11. 変わり果てた地球儀
「モエム」がある異常な現象を引き起こします
角島で拾ってきた貝殻や石が飾られて、水槽は以前より賑やかになった。ある土曜日の午後に彼が地下室にいると、上山サキが当たり前のように入ってきた。
「モエムに贈り物を持ってきたの」と彼女は言って、手にしていたものを彼に見せた。それは小型の地球儀だった。直径10センチほどの青いガラスの地球儀が、銀色の金属のフレームによって支えられて黒い直方体の台座の上に乗っている。
「昨日ごみ捨て場で拾ったんよ。水槽に入れたらいいんやないかなと思って」
彼女はそう言って腕を伸ばして水槽の上部の蓋を開き地球儀を水の中に落とした。地球儀はまっすぐに沈んで珊瑚砂の上に落ちた。モエムは気づいてさえいないかのように見向きもせず、悠然と泳いでいた。
君はそうやってごみを持ってきてはこの水槽に捨てるつもりか、と彼は言った。
「ごみって何よその言い方。私はモエムが気に入るやろうと思ったんよ。この水槽まだまだ寂しいしさ、いろんなものがあった方が、モエムも喜ぶやろ」
それならそれでもっとちゃんと配置するべきだ、見たまえ、地球儀は変なところに横向きに落ちてしまって、あれじゃあまりにもみっともない、と彼は言った。
「だってほかにやりようがないやろ、この水槽深いし、細かい位置なんて調整できんよ。見て、あの青い地球儀と白いモエムと並んで、すごく綺麗だよ」
とにかくこれから水槽に何か入れるときには一言断ってからにしてほしい、今みたいにいきなり投げ入れたりしないでほしい、と彼は言った。
上山サキはしぶしぶといった感じで面白くなさそうに頷いた。彼らがそんな言い合いをしているうちに、モエムはいつしか布のように平べったく薄い形状に姿を変え、ゆっくりと下降していた。
「あ、モエムが…」と言って上山サキが指さしたとき、モエムは砂の上に転がっていた地球儀へ舞い降り、包み込むように覆いかぶさった。モエムの薄くなった表皮から地球儀の青い色が微かに透けている。1分ほどしてモエムがそこから離れ、下に隠れていたものが再びあらわになったが、彼はそれを見て息を飲んだ。地球儀は変わり果てていた。まるで溶けたアイスクリームみたいにもとの形を失っていたのだった。黒い台座は角が取れて泥団子のようになり、青いガラス球と銀色のフレームは溶けあって付着したみたいに一体になっていた。熱に触れて溶解する途中で静止したかのようだった。もはや地球儀ではなく色だけを残したただの不格好な塊だった。
「溶けちゃってる」と上山サキが言った。「何が起きたの❓モエムが溶かしてしまったの❓」
わからない、と彼は答えた。
「どういうことなの。地球儀はどうなっちゃったの」
わからないけど、でももしかしたら、モエムは食べ物と間違えて食べようとしたのかもしれない、食べられるものじゃないとわかって諦めたけど、その際にモエムから胃液とか消化液のようなものが分泌されて、それが地球儀を不完全に溶かしたのかもしれない、と彼は言った。
「胃液って❓モエムに胃なんてあるの」
わからない、僕の想像でしかない、と彼は言った。
「あの地球儀、ガラスとか鉄なんだよ。そんなものが胃液で溶けるかな」
わからない、と彼は繰り返すばかりだった。何もかも理解を超えている。
「これじゃ台無しだわ‼せっかく飾ったのにね。あれじゃもう意味ないね」
彼はその発言には同調しなかった。溶けたような物体は、それが地球儀だった頃よりずっと美しく思えたからである。特に地球儀の瑠璃色のガラスと銀色のシルバーの金属が溶けて混じり合った部分は精妙なグラデーションをたたえ、地下室の青白いライティングと相まって、えもいわれぬ神秘的な輝きを放っていた。
「これからは気をつけんとね、変なものを投げ込んだらああやって、モエムが間違えて食べるかもしれんもんね」
彼は相槌を打ったが、その声にはさほど感情はこもっていなかった。かつて地球儀だった溶けたような物体が放つ未知の色彩に彼は魅了されていた。
溶けた地球儀はそのまま砂の上に放置された。凝固した青いマグマのような非現実的な美しさを備えたその物体に、彼は深く惹きつけられた。彼は家中からいろんな不要なものを適当にかきあつめてきてそれらを水槽に投げ込んでみた。スプーンやサングラス、インク瓶や材木、書物や新聞紙、壊れた電化製品や機械類。モエムは地球儀のときと同じようにそれらの物体の上に覆いかぶさり、数十秒か数分ほど動かずにいたあとで離れる。するとそこにあったものはすべて溶けて固まりかけたような物体に変わり果てていた。
