人が自分に対してどのような印象を持ったとしても彼は気にしなかったし、他人に放っておかれることはむしろ望むところだった。そんなわけで彼は地域社会において居ながらにして無視されるような存在になった。


そんな彼に対して、ある種の女性がときどき特殊な興味を抱いて接近してくることがある。彼女たちの目には彼の「膜」が彼の魅力そのもののように映ったのだ。彼は前述のとおり見栄えは悪くないし、誰に対しても公平に親切だったから、女性を引き付ける要素は一応備えていた。

彼はそうした女性たちに対して何の関心もなかったが、だからといって無下に退けたりもしなかった。それは親切心や優しさのためというよりはむしろ、ひどい扱いをして逆恨みされたりよくない噂を言いふらされたりして自身の生活を乱されたくなかったからだった。彼は事を荒立てないように女性たちと接したが、そうした交際はたいてい数か月、短い時は数週間で破局を迎えた。彼女たちは誰もが同じような失望感を覚えて必ず彼のもとを去ってゆくのだった。当初魅力的だと感じていた彼の翳のある謎めいた印象は、交際を重ねてもなおも謎のまま、そのうちにむしろ不気味さへと変わってゆく。真の意味での心の交流のようなものは一度も生じなかったし、この先何年付き合ってもきっと変わらないだろう。宇宙人とかロボットと付き合っているようなものだ。いや、そっちのほうがよっぽどましかもしれない。女性たちはそんな風に失望して、あるいはうんざりして、静かに身を引いてゆくのだった。

たとえば彼は女性たちを決して自宅に入れなかった。また女性の名前を決して呼ばずいつも「君」と呼んだ。自身のことにつてほとんど語ろうとしなかった。そういったことが少しずつ積み重なって彼女たちの気持ちを遠ざけていった。


彼の家の向かいに住む上山サキという女は、彼より2歳年下で、彼とは昔から顔見知りだった。子供の頃にはほかの近所の子供たちと一緒によく遊んでいたが、小学校の高学年になる頃にはほとんど没交渉となり、その後はほとんど顔を合わせる機会はなかった。そのあと上山サキは高校を卒業して広島の大学に進学し、そのままその土地で就職したという話を、彼はどこかで聞いて知っていた。

その上山サキの姿を、彼は最近になって頻繁に見かけるようになった。

日曜日の午後、上山サキが自宅の前の車寄せで、甘夏みかんのような色をした軽自動車を時間をかけて念入りに洗っているところを、彼はよく目にした。彼女はいつも楽しそうに、きわめて念入りに、車を隅々まで丁寧に洗っていた。その様子は車に対する愛に満ちていて、いかにも幸福そうだった。車に向かって何か言葉をかけているような様子さえあった。

彼にとって日曜日の午後はいつも長い散歩をするための時間だったから、その行き帰りに洗車中の彼女とよく出くわした。上山サキはいつも彼に明るく「こんにちは」と声をかけた。彼はそれに応じてただ無言で頭を下げる。それ以上のやり取りはない。上山サキは彼を見つめて微笑み、洗車の手も止めて、何かもっと話したそうなそぶりを見せているが、彼は取り合わずに、そのまま家に帰る。明らかに彼女の視線は好意的なものだった。それもやや熱烈な好意だった。そういう目つきに彼は見覚えがある。彼についてまだ何も知らず、表面的な部分だけを評価した女性が、しばしば彼に向ける目つき。


彼は上山サキのことを覚えていたが、大人になった彼女を目にしても特に特別な感情を覚えなかった。女性としての上山サキには特に秀でた魅力があるわけではない。まず彼女はフグに似た顔立ちをしている。目が丸く頬も丸く鼻の頭も丸く、つまりは顔全体が丸っぽいのだった。口は横に大きく唇は潰れたみたいに平べったくめくれ上がっている。スタイルは決して悪くはない。胸は大きく脚は長いし、肩や腕は女性らしい柔らかな曲線を帯びている。いつも後ろで束ねている長い髪はまっすぐで艶やかだった。だから遠目から眺めたりする分にはそれなりに魅力的な女性に見える。もっともそうした肯定的な要素は後から観察して発見したものであり、彼にとって上山サキの印象は幼い頃からずっと”ぼてっとした顔をしたフグに似た少女”といったものでしかなかった。その印象は現在に至るまで残っていた。


日曜日の度に同じようなやり取りが2人の間で繰り返された。顔を合わせるたびに上山サキは馴れ馴れしくなり、少しずつ距離を詰めようとする姿勢がうかがわれた。彼女は挨拶のあとに何かしらの質問を付け加えるようになった。「どこ行ってたの」とか「何を買ったの」とかそうした質問である。彼女のフグに似た顔つきにも声色にもはっきりと興味と好意が浮かんでいた。大そう感情がおもてに出やすいタイプなのだ。日曜日に彼が散歩に出ず家にこもっていたりすると、すでに洗い終えた車の前でわざとらしく時間を潰しながら待っていたりした(彼はその様子を家のトイレの窓から見ていた)。

上山サキは、彼が不愛想でもそのことをさほど気にしていないようだった。彼のそうした態度は照れや気恥ずかしさからくるものだと彼女はポジティヴに解釈しているようだった。

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