鏡の中の、あなた
父——コンラートが去って、部屋には、また私一人が残された。
ベッドの上で、私は、しばらくぼんやりしていた。
(……愛されてるって、こんなに、しんどいものなんだな)
不器用な父の、ためらいがちな手のひらの感触が、まだ髪に残っている。あの愛情は、シルヴィアに向けられたもので、私が受け取っていいものじゃない。なのに、突き返すこともできなくて。胸の奥が、ずっと、もやもやしている。
もやもやの正体は、たぶん、罪悪感だ。
私は、この身体の本当の持ち主——シルヴィアのことを、何も知らない。どんな子だったのか。何を考えて、何を抱えて、どうして「私」をここに呼んだのか。
その肝心の本人が、いない。
(……いない、のかな?)
ふと、そんな疑問が、頭をよぎった。
昨日の、医者のとき。私の身体の奥で灯った、あの温かいもの。あれは、何だった? まるで、誰かが、私の代わりに呼吸をしてくれたみたいな。まるで、誰かが、まだ——この身体の、どこかに。
じっとしていられなくなって、私はベッドから、そっと足を下ろした。
知らない身体は、やっぱり少しふらついたけれど、歩けないほどじゃない。私は、壁際に置かれた、大きな姿見の前まで、歩いていった。
鏡。
この世界で最初に、自分の——いや、シルヴィアの顔を見た、あの鏡と、同じもの。いや、あれは店のトイレの鏡だったから、別物だ。でも、なぜだろう。この姿見の前に立つと、妙に、胸がざわつく。
鏡の中に、銀髪の少女が、立っていた。
垂れ目がちの、大きな瞳。長い睫毛。作り物みたいに整った顔。何度見ても、自分とは思えない。
「……あなたは、誰なの」
鏡に向かって、私は、小さく呟いた。
返事なんて、あるはずがない。鏡の中の少女は、私の口の動きを、そのままなぞるだけ。
……そのはず、だった。
その、瞬間。
鏡の表面が、ぐにゃり、と。
水面のように、揺れた。
「——っ」
声を上げる間も、なかった。
私の意識は、鏡の中へと——ぐるりと、引きずり込まれた。
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光の、洪水。
目を開けると、私は、見知らぬ部屋に、立っていた。
いや、「立っていた」というのも、正確じゃない。私には、身体が、なかった。ただ、その場に漂う視線だけになって、私は、その光景を、見ていた。
夢、だ。
演劇の世界に長くいると、わかる。これは、舞台の上で見る、書割の景色に似ている。現実じゃない。誰かの、記憶の、再現。
そして、その部屋の中央に——銀髪の少女が、いた。
(シルヴィア……!)
間違いない。私が今、その身体を借りている、本人。
でも、鏡で見る「私」とは、まるで、印象が違った。
背筋を、まっすぐに伸ばして。凛と、前を見て。その横顔には、私には決して出せない、気品のようなものが、宿っていた。ああ、この子は——本物の、令嬢なんだ。生まれたときから、そういうふうに、生きてきた子なんだ。
シルヴィアは、鏡の前に、立っていた。
今、私がいる部屋の、あの姿見だ。
そして、その手には——栗色の、ウィッグ。
(あれは……)
彼女は、ウィッグを、そっと、胸に抱いた。まるで、大切なものを、抱きしめるように。
その唇が、動いた。声は、遠く、くぐもっていて、はっきりとは聞き取れない。でも——
『……ごめんね』
その一言だけが、なぜか、私の胸に、まっすぐ、届いた。
『ごめんね。それから——』
シルヴィアが、振り返る。
鏡越しじゃなく、まっすぐに。まるで、ここにいる「私」を、見つけたみたいに。
その瞳から、つう、と、涙が、一筋。
なのに、彼女は——笑っていた。泣きながら、穏やかに、優しく。
『ありがとう。来て、くれて』
(——え)
その唇が、また、動く。でも、今度は、声にならない。
代わりに——彼女の想いだけが、流れ込んでくる。
ごめんなさい、という、深い詫び。あなたを巻き込んでしまった、という、痛み。それでも、あなたなら、と願ってしまった——すがるような、祈り。
