2. ため池で拾った生き物
「彼」と白い生き物との出会いが語られます
彼が住む町には多くのため池がある。灌漑用として古くから利用されていたものがあちこちに残っているのだ。町内の地図で場所を調べてはひとつずつそうしたため池を訪れるのが、いつしか彼の楽しみになっていた。雑木林の奥や、山のふもとといった場所にあるため池を、彼は特に好んだ。そういう池はたいてい静かで人けが無く、どこか謎めいた雰囲気がある。彼はそういう寂しい場所が子供の頃から好きだった。
狭い町のことだから、子供の頃などにはため池へ向かう途中でよく同級生に出くわした。どこへ行くのかと尋ねられると、彼はいつも野鳥観察だと答えた。いかにも野鳥を愛しその観察を生きがいとしているのだという風を装うために望遠鏡とカメラを持ち歩きさえした。彼は一人でため池に行くことを誰にも知られたくなかったし誰にも言わなかった。
同級生たちは野鳥観察と聞いてつまらなそうな顔をして去った。馬鹿にするような言葉をかけることもあった。
ため池のそばでいくつかの不思議な体験をしたことがある。ある池のそばで何かの動物の骨を見つけたことがある。いろいろな種類と大きさの骨が草の中に無造作に散らばっていた。つまようじのように細い骨もあれば、彼の腕と同じほどの太さの骨もあった。頭蓋骨の破片らしきものもあった。いくつかの骨は錆びたみたいに赤黒く汚れていた。どの骨も硬く、稠密な感じがして、手に取ってみると想像より重かった。それが何の動物の骨なのかはわからなかった。そのあと彼はその池には二度と訪れていない。
町の東部の山の中に、恐竜の足跡のような形をしたため池がある。はじめて地図でその存在を知ったときから彼はその池に強く心を惹かれていた。実際にその山に赴いてみると、池まで到達することは非常に困難なことだとわかった。かつては池へと至る道があったのだろうが、おそらく現在ではもはや利用されなくなったためにろくに整備もされず草木が伸び放題になって、足を踏み入れることもできないのだった。
しかし彼はあきらめなかった。家から鎌を持ち出し、虫や蛇の対策のために厚着をして何度も山に通い、草木を刈りとりながら自身で池への道を切り開こうとした。絶望的な作業だったが、辛抱強く何か月もかけて彼は作業を続けた。農作業をする人と出くわしたりすることもあったが、そんなときは道に迷った登山客のふりをして切り抜けた。登山客が訪れるような山ではなかったがとくに重大な事態になることはなかった。
4か月ほどかけて、彼はようやく池へ至る道を開通させた。彼が中学2年生のときのことである。
高い木々に囲まれた池はひっそりとして、鉛色の水面は鏡のように静止していた。あたりは静かで、聞こえるのは風と鳥の声ばかり、もちろん彼のほかに人間はいない。文字通り隔絶された場所だった。
池は広く、一度に全体を見渡すことができない。池の縁のぎりぎりまで草木が繁っているため、水際に沿って歩きまわることもできなかった。
秋の終わりの夕方のことだった。木々は燃えるような赤や山吹色に染まっていた。池の水面の半分は夕日に照らされて輝いていたが、光の届かないもう半分はぞっとするほど黒々としていた。暗い水面を見つめていると、さまざまな陰惨な光景が頭の中に描きだされた。池の周りで繰り広げられたおぞましく悲しい光景。誰の目にも触れないまま濁った水と泥と藻に飲み込まれた忌むべき秘密。そうした暗鬱な想像がとめどなく沸きおこった。
それ以来、彼は何度も足跡型の池に通った。池のそばにいるとき、想像力や感覚が冷たく研ぎ澄まされ、まるで生まれ変わったみたいな気がした。キャンプ用のチェアに腰かけて、まどろむように何時間も過ごしていると、自分一人だけで成立する一人用の世界にいるような気分になった。
両親を失ってからは、彼が足跡型の池のそばで過ごす時間はさらに増した。
彼が白い生き物を見つけたのはその池でのことだった。
高校卒業を目前に控えた冬の午後、彼はひとりで足跡型の池のほとりにいた。チェアに腰かけて水面を眺めていると、ある瞬間に、すぐそばの水の上に何か白いものが浮かんでいるのに気付いた。
彼は立ち上がり、池の縁のぎりぎりに立った。その物体は丸く、下半分ほどが水に浸かっている。何かの生き物の死骸でもないし、ビニール袋でも風船でもない。一番似ているのはバレーボールだったが、それにしては小さいし、汚れやくすみがまったくなかった。完全に真っ白だった。まるで空間に白い穴が開いているみたいだった。
彼は手ごろな長さの木の枝を拾いあげ、陸地のぎりぎりに立って思い切り手を伸ばした。何度かそうするうちに枝の先が白い物体に触れた。尖った枝先がそれに触れたとき、先端がかすかに埋もれるような柔らかい感触があった。
彼はそのまま枝の先で引っ掛けるようにして物体を足元の水際まで引き寄せた。膝をかがめて顔を近づけ、水の上で転がすようにしてその全体を観察した。物体は直径20センチほどの球形をなしていた。全面が完全に真っ白で汚れや疵はどこにも見つからない。指先でつついてみると表面に小さなくぼみができたが、数秒で元に戻った。ひどく柔らかくて滑らかだった。
