10. 隕石のような太陽
「彼」と上山サキは角島へドライヴに出かけます
親しくなってからすでに8か月ほどが過ぎているのに、上山サキは彼に対してまだ愛想を尽かせるそぶりを見せない。かつて彼が交際したことのある女性はそれぐらいの期間が経過したあとではすでにみな去っていた。だから今のように関係が持続していることは彼にとって未知の体験だった。しかしどれだけ長引いたところで、いずれ同じ結果がもたらされることを、彼は信じている。どうせ彼女も去ってゆくのだ。だから今のところ別れを告げるつもりはなかった。
2月の最後の日曜日の午後、彼は上山サキの車の助手席に乗っていた。車は国道191号線を北上している。彼らは下関市の北西部の海に浮かぶ島、角島へと向かっていたのだった。上山サキが今日、突然思いついたように角島に行きたいと言い出して、彼も賛成した。
上山サキは普段も一人でしょっちゅうドライヴしているらしい。病気のためにまともな仕事に就けないことは彼女の両親も認めているし、家が裕福なおかげで特に働く必要もないから、有り余る時間をドライヴに費やしているのだ。
「この車もう7年乗ってるんよ。広島におった頃から」運転しながら上山サキが言った。
ずいぶん気に入っているんだね、と彼は言った。
彼女は頷く。「なんていっても色がいいよね。一目で気に入ったよ、このオレンジ色‼車も私のことが好きなんだよ。伝わってくるの。私の命を救ってくれたこともあるんだよ」
どんなふうに、と彼は言った。
「安岡のへんを走りよったときにね、川沿いの狭い道路があって、カーヴを曲がりきれんでガードレールにぶつかりそうになったの。ぶつかると思ったそのときに、すごいことが起こったんよ。どうなったと思う❓」
わからない、と彼は言った。
「車がワープしたんだよ」
彼は彼女の顔を見た。
「そんな変な顔せんでよ。本当の話だよ。ぶつかると思った次の瞬間に、元の道路じゃなくて、川の対岸の道路を走ってたの。何の問題もなく運転してたの。あれは瞬間移動だよ。すごいでしょ」
君は病気の発作か何かのために一時的に記憶が消えていたのではないか、衝突の恐怖のために混乱して、必死でステアリングを切ってガードレールを避けたことや、そのあとのことが記憶から抜け落ちてしまったんじゃないか、といったことを彼は言った。
「あのね、前も言ったと思うけど、そんな『発作』とか起きないの。そういうわかりやすい病気じゃないんよね。記憶が飛んだことなんて今まで一回もないよ。車が私を助けてくれたんだよ。映画みたいに車がワープしたんだよ。危ないと思ってガードレールにぶつかる直前にワープしたの。私はそう信じてる」
うん、まさかね、と彼は言った。
「だからね、私とこの子(彼女はステアリングを指でトントンと叩いた)とは、特別な関係で結ばれているの。そういう不思議なことって他にもあるんよ。車にも愛情って伝わるんだよ。あなたも買えばいいのに」
僕は免許持ってないし、自転車があるから、と彼は言った。実際のところ彼はどこへ行くにも自転車で移動した。後方に白いプラスチック製の大きな籠がついた自転車。その籠は彼が自分で取り付けた。水槽用のいろんな品物の買い出しの際に必要だったのである。そのほかにも食料品やいろんな荷物を運ぶのにその籠は便利だった。もちろん見栄えは良くない。彼のような比較的若い男性が、そんな自転車を乗り回す様子はちょっとした見ものだったが、もちろん彼は周囲の目など気にしなかった。彼は身だしなみには気を使ったが移動手段に関しては利便性を最優先させた。
「でも自転車より車のほうが楽やろ❓スーパーまで行くのだって大変やし、あなたが働いている工場だって、5キロぐらい離れてる。私、毎日よく自転車であそこまで出かけるなあって、すごいなって思うもん」
もう慣れたからね、と彼は言った。
「でも車欲しくない❓便利やしさ」
欲しいと思える車がないんだよ、と彼は言った。
上山サキはそれを聞いてなぜか大笑いした。それはずいぶん好意的な反応のように彼には思えた。これまでにも何度もいろんな人から同じような質問を受けたことがあったが、彼がそう答えるとたいてい誰もが呆れて黙り込むか、あるいは馬鹿にしたりした。しかし彼にとってそれは全くの本心だった。車は購入や維持に莫大なお金がかかる割には物としての魅力を多く備えていない、と彼は感じている。どんな車にもどこか知ら気に入らない部分がある。そんなものを所有するなんて考えるだけで気が滅入るようだった。
交差点を曲がると海の上を伸びる長い真っ直ぐな橋が見えた。何度も写真で見たことのある長い橋。その橋を渡りきった先が角島である。冬の空は雲ひとつなく青く澄んで、海は日差しを受けて銀色に輝いていた。観光シーズンではないにもかかわらず、かなりの数の車が橋の上を走っていた。彼と上山サキを乗せた車もまたその橋を渡り、角島に上陸した。
「島ってすごいよね、どっちに向かって走っても、いずれ必ず海につくんだよ」
上山サキの言うことは理解できた。どこを走っていてもたいてい視界のどこかに海が見えている。
「いいところやね。下関にこんなところがあったんやね。あなた来たことあった❓」
ないと彼は答えた。
「私これからしょっちゅう来ようかな、遠いけど」
上山サキは海水浴場の近くの駐車場に車を停めた。車を降りた二人は海の方へ歩いた。小さな崖があり、彼らはその端に立って海を見下ろした。視界を遮るものが何もない開放的な眺めだった。
「はあ…これが日本海というものか」と上山サキが呟く。「関門海峡とは違うね‼広場っぽい感じがない。すぐ向こうに対岸が見えないからかな。広くて、ちゃんとした海だわ」
島の北端にある灯台の周辺をひとしきり散歩したあと彼らは砂浜に降りた。柔らかく波が打ち寄せる砂浜を歩きながら、上山サキは貝殻や小石を拾い集めていた。モエムへの「お土産」だということだった。
「あの水槽まだ寂しいからね。もっと華やかにしないと。あなたも拾いなさいよ」
彼は言われるがままに貝殻を拾った。白い扇形の貝殻や、紙みたいに薄い亜麻色の貝殻や、スナック菓子みたいなギザギザのある貝殻。
そのあと彼らは岬に行き、淵に立って西の空に沈みゆく夕陽を眺めた。岬には他にも多くの人がいて彼らはスマートフォンや一眼レフカメラで景色を撮影したりしていた。太陽は燃えながら空中に静止した隕石のようだった。
「あれが本当に隕石でさ、あのまま落ちたら、このあたりが大変なことになるよね」と上山サキが言った。
このあたりどころか、きっと全地球的に大ごとになるよ、と彼は言った。
夕陽が空の大部分と海面を眩いオレンジに照らしている。時間が経つにつれてその色は暗い青と紫とに押されて薄れてゆき、やがて消えた。彼らが島を去るころにはあたりは暗い藍色に覆われていた。