言葉じゃない。理屈でもない。ただ、感情の塊が、そのまま、私の胸に、染みてくる。
そして、その想いの底に——焦りに、似た、切迫したものが、混じっていた。
時間が、ない。もう、わたしには。
言葉として聞こえたわけじゃない。でも、なぜか、はっきりと、そう伝わった。
シルヴィアの姿が、光に、溶け始める。
託すように、すがるように、彼女の想いが、最後にもう一度、押し寄せてくる。この身体を。お父様を。それから——
最後の願いは、形にならないまま、光の中に、ほどけて消えた。
ただ、彼女が最後に浮かべた表情だけが、焼きついた。
罪悪感と、感謝と、それから——どうしようもないほどの、優しさの、こもった、笑顔。
『——いつか、ぜんぶ、話すから』
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「——っ、は!」
気づくと、私は、姿見の前に、座り込んでいた。
いつの間に、膝をついていたんだろう。心臓が、どくどくと、早鐘を打っている。頬に、手をやると——濡れていた。
泣いて、いた。
私が、じゃない。いや、私が、なんだけど。私の意思とは関係なく、勝手に、涙が、こぼれていた。まるで、さっきのシルヴィアの涙が、そのまま、伝染したみたいに。
(……今の、は)
夢、にしては。あまりにも、生々しかった。
シルヴィアの、声。表情。胸に流れ込んできた、想い。あれは——間違いなく、シルヴィア本人の、メッセージだった。
(やっぱり……あなた、いるんだね)
私は、鏡を見上げた。
銀髪の少女が、涙の跡を残したまま、こちらを見ている。今はもう、ただの鏡像。揺れもしない。さっきの光景が、嘘みたいに。
でも、確かに、感じた。
この身体の、どこかに。あるいは、すぐ近くに。シルヴィアは、まだ——「いる」。
そして、わかったことが、いくつか。
一つ。シルヴィアは、自分の意思で、私を呼んだ。「あなたしかいなかった」「あなたなら、と信じた」——偶然じゃない。彼女は、私を、選んだ。
二つ。彼女には、「時間がない」。やっぱり、余命。それも、たぶん、もう、ほとんど。
三つ。彼女は、私に、何かを「託した」。この身体を。父を。そして——最後に聞こえなかった、何かを。
(……重い)
正直、それが、最初の感想だった。
知らない世界で、知らない身体で、知らない誰かの、人生と、家族と、託された「何か」を、背負わされている。重すぎる。逃げ出したいくらいに。全部、なかったことにして、元の生活に、帰りたい。
(……あー。急に地球が、滅びないかな)
元の世界で、面倒なことがあるたびに、何度も心の中で呟いた、いつもの軽口。
それが今は——ほんの少しだけ、本気になりかけている。
(でも……)
私は、鏡の中の、涙の跡を、指で拭った。
あの笑顔を、思い出す。
泣きながら、それでも、私に「ありがとう」と笑った、シルヴィアの顔。あんな顔をされて。あんなに、優しい想いを、ぶつけられて。
(……知らないふり、できるわけ、ないじゃない)
これも、緑の、悪い癖だ。
泣いている人を、放っておけない。困っている人を、見過ごせない。元の世界でも、それでさんざん、損をしてきた。
でも、もう、仕方ない。
私は、ゆっくりと、立ち上がった。ふらつく足に、力を込めて。
「……シルヴィア」
鏡の中の、自分でない自分に、呼びかける。
「あなたが、何を託したのか。まだ、全部はわからない。でも——」
深く、息を吸って。
「知りたい。あなたのことを。この世界のことを。あなたが、どうして、こんな顔で笑えたのかを」
返事は、ない。
でも、胸の奥が、ほんの少し、温かくなった気がした。気のせい、かもしれないけれど。
(待ってて。次に会えたときは、ちゃんと、話を聞くから)
(『いつか、ぜんぶ話す』って、言ったよね。——その「いつか」、私が、必ず手繰り寄せてみせる)
窓の外は、すっかり、朝の光に満ちていた。
二つの月は、もう、見えない。
異世界転生、二日目の朝。
空腹に始まった私の一日は——「謎を、自分から追いかける」という、新しい覚悟とともに、本当の意味で、幕を開けた。




