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13. ドロドロの美しさ

上山サキが「彼」を非難します

数日後、また町で異常な現象が発生した。公園に設置されていたゾウの形の滑り台が溶けたようになり、水色や黄色や白やピンクと言った塗装の色がまだらに混じり合った塊となって発見されたのだった。それを見て子供たちは面白がって手を触れようとしたが親たちは制止した。

その公園の出来事は3月24日日曜日の午後4時ごろに発生したことが周囲の住民や通行人の証言から明らかになっている。上山サキは「モエムを監視するため」という名目で再び彼の家を訪れるようになっていたのだが、公園の出来事が起こったとされる時間帯にもちょうど地下室にいて、水槽にいるモエムを見ていた。つまり彼女はその日その時刻にモエムが公園にいなかったことを自らの目で確かめたのだった。それで彼女はモエムへの疑いをすっかり晴らしたようだった。彼女は彼とモエムに謝罪し、それからあとはよりいっそうモエムに対して献身的に愛情深く接するようになった。まるで疑っていたことの罪滅ぼしをするように。


しかし彼はなおも釈然としない心持でいた。モエムに「アリバイ」があろうとなかろうと、最近近所で頻発する奇妙な現象に、モエムが全く無関係だとは思えなかった。現象はいつも彼の家の近辺で起きていたのだし、モエムでなければ他に誰がどのような力で、物体をあんな風に溶かすことができるというのか。

モエムが水の外には出られないことは先日の実験によって判明した。でもそのことが何の根拠になるというのだろう。モエムは地下室にいながらにしてあちこちのものを溶かしたのかもしれないのだ。でもその考え方はあまりに現実離れしていたし、彼自身でさえ真剣に信じてはいなかった。

溶解現象の話が持ち上がって以来、彼はモエムに物を溶かさせることをやめた。



奇怪な現象については、新聞やテレビで全国的に報道された。町には記者が押し寄せて現象が発生した現場を取材した。ニュースでは溶けたようになった物体のことを当たり前のように「ドロドロ」と呼んだ。その言葉をはじめてカメラの前で口にしたのは、インタビューを受けたある中学校の男子生徒だったが、溶けたような物体を言い表すのにそれ以上に適した表現はなかったのですぐに定着したのだった。取材に来た人々は「ドロドロ」をカメラで撮影したり、周辺住民へのインタビューを行ったりしていた。

彼は近所で何度か報道記者たちの姿を見かけたが、そうした人々には極力近づかないようにした。声を掛けられそうな気配を察すると足早に、あるいは走って逃げた。上山サキも同じように、騒がしさを避けるみたいにドライヴにも出かけず家にこもっているようだった。

ドロドロ現象はそれからもたびたび発生した。ガードレールや街路樹や屋根の上のテレビのアンテナ(家そのものは溶解を免れていた)などが例の状態に見舞われた。人々の生活に重大な影響を引き起こすほどのものではなかったが、携帯電話の基地局の鉄塔の一部がドロドロ化したときには、周辺一帯に電波障害が起きた。

ドロドロ現象が発生する場所も時刻も予測不能で、予防策もないので、近隣の住民は絶えず漠然とした不安に襲われていた。物だけではなくいずれは人間にまで被害が及ぶのではないかと懸念する者もいた。

現象は今のところ彼が暮らす町のごく狭い範囲でしか発生していない。また同時間帯に別々の場所で発生したという例もなかった。該当する地域の住民にとっては深刻な問題だったが、それ以外の人々にとっては興味深くはあるが基本的に無関係な出来事だった。そうした大多数の人々はテレビや新聞の報道を野次馬的な気分で傍観していた。彼らは人々はいろいろな憶測を述べた。組織的ないたずらだとか、テロリズムだとか、あるいは町おこしの企画だとか様々な説が報道番組や週刊誌の記事やインターネットの掲示板などで飛び交った。

いずれの例においても現場付近で不審な現象や不審な人物を目にしたという証言はない。有毒なガスや高温や高熱が原因であるという説があがったが、付近には工場も発電所もないし、住民は誰一人としてそのような熱を感じていなかった。特定のものだけが溶けてほかのものはすべて無事なことも不可解だったし、物体がなぜ溶け切らずに途中で凝固するのかも不明だった。工学や熱力学を専門とする科学者が現地を訪れて調査し、ドロドロ体は研究機関に運ばれて原因の究明が進められているということだが、結論はいまだ提示されない。

ある宗教団体はドロドロ現象は「神の怒り」の結果だと主張した。神の超自然的な力が「罰」を下されたのだ、その結果として物が溶けたのだ、という主旨の演説を行った。しかし下関市西部の小さな町に住む人々が神の怒りを買うどのような所業を行ったのかは団体の指導者は明言しなかった。人々は程度の差はあれ平均的に罪深かったかもしれないが、天罰を下されるほど冒涜的な罪が氾濫する土地であるとは思えなかった。

何にしても、町の住民にとってドロドロ現象は深刻な脅威だった。それが必ずしも外で起こるとは限らないのに人々は何となくあまり外出しなくなったし、お互いを疑い合うような疑心暗鬼的なムードが生まれた。



