表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/20

9. 名前を付けること

上山サキが地下室を発見します。彼女によって白い生き物に名前が与えられます

彼は台所のテーブルに向かって上山サキが作ってくれた夕食を食べていた。今や上山サキは毎日のように彼に夕食を作るために家にやって来る。そして彼もそのことに慣れてしまっていた。

彼はいつになく激しい空腹を覚えていて、食事に夢中になっていた。上山サキは席を外していた。彼女の存在に慣れ過ぎていたためか、あるいはあまりに食事に没頭しすぎていたためか、彼はそのとき上山サキがどこで何をしているのか少しも気にしていなかった。

上山サキが台所に戻ってきて彼に尋ねた。

「ドライバーってどこにあるん❓」 

彼は食べる手を止めて、どうしてそんなものがいるの、と言った。

「トイレのドアの蝶番のねじが外れかかってたよ。締めなおしたほうがいいなって思って」

彼は立ち上がり、廊下の戸棚を開けてドライバーを探した。しかしなぜかあるべきはずの場所にそれはなかった。戸棚やあちこちの引き出しを探してみたがやはり見つからなかった。最後にいつドライバーを使ったか、彼は思い出せなかった。

トイレのドアを見に行ってみると、確かに蝶番のねじが外れかかっていたが、今のところは特に問題もなさそうだったので、このままでいいよ、今度ドライバーを買って僕が自分で直しておくから、と彼は言った。そのまま台所に戻ろうとしたが、上山サキが口にした言葉によって、彼は足を止めた。

「下の物置にあるんやないん、ドライバー」

彼は彼女の顔を見ながら、数秒間沈黙した。今、下の物置って言った❓と彼は尋ねた。

「うん。あそこ探してみればいいやん。さっき行ってみたんやけど、鍵がかかってたから」

あそこに行ったの⁈、と彼は言った。

「そう、こないだあなたがあの物置から出てきたことあったやろ。それを思い出して探しに行ったんやけど、びっくりしたよ、あなたの家の物置って地下にあるんやね」

じゃあ君は階段を降りたってこと、と彼は言った。

「そう、降りてドアを開けようとしたんやけど、鍵がかかってて入れんやった。あそこにドライバーあるかもよ」

彼は頭を働かせて状況を整理した。つまり上山サキは、ドライバーを探す途中で物置のことを思いだしてそこに行ってみた。すると地下へ続く階段を見つけた。階段を降りた先に地下室の入口のドアがあったが、鍵がかかっていたために中には入れなかった。

一階のドアにも鍵をつけておくべきだった、と彼は思った。上山サキが家に頻繁に訪れるようになってから、いずれ鍵をつけようと考えてはいたのだが、そのままになっていたのだった。もっと急ぐべきだった。でもいちおう、まだ何も露見してはいないのだ。彼女は地下室の存在を知ったが、その中に足を踏み入れてはいない。うろたえる必要はないんだ、と彼は自分に言い聞かせた。

あの部屋にドライバーはないよ、古本しか置いてない、と彼は答えた。

「本当❓でも一応探してみたら」

いや、絶対にない、探さなくてもわかる、と彼は言った。

「じゃあ私の家からドライバー持ってこようか❓このままだと危ないかもしれんよ」

大丈夫だよ蝶番ぐらい、と彼は言った。



彼は台所に戻って中断していた夕食を再開した。上山サキは彼と向かい合って座っている。食事をする彼の顔を、まっすぐにじっと見つめている。

「ねえ、あの地下室って…」と彼女は言いかけて、すぐに口をつぐんだ。その言い方で、彼は彼女が言おうとしたことを察した。

そう、あそこで母が死んでいたんだよ、と彼は言った。

上山サキは聞こえないほど小さな声で、ごめんなさいと呟き、そのあとは何も言わなかった。

彼の母親が殺害された事件は、滅多に犯罪など起こらないこの田舎町をかなり騒がせたので、広く知られていた。中学生だった上山サキだって当然覚えているだろう。

彼にとっては当時の記憶はなぜか夢のようにおぼろげで、断片的だった。

彼もそれ以上語らなかった。それは夕食の席には不似合いな話題だった。

彼は食べ終えて食器を流しに置いた。音楽でもかけようかなと思ったが、今の気分と状況にふさわしい曲が思い浮かばず、何もせずにまた椅子に腰かけた。

上山サキは頬杖をついて、ぼんやりした目つきで床の一点を見据えている。いつになく彼女は長く黙っていた。

本当は彼女は地下室に入ったのではないだろうか、という疑念が不意に彼の頭に浮かんだ。さっき彼女はそのことを言おうとしたのかもしれない。地下室の入り口のドアには、彼の手違いで鍵がかかっていなくて、上山サキはドアを開けて中に入り、そこにあるものを見た。