彼はそれらの物体をいくつか水槽から引き揚げて観察した。モエムが溶かした物体の表面はどんな素材であれ一様に滑らかですべすべした質感に変わっていて、まるで一切の不純物が除去されたかのように、もとの色よりはるかに鮮やかな澄んだ色をたたえていた。
どういうわけかモエムは、上山サキが最初に投げ込んだような貝殻や小石には見向きもしなかった。彼はほかにも木の枝や草花といった自然物を投げ入れてみたが、モエムは関心を示さなかった。モエムが対象とするのは加工された工業製品ばかりであるようだった。
モエムが何らかの力か作用によってそうした物体を変容させているのは間違いない。その原理については、それがどんなものなのか彼には見当もつかなかったし、さほど関心もなかった。彼にとって確かなことは自分がこの溶けたみたいな物体にすっかり魅入られてしまっているということだけだった。
青白いライトが照らす水槽の中で、水槽の底に沈んだ色とりどりの物体は剥き出しの巨大な宝石のようにきらめいている。そのざわめく色彩の隙間を、透き通るように白いモエムが泳ぎ回る。その光景はちょっとした夢のようだった。
ある日地下室にやってきた上山サキは、水槽の中を覗き込むなり顔をしかめた。
「なにこれ」と彼女は言った。「これ何❓何をこんなにたくさん沈めてるの」
いろいろ試してたんだよ、どんなものが溶けてどんなものが溶けないか、実験していたんだ、と彼は言った。
彼女は不満そうだった。というより真剣に怒っていた。
「あなたこないだ私に水槽にものを投げ込んじゃ駄目って怒ったやん。それなのに自分はそんなことするの❓」
でも見てごらん、すごく綺麗な色になるんだよ、この色が気に入ったからっていうのもあるんだよ、と彼は言った。
「綺麗だからとかそういう問題じゃないやろ❓モエムはさ、物を呑み込もうとして、それができんで、苦しんでるかもしれんやん。そういうこと考えんの❓こんなことさせて、病気になったり死んでしまったらどうするん」
彼はそういった可能性について考えなかったわけではなかった。しかしいろんなものを溶かした後でもモエムに変わった様子は見られなかったので、問題はないだろうとみなしていたのだった。
「だいたいこの気持ち悪いやつのどこが綺麗なん❓これはどう見ても良くないものだよ、間違ったものだよ。こんなのをありがたがるなんて、あんたはちょっとおかしいみたいね‼」
彼女はそのまま地下室を出て行った。玄関の戸を閉ざす音が地下室にまで響いてきた。彼は一人残され、水槽の中ではモエムが泳ぎ続けていた。
それからも彼はいろんなものを水槽に投げ入れてモエムに溶かさせた。上山サキを怒らせてもなお、彼はそれをやめることができない。それほど溶けたような物体に魅了されていた。彼は念のために以前よりも注意深くモエムの様子を観察したが、モエムに異変は見られない。白い表皮には相変わらずいささかの翳りもなく、体調を悪くしたような様子もない。相変わらず多くの餌を食べ、排泄し、丸くなって眠った。
溶けた物体やモエムを眺めながら彼は長い時間夢想に耽った。かつて訪れたいろんな場所、海響館や下関市内のあちこちの道路や角島の灯台が、すべてドロドロに溶けて、新しい色を得た情景を夢想した。そうしたイメージは次々に頭の中に押し寄せてきた。その想像はやがて発展し、彼は世界中のあらゆるものが溶けかけのようになった光景を思い描いた。全ての国のすべての都市のあらゆる建造物が溶けて、島々も大陸もすべて溶けて、世界中が溶けたものに覆われる。そのときこの星には美しい色が満ちるだろう。そんな大地を太陽と月が交互に照らす。彼は唯一の生き残りとして一人きりでその光景を眺める。それが彼のお気に入りの夢想だった。
上山サキはあれ以来、彼の家にやって来ない。日曜日の午後に車を洗っているのをしばしば見かけたが、上山サキは彼がそばを通りかかっても気がつかないふりをした。彼は何度か声をかけたが、彼女は応じなかったし、目を合わせようともしなかった。しつこく話しかけていると家の中に逃げていった。彼女はまだ怒っていて、怒っていることを彼に伝えようとしている。
何をあんなに腹を立てているのだろう、と彼は思う。でもこれまでにも似たようなことはあった。彼と親しかった女性たちはある時点から彼に対して急によそよそしく、あるいは刺々しくなる。
彼は以前の生活に戻った。自分で食事を作って一人で食べるという生活に。上山サキの不在を淋しく思うことがないわけではなかったが、その感情はさほど深刻ではなかった。彼はもはや自分は淋しささえうまく感じられなくなっているのではないかと思った。