彼は両手で物体を持ち上げて水からひきあげた。不思議なほど重さは感じなかった。茹ですぎたお餅みたいに柔らかく、つまんだり引っ張ったりしたら、思うままにどんな形にでも変えられそうな感じがある。しかし地面に置いても形を崩さず球形を保っていた。
ある瞬間に、物体の内部で何かが脈打つような感触が手のひらに伝わった。彼は反射的に手を引っ込めた。そのあとなおも観察していると、白い物体はゆっくりと自ら動きはじめた。草の上を亀のように緩慢に移動し、そのまま転がるようにまた池に落ちたのだった。物体は水面を少し滑った後で静止し、そのあとはもう動かなかった。
これは「物体」などではない、と彼は思った。生きものなのだ。えらも背びれも、手足も尻尾も顔もないけれど、確かに生きている。それは本能的な直観のようなものだった。
彼が池のそばを去る時まで白い物体は同じ場所にとどまっていた。
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彼は通信販売で一辺1メートルのさいころ型の水槽と、それを支えるための鉄製の台を購入し、それを地下室の中央に設置した。床に残る血痕の染みを覆い隠すように。それからホームセンターで購入した珊瑚砂と水草を水槽の底に敷き詰め、池と同じ水質の水を満たした。そしてある小雨の降る日曜日、網と釣り竿とクーラーボックスとを持って、再び足跡型のため池へと向かったのだった。
白い生き物は池の水面の、最後に見たときと同じ場所に浮かんでいた。捕獲するのに苦労はなかった。持ってきておいた網や釣り竿を使う必要もなかった。彼が近づくと生き物は待ち構えていたかのように寄ってきて、まったく抵抗することなくその手に抱えあげられた。彼は池の水とともに生き物をクーラーボックスの中におさめた。そのあとしばらく彼は生き物の様子を観察していたが、変わった様子は見られなかったので、そのままふたを閉めて家に帰った。
地下室でクーラーボックスを開けると、生き物がひどく小さく縮んでいたので彼は驚いた。バレーボール大だったのがビー玉みたいになっている。何度か指でつついてみると、生き物はマリモもみたいに水の中に沈み、また浮かんだりを繰り返した。どうやら死んではいないようだったので、彼はとりあえず安心し、生き物を水槽に移した。
ビー玉のようだった生き物は水槽に入って数分ほどすると、少しずつ膨らんでまたバレーボール大にもどった。そしてそれからさらに形を変えた。球形から少しずつ細長い棒のようになり、さらに細長くなってからぐにゃりと折れ曲がって両端が繋がって輪の形になった。そこからまた膨張して輪っかの穴を塞いでピザのような平べったい形になり、さらにまた膨らんでもとの球形に戻った。
紙みたいに薄く広がったり、蛇のようにねじれたり、千切れそうなほど細い髪の毛みたいな糸状になったりもした。もう二度と元には戻れないのではないかと思うほどに変形しながら、しかし最後には必ず球体に戻るのだった。
生きている、と改めて彼は思った。大そうダイナミックに、表情豊かに生きている。生き物はやがて水の中をゆっくりと泳ぎはじめた。その泳ぎ方もまた実に多彩なものだった。ゆっくりと漂ったり、弾丸のように素早く移動したりした。そしてその間にも絶えず形を変える。
適当に買ってきておいた水槽飼育用のいろんな餌を与えてみたところ、生き物は何もかもすべてを残らず平らげた。食べるというよりは取り込むという感じだった。水槽に餌を投げ入れるとその白い体を広げながら近づいて包み込むようにすっぽりとそれを覆った。そのあと数秒ほどその場にじっとしているが、次に動き出したときには餌は影も形もなくない。
彼は試しに、肉類や野菜や果物、ドッグフードとかキャットフード、庭で摘んだ花とか草とか木の実とか果物とかを手当たり次第に与えてみた。生き物はみんな同じようにそれらを体内に取り込んだ。後に何も残さず綺麗に呑み込み消化してしまう。ひとかけらも残らずすべてを消し去るその食事の様子を見るのは愉快だった。
一日に一度、生き物は排泄を行う。丸くなって水槽の底の砂の上にうずくまった白い体の下から、それと同じほどの大きさの球形が現われる。最初に見たとき彼は生き物が分裂したのではないかと思った。しかし新しく生まれた方の球形は白くはなく、虹のように様々な色をたたえていた。それは光の加減で色を変える。そして泡のように水面に向かって浮かび、やがてはじけて消滅した。虹色の球体は一度に2つか3つ排出される。その行為を排泄と呼ぶことが正しいのかはわからない。彼が便宜上そのように解釈したに過ぎない。
生き物の白さは比類のないものだった。疑いなく彼が過去に目にしたいろんな白いもののなかで最も白いものだった。きめの細かい表面はまるで光るようで、その美しさに彼はしばしば見とれた。この世にこれを上回る白さは存在しないと彼は確信した。いちいち探すまでもなくこれより白いものなど世界のどこにもない。彼は自分だけがただ一人その白さを享受していることに、誇りのような満足を覚えるのだった。
一日の終わりには生き物は水槽の底に沈み、小さくなって長い間動かなくなる。眠っているのだと彼は解釈している。小さくなって珊瑚砂の色に紛れると、どこにいるのかまるでわからないこともある。
白い生き物を飼育するようになってから彼はため池に行くのをやめた。彼にはもうその必要がなかった。