「確かに綺麗だとは思うよ」上山サキは水槽に沈んだカラフルな「ドロドロ」の山を眺めながら言った。「でもそれより不気味で怖い感じがする。毒蜘蛛とか、毒のある花がすごく綺麗だったりするやろ、それに似てる。そういうのを、あんまりありがたがったりせんほうがいいと思うよ。あなたはずいぶん気に入ってるみたいやけど」

彼は答えずに黙っていた。

「みんな怖がったり不安がったりしてるのに、あなたはドロドロの綺麗さに見とれて、こうやって集めたりしている。おかしいよ」

僕だって怖いし不安なんだよ、と彼は言った。

「嘘だよ。あなたは本当は、もっとドロドロが広まればいいって思ってる。このドロドロ騒ぎが日本中に、いや、世界中に広まればいいと思ってるんやろ。世界が溶けてドロドロに包まれてほしいって思ってるんやろ」

そんなことないよ、と彼は力なく反対した。

「人類がみんな溶けてドロドロに飲み込まれてしまっても、あんたはそれで構わないって思ってる。もし人が目の前で溶けだしても、あなたはきっと放っとくんやろうね。助けもしないで、その人が溶けるさまに見とれるんやろうね」

そんなことはない、撤回しろ‼僕はそこまで冷血非道ではない、と彼は言った。

「あなたはこれまでだって、そうやって生きてきたんよ。自分さえよければいいっていう態度で生きてきたんよ。物や人が溶けても関係ない、自分さえよければいい、モエムさえいればいいって。そんな態度で生きていくんだよ」

上山サキのその言葉は、彼にはひどい中傷のように聞こえたし、珍しく怒りに似た感情を覚えてもいたが、それ以上反論はしなかった。

「あなたはそういう人間なんだよ」

上山サキはそう言い残して地下室を出て行った。



一人になった彼は上山サキの言葉について考える。確かに彼女が言った通り、彼は水槽の中の溶けた物体をほとんどほれぼれしながら眺めることがあった。天井の照明は溶けたドロドロをえもいわれぬ色に輝かせ、その色彩は水の中で揺らめいている。初めてドロドロを目にしたときから彼はその美しさに打たれた。

あるとき彼は公園にあるゾウの滑り台がドロドロ化したというニュースを目にしたが、その映像にも強く興味を惹きつけられた。象の目玉や鼻や胴体がすべて異なる色で塗装されたその滑り台はドロドロと化した後、それらの色がまだらに混じり合ってあちこちにグラデーションが生じていた。それは彼がこれまで目にしたドロドロ体の中で最も大きかったし、最も不思議な色合いを備えていた。

いずれドロドロ現象はもっと拡大するかもしれない。海響館も、赤間神宮も海峡タワーもスターバックスも溶けて、海響館の生き物たちはドロドロの下に化石みたいに埋まるかもしれない。中央図書館も警察署も下関駅もシーモールも跡形もなく溶けて、電車も線路もビルもすべて混じり合って巨大なカラフルなドロドロの塊ができあがる。関門橋だって溶けるだろう。それは平べったくなって海を埋め尽くすかもしれない。溶けたドロドロが海の上で広がりそのまま固まって巨大な板を敷いたみたいに、海峡にまたがる新しい地面を作り上げるかもしれない。その光景はきっと、かつて上山サキが関門海峡について表現したとおり、広場みたいに見えるだろう。人々は徒歩で門司まで渡ることができるようになる。

彼はそんなドロドロに埋め尽くされた下関に一人でいるところを想像する。そのころには住民はみなよその土地に逃げてしまっているはずだ。でも彼はおそらく逃げずに残る。そして終末めいたその光景を一人きりで眺めるのだ。かつて似たような想像を何度も行ったことがあった。今ではその極端な想像は現実に起こりうる可能性として、町に住む人々は真剣に懸念している。彼だけのものだった想像が人々の間にも波及しているように感じて、彼は静かな、身体が宙に浮くような奇妙な興奮を覚えた。


彼は上山サキの言葉を思い出した。「もし人が目の前で溶けだしても、あなたはきっと放っとくんやろうね。助けもしないで、その人が溶けるさまに見とれるんやろうね」

彼は溶けゆく人間を想像してみた。髪の毛が溶けて黒い流れとなり、眼球が溶けて顔の皮膚と混じり、鼻や唇、歯も舌も溶けて熱い液体と化し、顔の皮膚と血管が溶けて血とまじりあう。脳や頭蓋骨も溶けて混ざり、すべての臓器が溶けて、骨も筋肉も残らず溶ける。それらは混ざりあって一つのドロドロになる。すべてが凝固したあと、その物体は異界の空にかかる虹のような未知の色をまとっているかもしれない。

彼はそれが陽光を受けてみずみずしく輝くさまを思った。いつしか彼の心臓は高鳴っていた。人が溶けゆくときにしか現れない種類の美がおそらくそこに生まれる。そのとき自分はその人に向かって助けの手を差し伸べるだろうか。助けたいと願ったとしても、何かできることがあるのだろうか。おそらくあきらめるしかないのだろう。黙って眺める以外にできることはないはずだ。

そこまで考えた後、彼は認めないわけにはいかなかった。上山サキの言葉は全く正しかった。

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