12. 現象の発生と拡大
「彼」が住む町である異様な事態が持ち上がります。またモエムの生態が一部明らかにされます
2月の終わり頃、町で異様な事態が生じた。ある家(彼の家からは1kmも離れていない)の玄関先に置かれていた、ゴールデン・レトリバーの形をした高さ50センチほどのセラミックスの置物が、異様な変形を遂げているのが見つかったのだった。置物はまるで高熱で溶かされたみたいにどろどろに形が崩れていて、その状態のまま凝固していたのだった。犬の顔も胴体も脚も混然一体となってもはや見分けがつかなかった。
その家に住む老夫婦が早朝の散歩に出かける際にそれを発見した。その時点で置物は完全に固まっていて、触れても熱はなく、指に付着するものもなかった。前日の夕方までは間違いなく犬の形を保っていたことを老夫婦は断言した。
警察や消防が現場を調査したが原因は判明しなかった。異変が生じたのは玄関先の犬の置物だけであり、庭や家にあるものはすべて無事だった。
同様の出来事は立て続けに多数発生した。ある家庭では42インチのワイド・テレビのモニタの表面が溶けたようになった。被害はモニター部分だけでテレビの全体は形を維持していたし、映像も映ったが、画面はずっと分厚いモザイクがかかったようでとても視聴できる状態ではなかった。発見したのはその家に住む主婦の女性だったが、発見された時点でテレビは冷たく乾いていて熱はなかったという。
ある中学校の体育倉庫では十数個のバスケットボールとそれを収めていた鉄製の籠が溶けた。ボールはすべてくっついてひとつのいびつな形をした塊と化し、それは同じく溶けたようになった鉄の籠と付着して、一体となっていた。その状態で氷のように固く凝固していた。
いずれの場合にも侵入者や不審者の痕跡はなかった。
町はちょっとした騒ぎになったし、その話は彼の耳にも入った。彼が最初に考えたのはもちろんモエムのことだった。話に聞く限り奇妙な現象に見舞われた物体の様子は、モエムが変容させた地球儀などの物と極めて似た特徴を備えていた。そして現象はすべて彼の家から遠くない地域で発生していた。モエムの仕業だろうか、と彼は考えたが、そんなことはあるはずがなかった。モエムを地下室の外に出したことはないし、あの生き物が自ら外に出るはずもない。モエムが自分で水槽の蓋を開けて外に出て、地下室のドアの鍵を外して地上へと脱し、あちこちに行っていろんなものを溶かしてまわったというのか。とても考えられない。でもそれならこの騒ぎはいったい誰がどんな力で引き起こしたものなのか❓
彼は泳ぐモエムを見つめる。生き物は網のように小さな細かい穴がいくつも開いた状態をとりながら水中を揺らめいていた。光が網の目を通して影を作っている。彼はいつものように夢中になってその様相を見つめていた。
手にしていた白いマグカップの中身を飲み干した後、彼はそれを水槽に投げ込んだ。水槽の上の方を泳いでいたモエムはゆらゆらと下降をはじめ、網状の形のまま砂に落ちたマグカップを包み込んだ。やがてモエムは変形して網の目がすべて塞がり一枚の布のようになった。次にモエムが浮かび上がったとき、もうそこにマグカップはなかった。いびつなおにぎりのような形をした白っぽい物体が残されているばかりだった。
日曜日の朝に彼の家のインターフォンが鳴った。玄関の戸を開けるとそこには上山サキが立っていた。彼女の来訪はおよそ3週間ぶりだった。久しぶりだね、と彼は言ったが、上山サキは答えず「モエムに会わせて」と言った。そして彼がそれに答える前に彼の横をすり抜けて戸口をくぐり、サンダルを脱いで家に上がりこんだ。そしてまっすぐに地下室へ向かった。
彼は彼女の後を追いかけて階段を降りた。上山サキは地下室の入り口のドアの前で立ち尽くしている。彼が鍵を開けるのを待っているのだった。彼は鍵を取り出してドアを開けた。
地下室に入ると、上山サキはまっすぐに水槽に歩み寄り、上体を傾けガラスに額をくっつけるようにしてその中を覗き込んだ。水槽の底に、モエムが溶かした物体がほとんどひしめきあうように転がっている。彼女はそれらの物体を見ていた。ずいぶん長く、ひどく集中して、水槽の横や後ろに回ったりしながら物体を観察していた。
そのあとで彼女は姿勢を正し大きく息を一つついてから彼の顔を見据えた。フグを思わせる2つの丸い目が少し細くなっている。それは怒っているときの目つきだった。
「あなたがやったんやね」と彼女は言った。
何のこと、と彼は言った。
「あなたがモエムを使っていろんなものを溶かさせたんやろ」
知らない、と彼は言った。
「わかってるんよ。あんなことができるの、ほかにおらんもの。ここにある物とそっくりやったらしいよ、溶けた物。そんな不思議なこと、こいつ意外に誰ができるの❓あなたがモエムを連れてあちこちに入って、溶かさせたんやね。それってもう犯罪だよ」
僕はモエムをここから連れ出したことはない、僕も驚いて困惑しているのだ、と彼は言った。
「でもあなたずいぶん気に入ってたよね、モエムが溶かしたものを。私その様子を見て、ちょっと怖かったもん。あなたが何かにあんなに夢中になるの珍しいから。しかもあれからもっと増えてるみたいやし。それがエスカレートしたんやね。もっといろんな大きなものも、溶かしてみたくなったんやろ。正直に言ったほうがいいよ」
僕は何も知らない、と彼は言った。
