ご機嫌よう、シルヴィア
鏡の前での、奇妙な体験のあと。
私は、しばらく考えて——「じっとしていても、始まらない」と、結論した。
シルヴィアは、私に何かを託した。この身体を、父を、そして聞こえなかった「何か」を。それを知るには、情報がいる。この屋敷のこと、この世界のこと、シルヴィア自身のこと。ベッドの上で唸っていても、何も手に入らない。
(動こう)
幸い、身体は、朝よりは動く。私は、寝間着の上にガウンを羽織り、そっと、部屋の扉を開けた。
まずは、屋敷の構造の把握から。どこに何があるのか。誰がいるのか。記憶喪失の令嬢が「屋敷を見て回りたい」と言っても、不自然じゃないはずだ。むしろ「思い出すきっかけになるかも」と、好意的に受け取ってもらえる可能性すらある。
廊下に、一歩、踏み出す。
長い、絨毯敷きの廊下。等間隔に並ぶ、扉。壁には、やっぱり肖像画。窓から差し込む朝の光が、埃ひとつない床を、照らしている。
(うわ、広……)
感心しながら、数歩、進んだ——そのとき。
「——あら」
声が、降ってきた。
廊下の、向こう。階段の方から、一人の少女が、歩いてくるところだった。
歳は、私と——いや、シルヴィアと、同じくらいか、少し上。緩く波打つ、蜂蜜色の髪。気の強そうな、けれど整った顔立ち。仕立ての良いドレスを、隙なく着こなしている。
その少女は、私を見るなり——口の端を、つり上げた。
「ご機嫌よう、シルヴィア。フラフラと出歩けるくらいには、お元気そうで何よりですわ」
声に、わかりやすい棘があった。
(……シルヴィア、って)
私は、内心で首をかしげた。この子は、私を「シルヴィア」と、呼び捨てにした。妹か、あるいは——目下の相手に対する、呼び方。
でも、父コンラートは、確か——「フレデリカとも、まだうまくいっていないだろう」と言っていた。再婚した、と。あのとき、「フレデリカ」が誰なのかは、わからなかったけれど。
(この人が……フレデリカ?)
目の前の、少女。蜂蜜色の髪の、気の強そうな、令嬢。歳の頃は、私と、近い。そして——「シルヴィア」と、呼び捨てにする、その態度。
たぶん——この人が、フレデリカ。父の、再婚で、家族になった。私にとっては——義理の、姉、だろうか。年回りからして、そんなところだ。そして、口ぶりからして——仲は、良くない。
彼女は、つかつかと、私の前まで来ると、腕を組んで、私を、上から下まで、眺め回した。
「街で派手に倒れて、運ばれてきたと聞きましたわ。しかも——記憶を失くした、ですって? まあ、なんて、おかわいそうに」
「おかわいそうに」の言い方に、まるで、同情のかけらもない。むしろ、嘲笑に近い。
「いつもの仮病の延長かと思えば。今度は、記憶喪失。次は、何を演じるおつもり? あなたの、お芝居好きには、本当に、感心いたしますわ」
(うわ。きっつ)
私は、思わず、たじろいだ。
これは——わかりやすく、嫌な子だ。病み上がりの(ことになっている)相手に、開口一番これである。いじめっ子、というやつだろう。記憶喪失というデリケートな状況に、塩を塗り込んでくるタイプ。
なるほど。シルヴィアと「うまくいっていない」わけだ。こんな調子で絡まれていたら、そりゃあ、ぎくしゃくもする。
……正直、面倒な相手に出くわした、というのが、本音だった。
病み上がり(ということになっている)の相手に、開口一番この調子。記憶喪失というデリケートな状況に、塩を塗り込んでくる。前世のバイト先にも、こういう手合いはいた。関わって、いいことは何もない。
私は、当たり障りなく、やり過ごすことにした。
「聞いていらっしゃるの? シルヴィア」
フレデリカが、声を、強めた。
「あ……ごめんなさい。えっと……」
私は、慌てて、記憶喪失の令嬢の顔に戻る。が、ここで、どう返すのが正解なのか、わからない。シルヴィアなら、この嫌味に、どう応じていたんだろう。言い返していた? それとも、黙って俯いていた?
情報がない。なら——記憶喪失を、盾にするしかない。
「あの……ごめんなさい。わたし、本当に、何も思い出せなくて。あなたが、誰なのかも……」
その瞬間。
フレデリカの、表情が——ほんの一瞬。
ぴくり、と、強張った。
「……本当に」
声が、低くなる。
「本当に、何も、覚えていらっしゃらないの。……わたくしのことも」
「……ごめんなさい」
フレデリカは、しばらく、無言で、私を見つめていた。
その視線は、さっきまでの「嫌味」とは、どこか、質が違った。探るような。確かめるような。何かを——警戒している、ような。
(……あれ?)
でも、それは、本当に一瞬だった。
フレデリカは、すぐに、つん、と、顎を上げて、元の「嫌な継姉」の顔に、戻った。
「……ふん。そう。結構ですわ」
彼女は、ぷいと、視線を逸らした。
「記憶がないなら、せいぜい、大人しくしていることね。あちこち出歩いて、また倒れでもされては、お父様のお手を煩わせますわ。みっともない。少しは、自重なさって」
言い捨てて、フレデリカは、私の横を、すり抜けるように、通り過ぎていった。
ふわり、と、すれ違いざまに、香りがした。そして彼女は、一度も振り返らず、背筋をぴんと伸ばしたまま、廊下の向こうへと、歩き去っていった。
残された私は、廊下の真ん中で、立ち尽くしていた。
(……今の、なんだろう)
嫌味を言って、冷たく睨んで、「みっともない」と吐き捨てた。そこまでは、いい。わかりやすく、私を——いや、シルヴィアを、嫌っている継姉。
でも。
私が「記憶を失くした」と告げた、あの瞬間。
彼女は、確かに、強張った。声を低くして、「本当に、何も覚えていないのか」と、念を押すように、確かめてきた。あの、探るような、警戒するような目。
(記憶喪失って、聞いて……なんで、あんな反応を?)
普通、嫌っている相手が記憶を失くしたと聞いたら——せいぜい「ざまあみろ」か、「面倒な」か。よくて、形だけの心配。
なのに、フレデリカの反応は、そのどれとも、違った。
まるで——私が記憶を失くしたことに、何か、不都合でもあるみたいに。
あるいは——私が「本当に忘れているのか」を、確かめずにはいられない、何かが、あるみたいに。
(……考えすぎ、かな)
私は、首を振った。
いや、わからない。情報が、足りなさすぎる。ただの、気難しい継姉なのかもしれない。私の、勘繰りすぎかもしれない。
でも——一つ、心のメモ帳に、書き留めておくことにした。
継姉、フレデリカ。記憶喪失に、妙な反応あり。要・観察。
(なんだか……この屋敷、思っていたより、ずっと、ややこしそう)
私は、ふう、と息を吐いて、それでも、廊下の先へと、足を進めた。
謎を、追いかけると、決めたのだ。
立ち止まっている場合じゃ、ない。




