シルヴィア、という名前
食事は、思っていたより、ずっと早く運ばれてきた。
エマ——栗色の髪の侍女は、そう名乗った。
私が「あなたは誰?」と尋ねると、涙をぐしぐし拭いながら「エマです、お嬢様付きの侍女の、エマです……!」と、三度くらい繰り返した。よほど動転しているらしい。
ワゴンに乗せられて運ばれてきたのは、白いパンと、湯気の立つスープ、それから、何かの果実を絞ったらしい飲み物だった。豪華絢爛、というわけではない。むしろ、病人向けの、消化に良さそうな、優しい献立。
(……っ、いい匂い)
空腹は、最高の調味料という。それは元の世界も異世界も変わらないらしかった。私は記憶喪失の演技も半分忘れて、スープに口をつけ——危うく、声が出るところだった。
うまい。じんわりと、五臓六腑に染み渡る。
なんとか「お上品な令嬢」らしく、ゆっくり食べることを心がけながら(これも演技だ。本当はかき込みたい)、私はエマの様子を観察した。
彼女は、私がスプーンを動かすたびに、いちいち泣きそうな顔で見守っている。まるで、食べられること自体が奇跡だとでもいうように。
(……やっぱり、変だ)
ただの「気晴らしの外出先で倒れた令嬢」に、ここまでの反応はしない。
私は、頃合いを見て、できるだけ無垢な迷子の顔で、切り出した。
「ねえ、エマ。……わたし、本当に、何も思い出せないの。わたしは、誰? どうして、ここに……?」
エマは、スプーンを持つ私の手を、両手でぎゅっと握った。
「お嬢様は——シルヴィア・お嬢様です。シルヴィア・フォン……このお屋敷の、ご令嬢でいらっしゃいます」
(シルヴィア)
私は、その名を、心の中で繰り返した。シルヴィア。この銀髪の身体の、本当の名前。
「昨日は、わたくしが……わたしが、お嬢様を、街へお連れしたんです。たまには気晴らしをと思って……。それが、こんなことになって……ぜんぶ、わたしのせいで……」
「エマのせいじゃ、ないわ」
反射的に、そう言っていた。
泣いている人間を見ると放っておけない。これは緑の癖で、記憶喪失の令嬢には不要なセリフだったかもしれない。でも、口が勝手に動いていた。
エマは、ますます涙ぐんだ。
「……お嬢様は、お優しいから。記憶を失くされても、お変わりにならないんですね……」
(セーフ。むしろプラスに取ってくれた)
私は内心で胸をなで下ろしつつ、質問を続けた。情報を、引き出さなければ。
「ねえ、エマ。わたし……どうして、お店のお手洗いで、倒れていたの? それに——」
私は、ベッドの脇に目をやった。
そこには、たたまれた、見覚えのある布。私の——いや、緑の、制服だった。そして、その上に、無造作に置かれた、栗色の、髪の毛の塊。
ウィッグ。
私が、この身体で目覚めたとき、手に握りしめていた、あの。
「あれは……何?」
私が指さすと、エマは「ああ……」と、困ったような、けれどどこか懐かしむような、複雑な顔をした。
「あれは……お嬢様の、ご変装の道具です」
「変装?」
「はい。……お嬢様は、その。よく、こっそりお屋敷を、抜け出されるんです」
エマは、言いにくそうに、けれど記憶喪失の主人に説明する義務感からか、ぽつぽつと語り出した。
「平民の娘のふりをして、その栗色のかつらをかぶって、こっそり街へ……。何度、見つけて連れ戻したことか。昨日も、本当は、ちゃんとお忍びの許可をいただいた外出だったのに、お店のお手洗いに入ったきり、なかなか出てこられなくて。わたし、てっきり、またそのまま一人で抜け出されるおつもりかと……それで、慌てて声を……」
(なるほど。全部、繋がった)
私は、スープを飲むふりをしながら、頭の中で、パズルのピースをはめていく。
この身体の持ち主、シルヴィアは——変装して屋敷を抜け出す癖のある、おてんばな令嬢。昨日も、栗色のウィッグを使って、どこかへ行こうとしていた。だからトイレの洗面台の前で、私はあのウィッグを握っていた。シルヴィアが、変装の真っ最中に——あるいは、変装しようとした、まさにその瞬間に、私と「入れ替わった」。
そして、その「脱走癖」のおかげで。
私が制服(エマいわく「見慣れない、平民の娘が着るような妙な服」)を着ていたことも、トイレで一人で挙動不審にしていたことも、すべて「いつものお嬢様のご乱行」として、処理されていた。
(……運がいい、のか?)
あまりに、都合がよすぎる。
私が記憶喪失のフリをすれば、すんなり通る。私が見慣れない服を着ていても、「いつもの変装」で片付く。私がトイレで挙動不審でも、「脱走しようとしていた」で説明がつく。
まるで——最初から、そういう「逃げ道」が、用意されていたみたいに。
「……あの、エマ」
私は、もう一つ、気になっていたことを尋ねた。慎重に、言葉を選んで。
「わたし……記憶を失くしたり、その。変なことを、言ったりすること、前にも、あった……?」
すると、エマは、こくりと頷いた。
「……ええ。最近の、お嬢様は……」
彼女の声が、少し、沈んだ。
「ときどき、ぼうっとなさって。『ここはどこ』とか、『わたしは誰』とか……まるで、ご自分が、ご自分でなくなってしまったみたいなことを、おっしゃる日が、あって。お医者様も『記憶や、人格に、影響が出るかもしれない』と……」
(——やっぱり)
先程初めて記憶喪失のフリをしたとき、エマが言った言葉だ。『お医者様の言った通り…』。あのとき私は、なぜこの子はこんなにすんなり受け入れたんだ、と不思議に思った。
その答えが、今、わかった。
シルヴィアは——私が来る前から、すでに「記憶が飛ぶ」「自分が自分でなくなる」言動を、ときどき、見せていた。
(……いや)
スプーンを持つ手が、止まった。
ときどき「見せていた」、んじゃ、ない。
(まさか——「やって」たんじゃ、ないの?)
ぞわり、と。
背筋を、何かが、這い上がった。
考えすぎだ、と思う。でも、演劇部で散々、脚本というものに触れてきた私の勘が、囁いていた。これは——あまりにも、出来すぎた「お膳立て」だ。
脱走癖という、私の奇行を隠す隠れ蓑。
記憶喪失の前振りという、私の正体を隠す伏線。
見慣れない服も、挙動不審も、全部ひっくるめて飲み込んでくれる、完璧な、舞台装置。
まるで、誰かが——「中身が入れ替わっても、周りに怪しまれないように」と、前もって、すべてを、整えておいたみたいに。
(……シルヴィア。あなた、いったい——)
「お嬢様? どうかなさいましたか? お顔の色が……」
エマの、心配そうな声で、我に返った。
「……ううん。なんでもない」
私は、慌てて、迷子の令嬢の顔に戻った。スープの最後の一口を、飲み干す。温かさが、胃の底に落ちていく。
考えても、今は、わからない。情報が、まだ足りない。
でも——一つだけ、確かなことがある。
私は、ただ「偶然」この世界に放り込まれたわけじゃ、ないのかもしれない。
誰かが。たぶん、シルヴィアという、この身体の本当の持ち主が。
私を——「待って」いた。
(……どういう、つもりなの)
二つの月が沈んだ、異世界の朝。
空腹は、満たされた。
けれど、その代わりに。
私の胸の中には、空腹よりもずっと厄介な——「謎」という名の、新しい飢えが、住み着いてしまっていた。




