歪む、世界
城の門を、くぐる。
その瞬間。空気が、変わった。
外より、ずっと濃い闇。それが、城の中に——どろりと、満ちている。壁も、床も、きらびやかな装飾も。すべてが——黒い靄に覆われて。本来の姿を、失っていた。
しん、と静まり返っている。衛兵も、侍従も。誰も、いない。みんな——逃げたのか。それとも。
(……考えるの、やめよう)
ぶるり、と。首を振る。今は——前に、進むしかない。
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長い廊下を、私たちは進んでいく。
一歩、進むごとに。闇は——濃く、重くなっていった。まとわりつくように、足を。心を、引きずり込もうとする。
「……気を、抜くな」
ユリウスが、低く囁いた。剣を構えたまま、鋭く——周囲を、警戒している。
「何かが、いる。気配が——そこら中に」
彼にも、感じ取れるのだ。この、異常な——闇の、濃さが。
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ピピが、私の肩で。ぎゅっと身を縮める。
『……みどり。この先。すごく、いやな——感じ、する』
「うん。……わかってる」
フェンも、めずらしく。軽口を叩かない。ただ、油断なく——金色の目を、細めている。
シルヴィアは、静かに。けれど——確かな決意を、瞳に宿して。私の隣を、漂っていた。
そして、胸の奥で。精霊王の力が、じっと。来るべきときに備えている。
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やがて。
私たちは、大きな両開きの扉の前に。たどり着いた。
謁見の間。かつて——王が、民を迎えた、はずの場所。
その扉の、隙間から。とりわけ濃い闇が、ずるり、と——漏れ出している。
ここだ。この奥に、いる。
私は。ごくり、と唾を飲んだ。
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「……行こう」
みんなで、頷き合う。そして——ユリウスが、扉に手をかけ。
ぐっと——押し開けた。
ぎぃ、と。重い音を立てて、扉が開く。
その向こうに、広がっていたのは。
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闇。
ただ、ひたすらに濃い闇が。広間を、埋め尽くしていた。窓から差し込むはずの光も、すべて——呑み込まれて。昼なのか、夜なのかも。わからない。
いや——。
それは。床や、壁を。黒く染めている、だけじゃなかった。
空間そのものが、歪んでいた。柱が、ありえない角度に——ねじれ。天井が、ぐにゃりと——たわんで。遠近感が、狂う。まっすぐ立っているはずなのに、足元が——ぐらりと、傾いたような。
まるで。この一帯だけ、世界の決まりごとが——壊れて、しまったみたいだった。
そして。その、闇の中心。
一段、高くなった玉座に。
誰かが、座っていた。
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立派な、衣装。王の証である、冠。
けれど。その冠は、本来の輝きを——失っていた。まるで、何百年も放置されたように。黒く腐食し、ぼろぼろと崩れかけて。そこから、黒い靄が——じわじわと、滲み出している。
(……王様)
間違い、ない。あれが——イザベラの、お父さん。この国の、王。
でも——。
その姿を見た瞬間、背筋が凍りついた。
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おかしい。
あの、夜会のとき。王様は——ひどく、影が薄かった。顔も、声も。記憶から、するりと——すり抜けていく。まるで、最初から、そこにいなかったみたいに。
でも——今は。
まるで、逆だ。
その身体から、圧倒的な存在感が。どす黒い威圧となって、広間中に——のしかかってくる。座っているだけ、なのに。空気が、ぐにゃりと——歪むほどの、密度。
(……あれだけ、希薄だったのに。どうして、今は、こんな——)
ぞくり、と。理屈じゃ、ない。頭で考えるより先に、魂が——竦み上がる。
それは。ただ、強いとか。恐ろしいとか。そういう——次元の、ものでは、なかった。
あれを見ていると、足元が——崩れていくような。世界の底が、ぽっかりと抜けて。そこから、何もかもが。光も、音も、温もりも。意味さえも——吸い込まれて、消えていく。そんな。
虚無。
すべてを、無に還そうとする——終わりの、気配。
目を合わせているだけで、心の芯が。じわじわと——凍りついていく。「お前など、いてもいなくても、同じだ」と。存在ごと——否定される、ような。
いや——。
それだけじゃ、ない。
あの闇に見つめられていると、自分の輪郭が。だんだん——曖昧に、なっていく気がした。ここに、いるはずなのに。私という存在が、薄く——薄く。塗りつぶされて、いくような。
(……あ、れ。わたし、いま——ここに、いる、んだっけ)
ぞわっ、とする。
そうだ。あの王様が、ずっと影が薄かったのも。記憶に残らなかったのも、きっと——この闇が。そばにいる者の存在を、少しずつ——食らい、薄めていたからだ。
今、それが。私たちにも——向けられている。
ここにいると、私たちまで。あの王様のように、誰の記憶にも残らない——「いなかったもの」に。されてしまう。
王妃の、あの。じわじわと心を蝕む——陰湿な怖さとは、まるで違う。これは——闇、そのもの。すべてを呑み込んで、なかったことにする——深淵の、恐怖。
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「……お、父、さま……?」
隣で。イザベラが。震える声を——漏らした。
その顔は、蒼白になっている。記憶の中の、優しかった父。その面影を宿した身体が、今は——あんな、おぞましいものに。変わり果てている。
受け止めきれない、という表情。当然だ。私だって、もし。あれが、自分の親だったら——。
ぎゅっと、私はイザベラの手を握った。彼女が、びくりと——こちらを、見る。
「……大丈夫。お父さんは、まだ——あの中に、いる。必ず、助け出すから」
イザベラが。唇を、噛んで。こくり、と——頷いた。
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「……よくぞ、来た」
声が——した。
王の口から。けれど——王の、声では、ない。幾重にも重なった、底冷えのする声。地の底から、這い上がってくるような。
その声が響くたびに、広間の壁が。ぴしり、ぴしりと——軋んだ。まるで、声の重みに。建物そのものが——耐えきれない、かのように。ぱらぱらと、天井から細かな破片が降ってくる。
ぞわり、と。全身の毛が逆立つ。
玉座の、何かが。ゆっくりと顔を上げた。
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その、瞳。
落ち窪んだ眼窩の奥で、爛々と——黒く光る。光のない、闇そのものの瞳。それが、私たちを——舐めるように、見回した。
『待って、いたぞ。我が——兄の。新しい、契約者よ』
(……っ、わたしのこと)
もう、知られている。私が、精霊王と契約したことを。
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ぞわぞわと、闇が。玉座の周りで——蠢いている。まるで、あの存在を守る、しもべのように。
『そして——』
その、闇の瞳が。ふと、私の隣へと——移る。
精霊になった、シルヴィアではなく。その、さらに奥。私の内側に、宿る気配へと。
『……久しいな。兄者』
地を這うような声で、闇の精霊王が。そう——呟いた。
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(……兄者)
その、ひとことに。私の中の精霊王が、静かに。けれど——深く。応える、気配が、した。
兄と、弟。光と、闇。
かつて——共に、世界を見守った、二人が。今。器を——人の身体を、隔てて。向かい合っている。
長い、長い時を経て。ついに——対峙する、ときが。来たのだ。
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謁見の間に、重い沈黙が——落ちる。
闇の精霊王の瞳が、すっと細められた。口の端が、にぃ、と——吊り上がる。
『さあ——始めよう、か。この、世界の。終わりの——幕を』
最後の、戦いの幕が。今、上がろうと——していた。




