15. 最後の洗車
日曜日の午後、彼は窓を開け放って縁側に寝転び、日差しを浴びながらうとうとしていた。彼の頭の中はそのとき過去の記憶であふれかえっていた。地下室で見た母親の血まみれの死骸、松山で再会した死体となった父親の姿、かつての憧れや夢、とても好きだったもの、とても憎んでいたもの、あるいは怖れていたもの。そうしたいろんな記憶が洪水のように押し寄せて彼はその流れに飲み込まれてしまっていた。ときどき彼はそんな状態になる。彼はなすがままにその奔流に身を任せていた。
物音が聞こえたので目を開けると、上山サキの顔があった。彼女は庭に立って、彼の顔を真上から覗き込んでいたのだった。彼は身体を起こして目をこすった。
「眠ってたの」と上山サキが尋ねた。
いや、と彼は答えた。
彼女は彼の横に腰をおろした。フグに似たその顔はいまだどこか生気を失って見える。
新しい仕事はどう、と彼は言った。
「もう辞めたの」と彼女は呟くように言った。「辞めたの。最初の日だけは出たんやけど、次の日は早引けして、その次の日は、もう行きませんって電話した。病気のことも先方には話しとったからね、お大事にって言われて、そのまま結局辞めてしまったの」
健康を損なってまで働くことはないからね、と彼は言った。
「そのあとから今日まで、一歩も家から出んやった。外に出たくなかったんよ。玄関から出たら、溶けた車を見てしまうし、あれを見たくなくて……夢やったらいいのにと思っても、外に出るとあれがあるんよ。窓から外を見てもあれがあるんよ。あのオレンジ色が。本当に許せない」
話しながら上山サキは涙声になっていた。
撤去してもらった方がいいんじゃないの、と彼は言った。
彼女はうつむいたまま答えない。
自動車保険がおりたら、また同じ車を買えばいいんだよ、と彼は言った。すると上山サキは顔を上げて言った。
「あなたは何にもわかってない。そういう問題じゃないんよ。同じ色の同じ車種をまた買えばいいっていうものじゃないの。『あの車』が大切なの。代わりなんてないんだよ。7年間ずっと親しい友達みたいやったんよ。私はあの車でいろんな所へ行った。大阪とか、東北まで行ったこともある。たくさんの道路を走って、多くの時間を過ごした。心が通いあってたの。そういうことってめったにないことだよ。それなのに――」
彼女はそれきり口をつぐみ、声を出さずに泣きはじめた。
彼は庭の木々や草花を眺めた。うぐいすが鳴くのが聞こえる。少し後で、上山サキは立ち上がり、門の方へ向かって歩き出した。帰るの、と彼は声をかけたが彼女は答えなかった。彼は追いかけることもなくそのままにした。
その後も上山サキは一貫してオレンジ色の自動車の残骸の撤去を拒否し続けた。
「あの車をよそに持っていってもらいたくないの。別の車に乗りたいとも思わないの」
上山サキは家にこもりがちになった。5月の連休には家族でオーストラリアを旅行する計画があることを、以前から彼女は楽しみそうに話していたが、実際に連休に入ると彼女はどこにも出かけずに家に一人で残っていた。両親だけが旅行に出かけ、彼女は同行しなかったらしい。
ある日彼は上山サキがオレンジ色の残骸に腰かけて虚ろな目つきをしながらぼんやりしているところに出くわした。彼は見かねて声をかけた。
気持ちはわかるけど、それはもうドロドロになってしまったんだ、諦めるしかないんだよ、もう元通りにはならない、と彼は言った。
上山サキは答えなかった。
気分転換にどこかに遊びに行こう、散歩でもいい、何かやってた方がいいんだよ、そうやって何もしないのはよくない、と彼は言った。
「どこにも行きたくないし何もしたくない」と彼女は言った。
なんでもいいからさ、ゲームでも漫画を読んだり歌を歌ったりでも、どんなことでもいいんだ、時間を埋めたほうがいいよ、何もしない時間にはいろんな悪い感情や考えがどんどん押し寄せて、気持ちがどんどん沈んでいくからね、そういうのは結局自分で自分を苦しめているようなものだよ、無理にでも何か気分を変えるようなことを、したほうがいいよ、と彼は言った。
「これから洗車をするの」
洗車❓と彼は聞き返した。
「そう。溶けたこの車を、洗ってあげようと思って」
上山サキの丸い2つの目は急に、決意に燃えたように見開かれた。
「今思いついたの。でもいい考えやろ。今すぐやろう。どうしてもっと早く思いつかんやったんやろ」
彼女は立ち上がり、足早に家の中へと入っていくとすぐに洗車のための道具を持って戻ってきた。庭の水道にホースをつなぎ、オレンジ色の表面に水を浴びせる。ワックスを塗り、クロスで表面を拭き、小型のモップで車体を磨きはじめた。彼女が毎週のようにやっていたその作業。動作には無駄がなくきびきびとしていた。いかにも手馴れている。彼が手伝えるようなことは何もなかった。彼はママレード色の塊に手を触れてみた。それは想像した通り固かったが、もともとの自動車の板金の感触とは全く異なっていた。それは硬度の高いゴムに触れるような感じだった。
上山サキは不可解な鼻歌を歌いながら、目を細めて笑顔のような表情を浮かべている。彼女が笑うのを見るのは久しぶりだったが、その笑顔はどこか人工的で、顔に貼りついたまま取れなくなったかのようにも見える。作業に没頭するにつれて微笑みはさらに深く、動作は素早くなった。その様子に彼は別の意味で少し心配になったが、何も言わずにいた。
30分ほどで「洗車」は終わった。オレンジ色の塊は、洗う前と後とでそう大きな違いがあるようには見えなかったが、上山サキは満足げだった。
2人はしばらく洗った後の塊を眺めていた。
「これ食べられるかな」と上山サキが唐突に言った。
何を言っているの、と彼は言った。
「このドロドロの塊。洗って綺麗にしたらなんか美味しそうに見えてきた。食べても大丈夫かな❓」
上山サキがどの程度真剣なのか、彼には判断できなかった。さっきの洗車中の奇妙な微笑みといい、どこか常軌を逸した様子が見受けられる。オレンジ色の物体がたとえママレードに似ていたとしても本当に食べられるわけはない。食欲をそそられもしない。何しろもともとそれは自動車だったのだから。
「一口ぐらいなら平気かもよ。食べてみようよ‼」
彼女はいきなりオレンジ色のドロドロに口を近づけ、その表面に実際に噛みついたので、彼は驚き、ほとんど羽交い絞めのようにしてその行動を制止した。
「硬いな」と彼女は言った。
そりゃそうだよ、そういうことはやめてほしい、と彼は言った。
「あんまり味もせんやったし、ちょっと考えと違ったみたい」
そのように上山サキは車の一件のあと、明らかに不安定だった。彼に対してやけに攻撃的になったり、そうかと思えば不気味なほど親切だったりした。話の途中で脈絡なく大笑いしたり、その数秒後には泣き出したりした。そして地下室にはもう近付かなかった。
彼はいつになく彼女に多くの言葉をかけて、慰めたり心配したり、たしなめたり励ましたりしたが、そうした言葉はほとんど何の効果ももたらさなかった。彼女の耳に届いているのかどうかも不明だった。