上山サキは水槽の生き物を見た。モエムはクレジットカードみたいな薄い板状になって、水中にほとんど静止していた。
「それならモエムが一人でやったって言うの❓そんなことありそうもないけど、もしそうだとしてもそれもやっぱりあなたの責任だよ。飼い主であるあなたの」
モエムは一人でここから出たりしないよ、と彼は言った。
「わからんよ、こんなわけのわからん生き物のことやし、何だって起こりうるよ。あなただって、毎日一日中観察してるわけじゃないやろ❓あなたがいないときこいつが一人で何をしてるかなんて誰も知らない。こんな変な生き物のことやからどんなことだってありうるよ。モエムはこうやっていろんな形に変形するやん。水槽の蓋を開けたり、ドアの隙間から外に出たりするぐらいできそうだよ」
モエムは水の外には出られない、と彼は言った。
「そうなの。それ本当❓水から出たらどうなるの❓死んじゃうの❓」
知らないけど、最初に見つけたときから水辺にいたから水の生き物であるはずだよ、と彼は答えた。
「ねえ、…そういえばあなた、この生き物どこで拾ってきたの。まだその話、したことないよね」
彼は話した。ずっと昔の冬の日、恐竜の足跡のような形をしたため池でモエムを拾ったときのこと。
「あなたが高校生の時って、もう10年ぐらい前だよね。ずいぶん長い付き合いなんやね」と聞き終えて彼女は言った。「で、その間、あなたは一度もモエムを水の外に出さんやったの」
出さなかった、と彼は答えた。
「じゃあ今からモエムを水槽から出してみようよ。本当に水の外で生きられないのかどうか試してみないと。場合が場合だからね。それがわかればあなたとモエムへの疑惑は、少しは晴れるよ」
やめたほうがいい気がするけど、と彼は言った。
上山サキは耳を貸さず、彼にモエムを外に出すための道具を持ってくるよう要求した。それで彼は一階に上がり虫取り網とクーラーボックスを持ってきた。彼は上山サキに指示されるがままに水槽の蓋を開け、虫取り網を水の中に差し入れた。
そのときモエムはラグビーボールに似た形と大きさになっていたが、網を近づけると逃げもせずその中にすっぽりと収まった。彼はそのまま竿をを持ち上げ、モエムを水の外に出すと床のクーラーボックスの中に入れた。
彼と上山サキはボックスの真上からモエムを覗き込む。モエムは陸に上げられた魚みたいに苦し気に跳ねたりするわけでもなく、同じラグビーボール状のまま動かずにいた。
そのまま2分ほどが経過した。
「平気そうだよ」と上山サキが言った。
彼は首を振る。よく見て、と彼は言った。彼女は再びモエムに視線をやった。モエムに異変の兆しが表れていた。白い表皮の端に、黒い粒のような点がいくつか浮かんでいる。わずかに青みがかったような黒い斑点が、みるみるうちに少しずつ増殖していた。それは黴に似ていた。その増殖のスピードは視認できるほど急速で、はじめは数えられる程度しかなかったのに、ほとんど数秒のうちに表皮の半分近くを覆うまでに増えた。モエムの全体は黒い斑点に覆われていた。黴だらけになったお餅のような有様だった。
上山サキは悲鳴をあげた。彼も叫び出しい気分だったが、必死に抑えていた。
黒と白のまだら模様になったモエムはやはり動かず、変形しようともしない。死んだみたいにも見える。なぜか目を背けることができず、彼は身体を強張らせながらモエムを見つめていた。
黒い斑点はなおも増殖を続けていて、さらに数十秒後には白い部分はもうほとんど残っていなかった。ほとんど真っ黒になったモエムの身体が、小刻みに震えているのに彼は気づいた。そして黒くなった表皮のあちこちに、数ミリほどの小さな亀裂が次々に生じていた。
彼はそれ以上は耐えられず、再び虫取り網を手に取ってモエムをその中に入れ、開いたままの蓋の隙間から水槽の中に投げ込んだ。飛沫が上がり、床に水が音を立てて散った。黒くなったモエムはゆっくりと水中を沈み、砂の上に落ちた。
モエムは黒い斑点に覆われたまま、死んだようにじっとしている。部屋の隅の方から、女のすすり泣きが聞こえる。上山サキは地下室の端に逃げてしまったのだ。
彼は水槽の中のモエムを見つめていた。モエムの亀裂は徐々にと塞がり、黒い粒のような点も、同様に少しずつ薄れていった。さらに時間が経った後、斑点は完全に消え、モエムは元の白い表皮を取り戻していた。それからまるでビーチボールに空気を入るときのようにモエムの全体が何度か膨張したり収縮したりした。その後モエムはゆっくりと浮かび、何事もなかったみたいに泳ぎはじめた。
上山サキは壁に背中を預けてしゃがんでいる。彼はその傍に歩み寄り、モエムは無事だよ、と言った。
彼女は小さくうなずき、「ごめんなさい」と言った。
「水の外には出られないってよくわかった。あんなに苦しそうにしてて、あんなんで生きられるわけないよね」
2人はあらためて水槽のモエムを見つめる。
「あのままにしてたら、きっと死んじゃってたね」
そうかもしれないね、と彼は言った。
「でも私さっきちょっと思ったんよ。あなたがモエムを水槽に戻したときに、余計なことせんでいいのに、死ぬんやったら死なせとけばいいのに、って。一瞬だけね。ひどいよね」
気持ちはわかるよ、と彼は言った。
「でもあれって結局何やったん❓何がどうなって、あんな気持ち悪い、黒い黴みたいなの…」
彼は黙って首を横に振った。上山サキもそれきり口をつぐんだ。地下室はまた沈黙に包まれた。




