不器用な父と、嘘つきな娘
朝食の皿が下げられて、しばらく。
私が「さて、これからどうやって情報を集めたものか」と、ベッドの上で考えを巡らせていると——廊下の方から、重い足音が、近づいてきた。
エマの軽い足音とは、まるで違う。一歩一歩が、しっかりとした、大人の男の歩幅。
扉が、ノックもそこそこに、開いた。
「シルヴィア」
低い、けれど、張りのある声。
入ってきたのは、長身の男だった。
歳は、四十の半ばほどだろうか。銀色の混じった、けれど元は同じ銀髪だったとわかる髪。きっちりと整えられた身なり。仕立ての良い上着。そして——私と、同じ色の、菫色の瞳。
(……この人)
顔立ちのどこかに、鏡で見た「シルヴィア」の面影がある。
言われなくても、わかった。この人は——シルヴィアの、父親だ。
「容体は、どうなのだ。昨日、街で倒れたと聞いて……」
彼は、ベッドのそばまで来ると、言葉を切った。
そして、なぜか、その先を、続けられずにいた。
心配して来た。それは、間違いない。眉間に刻まれた皺も、わずかに早い呼吸も、全部それを物語っている。なのに、いざ娘の顔を見たら、何を言えばいいのかわからない——そんな、不器用な戸惑いが、その大きな身体から、にじみ出ていた。
(あ。この感じ、知ってる)
うちの父さんも、こうだった。私が熱を出して寝込んだとき、心配でたまらないくせに、部屋に来ても「……飯は食えるのか」くらいしか言えなくて、母さんに「もっと言うことあるでしょ」と呆れられていた。
愛情は、ある。ただ、それを言葉にするのが、絶望的に、下手なのだ。
不思議と、緊張が、少し解けた。
でも——だからこそ、私は、迷った。
(この人に、「記憶喪失」を、打ち明けるべきか)
正直、隠し通せる自信は、ない。父親というのは、娘との思い出を、誰より多く共有している相手だ。少し込み入った話をされれば、私はたちまちボロを出す。「昔、一緒に行っただろう」「お前が幼い頃に」——そんな話を振られて、私は何も返せない。
ならば、いっそ。
先に、明かしてしまった方がいい。
私は、できる限り不安げに、けれど、まっすぐに、彼を見上げた。
「……あの」
「うん?」
「不躾なことを、お伺いします。あなたは——わたしの、お父様、ですか?」
彼の、菫色の瞳が、大きく、見開かれた。
「……シルヴィア。何を、言って……」
「ごめんなさい。わたし……目が覚めてから、何も、思い出せないんです。自分の名前も、ここがどこなのかも……あなたが、誰なのかも」
部屋に、沈黙が落ちた。
重い、重い、沈黙だった。
コンラート——後で、エマがそう呼んでいたので名を知った——は、しばらく、石のように、固まっていた。その顔から、見る間に、血の気が引いていく。
「……記憶が、ない、と?」
「はい」
「馬鹿な」
コンラートの声が、跳ね上がった。
「報告では……お前は、街で、軽い立ちくらみを起こしただけだと。少し休めば、すぐに良くなると、そう聞いて……」
(……立ちくらみ?)
私は、内心で、眉をひそめた。
昨日のあれは、どう見ても「立ちくらみ」なんて生易しいものじゃなかった。私は——いや、シルヴィアの身体は、トイレの洗面台の前で、完全に意識が入れ替わるほどの、何かが起きていた。使用人たちは「今月で三度目」と囁き、エマは「逝かないで」と泣いた。
なのに、父に上がった報告は「軽い立ちくらみ」。
(……話が、ぜんぜん、違う)
まるで——父に伝わる頃には、すべての深刻さが、都合よく、削り取られているみたいに。
「医者は。医者は、なんと言ったのだ」
「過労による、一時的なものだろう、と。でも……記憶のことは、わたしも、さっき気づいたばかりで……」
コンラートは、ふらり、と、ベッド脇の椅子に、腰を落とした。
大きな手で、口元を覆う。その手が、かすかに、震えていた。
「……そうか」
絞り出すような、声。
「お前の身体が、少し弱いことは……知っていた。時折、めまいを起こすと、侍女から聞いていた。だが——まさか、記憶を失うほどとは。そんな話は、一度も……」
(やっぱり)
父は、知らない。
シルヴィアが、頻繁に倒れていることも。記憶や人格が揺らぐような予兆を、見せていたことも。父の耳には、ごく軽い、当たり障りのない報告しか、届いていない。
一方で、エマは——昨日、私が記憶喪失を口にしたとき、「やっぱり、お医者様の言った通り」と、すんなり受け入れた。近くで仕える者は、知っている。父は、知らない。
この、あまりにも不自然な、情報の落差。
(誰かが……父に伝わる情報だけ、選んで、薄めている?)