彼はその可能性について少し考えたが、しかしすぐに、そんなはずはないと思いなおした。もしそうなら上山サキは、トイレのドアの蝶番のことなど後回しにして真っ先に地下室のことを、そこで目にしたもののことを、彼に尋ねるはずだ。驚きと好奇をあらわにしながら彼にあれこれ質問するはずだ。地下室にあるものを見ていながら、そのことに一切言及せず、ドライバーのありかを何食わぬ顔で尋ねるなんていう芸当が、彼女にできるとは思わなかった。

上山サキは同じ姿勢のまま、なおもどこかを見つめている。彼とは視線を合わせようとしない。フグに似たその顔にできる限りの深刻そうな表情が浮かんでいる。何かを隠している人のように見えなくもない。やはりこの女は生き物を見たのではないか、と彼は思った。それについて彼に尋ねるべきかどうかを今まさに迷っているのではないだろうか。

衝動的に彼は、すべてを話してしまおうかという思いに駆られた。白い生き物のことを、それをつかまえた日のこと、その生態、それを地下で飼育する理由を、上山サキに洗いざらい話してしまおうか❓しかし彼が決意を固める前に上山サキが、「そろそろ帰ろうかしら」と言って立ち上がったので、問題はそれきりになってしまった。



一人になると彼はすぐに地下室へと向かった。階段を降り、ドアのノブに手をかける。それは閉じていた。鍵はちゃんとかかっていた。上山サキはやはりここには入っていない。彼女は本当のことを語っていたのだ。

彼は一応安堵したが、なぜか心が完全に晴れることはなかった。

青白い部屋の中で白い生き物はいつもどおりに泳いでいた。巨大な立方体の水槽は異なる世界から切り取られて運びこまれた真四角の空間のようだった。この生き物には何であろうと関係がない。彼という人間も、世界に渦巻く憎しみや悲しみも戦争も宇宙の膨張も、一切を無視して泳ぐことができる。彼はその姿を眺めることによって精神の安定を得た。

どんな感情も生き物を見つめるうちに中和される。混乱も不安も絶望も滑らかなその白い表皮が吸い込んでくれるかのようだった。彼はそれのおかげでこれまで生き延びることができたのだ。


1時間ほどが過ぎた。彼は全く油断していた。「祈り」を終えて振り返ったとき、彼は地下室の入口のドアがひとりでに開くのを見た。ドアの隙間から人影が現れ、地下室の中に滑るように入ってきた。それは上山サキだった。

彼は息を止めてその場に立ち尽くしていた。自分が目にしている光景が信じられなかった。上山サキは寝ぼけて起きてきたばかりのような顔をしていた。彼女は首を動かして室内を見渡している。

「すごおい、素敵なお部屋ね」それが上山サキの第一声だった。そして彼のほうへ歩み寄ってきた。

どうしたの、何かあったの、と彼は尋ねた。

「え、ああ、ちょっと忘れ物をしてね。スマートフォンをテーブルに置きっぱなしにしてたの思い出して取りに来たの。インターフォンなら、ちゃんと鳴らしたよ❓でも返事がなくて、戸が開いてから上がらしてもらったの。でも明かりがついてるのにあなたの姿がないから心配になってね、あちこち探してるうちに、ここに来てみたの」

青白い光の中で女の姿は幽霊のように現実感を欠いていた。彼女の言葉は本当だろうか、インターフォンは鳴っただろうか❓地下室に備え付けてあるモニターの音を彼は耳にした記憶がなかった。でも単に聞き逃していただけという可能性はある。彼は祈りに没頭すると一時的に感覚が遮断されることがあった。前にもこんなことがあった。

「ごめんね、勝手に入って」と上山サキが言った。

まあいいんだけど、と彼は言った。

「物置っていう感じじゃないね。水族館みたい」

もう何を言っても手遅れだった。上山サキは水槽の前に立ち、上体をわずかに傾けてガラスに顔をくっつけるようにして水槽を覗き込んでいる。今そこにある動くものといえば、視認できないほど微かに揺れる水草ばかりだった。

「何もおらんよ❓中で何か飼っているんやないん」

彼は答えなかった。

「ゴムボールしかない。なんで水槽にゴムボールなんか置いとるん」

彼女はガラスを指の関節でコンコンと叩いた。それは何かを意図した行為ではなかったはずだが、その音に反応するかのように、彼女がゴムボールと呼んだものが、そのままの形でわずかに珊瑚砂の上で跳ねるように浮かんだ。

球体は少しずつ膨らみ、すぐにそれまでの倍ほどの大きさになった。そして泳ぎはじめた。時計の秒針のような速度と軌道で、水の中に大きな円を描くように。

上山サキはその様子を黙って見つめていた。彼女の横顔には以前に海響館で海の生き物たちを見ていたときと同じ表情が浮かんでいた。興味を奪われてはいるが、ひどく驚いたり困惑しているわけではない。未知の生き物に接していながらそんなに平然としていられる彼女のことが彼には不思議だった。しかし同時に少し感心してもいた。

生き物は数分ほどで泳ぐのをやめ、空気が抜けてしぼむみたいに少しずつ小さくなりながら、水底に向けてゆっくりと下降した。砂の上に着地したときには、先ほどのゴムボール大よりさらに一回り小さくなっていた。そのあと生き物はぴくりとも動かなかった。

上山サキは彼の顔を見て言った。「珍しいクラゲやね。ふつうのクラゲじゃないね」

もちろん、と彼は言った。

「もう泳がないの❓」

もう眠るんだよ、今の泳ぎは、君への挨拶みたいなものだよ、と彼は言った。

「そうなん、じゃあ、邪魔して悪かったね」

彼女は指の腹でトントンとガラスを叩いた。生き物はまったく反応しない。

彼女はその後も長く生き物から目を離さずにいたが、彼が、遅いから戻ろう、と言うと水槽から離れた。

階段をのぼりながら上山サキが言った。「なんで今まで隠してたの❓見せてくれたらよかったのに」

気味悪がるかと思って、と彼は言った。

「あんなクラゲ、海響館にもおらんやったね。どこで買ったの❓どっかで拾ったの❓」

長い話があるんだよ、と彼は言った。

「あなたの物置、本なんか一冊もなかったね」

それについては彼は肩をすくめるばかりで答えなかった。

去り際に上山サキは言った。「また見に来ていい❓クラゲ」

いいよ、と彼は答えた。


上山サキは地下室や白い生き物について、あれこれ彼にも質問したりはしなかった。誰かに言いふらすこともなかった。上山サキは彼女がクラゲだと思い込んでいる生物に対しても彼に対するのと同じように献身的に接した。彼女の世話好きな性格はひとたび気に入ってしまえば対象が人間だろうとクラゲだろう同様に発揮されるのだ。次の日には彼女はホームセンターで熱帯魚や金魚のための餌を大量に購入してきた。

「『ナフコ』の店員の人が、クラゲの飼育の仕方なんか知らんっていうから、適当にいろいろ買ってきたんやけど」

餌のことは心配しなくていい、と彼は言った。実際に生き物の餌については心配をする必要はなかった。うっかりして2、3日餌をあげずにいても生き物は平気だったし、食べるときは何であろうと何でも食べた。肉だろうと魚だろうと、骨付きの鶏肉だろうと古くなった野菜だろうと何だろうと飲み込んでしまう。だからいつしか彼は餌についてまったく気を遣わなくなっていた。そのへんにある適当に余った食材など放り込んでおけばそれでこと足りていた。

上山サキもやがて、実際に白い生き物にいろんな食べ物を投げ与えるうちに、その圧倒的な雑食性を理解するに至った。与えればどんなものでも平らげる様子を見て彼女は喜んだ。

「このクラゲを眺めている間、私はすべてを忘れられる」

上山サキはそんなことを言った。「病気のことも将来のことも、こうしてクラゲを眺めてたら大したことじゃなく思えるよね。なんだか自分が空っぽになるみたい。悪い感じじゃなくて、すごく気持ちいいんだよね。ねえ、ありがとう」

ありがとうって何が、と彼は言った。

「私にこの部屋に入るのを許してくれたこと」 

彼は特に許した覚えはなかったが、すでに状況はそうなっていた。

「そういえばさ、名前なんていうの。こいつ」

名前❓と彼は言った。

「そう。このクラゲのこと。普段なんて呼んでるの❓」

名前なんかないよ、と彼は言った。彼は名前の必要性など一度も感じることなく生き物と何年も過ごしていたのだった。そんなことは思いつきもしなかった。それに何となくこの生き物には名前がないことが似合っているように思えた。彼がそう言うと上山サキは怒り出した。

「ひどい‼あんまりだわ‼名前って、関係の一番最初なんだよ。名前をつけることで愛着がわいたり、大切にしようという意識が生まれるの。あなたは冷たいね。よしよし、かわいそうにねえ(と彼女は水槽越しに白い生き物に語りかけた)、…じゃあ私が名前をつけてあげる。ええとね………」

上山サキは一人でぶつぶつと何かいろんな音を口ずさんでいたが、やがて言った。

「モエム」

モエム、と彼はその言葉を繰り返した。

「そう、モエム。この子に似合うでしょう。モエム、モエム………」

どういう意味なの、と彼は尋ねた。

「意味とかないよ。似合っていて響きが良ければいいんだよ」

モエム、モエム、と上山サキはいろんな音程で繰り返しながら指先でガラスを叩いた。白い生き物は身体の一部を触角のように細長く延ばし、その先端を水槽のガラスにくっつけたり離したりした。まるで上山サキの指先の動きを真似るように。女と生き物によるそうした動作は、それからおよそ5分ほども続いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