いや。「誰か」じゃ、ないのかもしれない。
昨日、医者の診察を、得体の知れない「温かいもの」が、切り抜けさせた。あれと、同じ。
この身体には——いや、シルヴィアには。父にすら、本当の状態を、悟らせない「仕組み」が、最初から、働いている。
(……どこまで、用意周到なの)
ぞくりとしたが、今は、顔に出すわけにはいかない。
そして、その「仕組み」が示す事実は、一つだ。
(シルヴィアは……父親にすら、本当のことを、隠していた)
頻繁に倒れていることも。その奥にあるであろう、もっと深刻な何かも。実の父に、ここまで巧妙に、悟らせないようにしていた。
なぜ。どうして、そこまでして。
考えかけて——私は、ハッとした。
目の前で、この大きな父親が、あまりにも、途方に暮れた顔を、していたから。
「すまない、シルヴィア」
コンラートは、膝の上で、両手を、固く握りしめていた。
「私が……不甲斐ない、父で。お前が倒れたときも、私は領地の仕事で、屋敷を空けていた。お前の母が亡くなってから、私は……お前と、どう接すればいいのか、わからないままで」
(母親は……亡くなってるのか)
また一つ、情報が、増えた。シルヴィアの実母は、すでにいない。そして——
「フレデリカとも、まだ、うまくいっていないだろう。私が、再婚などしたせいで……お前に、余計な気を、遣わせて」
(フレデリカ。再婚)
父は、再婚している。そして——「フレデリカ」という、名前。
誰、だろう。再婚した、相手の名前なのか。それとも、その、連れ子なのか。あるいは、まったく別の、誰か。父の口ぶりだけでは、判断が、つかない。ただ——シルヴィアと、その「フレデリカ」の仲が、「うまくいっていない」ことだけは、確かなようだった。
断片的に。家族の構図が、見えてくる。
実母を亡くした娘。再婚した父。そして——名前も知らない、「フレデリカ」という、誰か。ぎくしゃくした、家族関係。
(……複雑、そうだ)
関係性は、まだ、はっきりしない。でも、おいおい、わかってくるだろう。今、無理に、決めつける必要は、ない。
でも、それ以上に。
私の胸を、ちくりと、刺したものが、あった。
目の前のこの人は——「シルヴィア」を、愛している。
不器用で、言葉足らずで、すれ違ってばかりだけれど。娘の身体を案じ、自分を責め、こんなにも、途方に暮れている。
なのに。
この人が今、心配して、愛おしんでいる「シルヴィア」は——もう、ここには、いない。
中身は、私だ。池崎緑という、見ず知らずの、別人だ。
(……ごめんなさい)
言葉にはできない、謝罪が、胸の中で、こぼれた。
私は、この人の娘じゃない。この人の愛情を、受け取る資格が、私には、ない。
でも——目の前で、不器用な父親が、こんなにも傷ついた顔をしているのを、放っておくことも、できなかった。
これも、緑の、悪い癖だ。
「……お父様」
私は、そっと、声をかけた。
「記憶は、なくしてしまったけれど。あなたが、わたしを、心配してくださっているのは——ちゃんと、伝わっています」
コンラートが、顔を上げた。
「だから……どうか、ご自分を、責めないでください。あなたは、不甲斐ない父親なんかじゃ、ありません」
それは、半分は、演技だった。記憶喪失の令嬢としての、当たり障りのない、慰めの言葉。
でも——半分は、本心だった。
元の世界に置いてきた、私の父さんにも、言ってあげればよかった。そう、思ったから。
コンラートは、しばらく、私を見つめていた。
そして、ふいに、その大きな手を伸ばして——けれど、途中で、ためらうように、止めて。
結局、ぽん、と、ぎこちなく、私の頭に、置いた。
「……ありがとう、シルヴィア」
その声は、少しだけ、濡れていた。
「ゆっくり、休みなさい。記憶のことは……焦らなくていい。私も、できる限りのことを、する。医者も、王都から、腕の良い者を呼ぼう」
(——あ。それは、まずい)
腕の良い医者。それは、つまり——昨日の医者のように「異常なし」で済ませてくれない、本物の名医、ということだ。記憶喪失の演技も、この身体の秘密も、見抜かれてしまうかもしれない。
「い、いえ! あの、大丈夫です。そんな、大げさにしていただかなくても……!」
私は、慌てて、止めた。
コンラートは、不思議そうに、首をかしげた。
「遠慮するな。お前の身体のことだぞ」
「ほ、本当に、平気なんです。今は、ゆっくり休めば、それで……。それより、その。お父様こそ、お忙しいのでしょう? わたしのことは、気にせず……」
我ながら、苦しい言い訳だった。
けれど、コンラートは——少し、寂しそうに、笑った。
「……そうか。お前は、昔から、人に気を遣う子だったな」
その、しんみりとした空気に、私は内心、冷や汗をかいた。
(い、いや、そういうつもりじゃ……ただ、名医に診られると困るだけで……)
でも、それは言えない。
「では、また、様子を見に来る。何かあれば、すぐエマに言いなさい」
コンラートは、立ち上がり、最後にもう一度、ぎこちなく私の頭を撫でて——重い足音とともに、部屋を出ていった。
扉が、閉まる。
私は、ベッドの上で、ふう、と、長い息を吐いた。
(……疲れた)
たった一度の、父親との対面で、どっと、精神が摩耗していた。
愛されている、というのは。
その愛が、本当は「自分」に向けられたものじゃない、と知りながら受け取るのは——こんなにも、苦しいものなのか。
(シルヴィア)
私は、まだ顔も知らない——いや、鏡の中でしか知らない、この身体の本当の持ち主に、問いかけた。
(あなたは、どうして。こんなに優しいお父様にも、本当のことを、隠していたの)
(あなたは、いったい、何を抱えて——何のために、わたしを、ここに呼んだの)
答えは、返ってこない。
二つの月の、片割れが、まだ薄く、朝の空に、残っていた。




