記憶喪失、ということにしておこう
私は「意識のない令嬢」を演じ続けた。
誰かが呼ばれ、私の身体は男の腕に抱え上げられた。横抱き、いわゆるお姫様抱っこである。人生初のお姫様抱っこが意識不明のフリの最中というのは、なんとも締まらない話だが、文句は言えない。
まぶたを、ほんのわずかに。睫毛の隙間から、世界を盗み見る。
店を出るとき、ちらりと見えた店内は——やはり、ファンタジーだった。木の梁が剥き出しの天井。ランプの、揺れる炎。電球じゃない。本物の、火だ。それを見た瞬間、ああ本当に電気のない世界なんだ、と、妙に実感が湧いた。
外に出ると、石畳の感触が抱える男の足音で伝わってきた。馬の、いななき。車輪の軋む音。やがて私は、馬車に——間違いなく馬車だ、あのサスペンションの悪い揺れ方は車じゃない——乗せられた。
「御者さん、急いで。でも、なるべく揺らさないように……!」
侍女の声。私の頭は、また彼女の膝の上にあるらしい。隙間からチラリと盗み見る。
良かった。ちゃんとみんな人間の形をしている。
馬車が、走り出す。
カーテンの隙間から、夕暮れの光が漏れていた。流れていく街並み。石造りの建物。すれ違う人々の、見たことのない様式の服。遠くに、煌びやかな時計塔が見える。
(……綺麗だな)
不謹慎にも、そう思った。
怖くないと言えば、嘘になる。元の世界に帰れるのかもわからない。この身体が誰なのかも知らない。なのに、流れていく異世界の夕景は、息を呑むほど美しくて。
私はまぶたを閉じた。今は、感傷に浸っている場合じゃない。
膝の上で、侍女がぽつりと呟いたのが聞こえた。
「……お願い。お願いだから、お嬢様。まだ、逝かないで」
その一言で。
私の中の、のんきな観光気分が、すうっと引いた。
(逝かないで、って)
(それは……「気絶」に、かける言葉じゃ、ない)
-----
屋敷は、広かった。
抱えられて運ばれる最中、薄目で見ただけでも、それはわかった。長い廊下。高い天井。壁にかかった、肖像画らしきものの列。貴族の屋敷、というやつだろう。RPGなら間違いなく中ボスが住んでいる規模である。
私は、柔らかなベッドに寝かされた。沈み込むような、上等な寝具の感触。
そこからは、慌ただしかった。
「お医者様を!」「もう呼びに行かせました!」「奥様にはお知らせを……?」「いえ、それは……」——使用人たちの、ひそひそとした、けれど切迫したやりとり。
その中で、ひとつだけ、引っかかる会話があった。
「……また、お倒れに?」
「ええ。これで、今月に入って三度目」
「お労しい……。あんなにお若いのに」
(三度目)
(今月に入って、三度目)
この身体は——そんなに、頻繁に倒れている。
私が来る前から。ずっと。
まずい。これは、本格的にまずいやつだ。私はただ「異世界に来ちゃった、どうしよう」程度の話だと思っていた。違う。この身体は、最初から、何かを抱えている。
そして、その「まずさ」は、すぐに具体的な形をとって、私の眼前に迫ってきた。
「失礼します。患者は——」
医者だ。
足音と、声の質でわかった。落ち着いた、けれど有無を言わさぬプロフェッショナルな気配。鞄を置く音。椅子を引く音。そして——私の手首に、ひやりと、指が触れた。
脈を、取られている。
(詰んだ)
私は、内心で青ざめた。
脈だ。脈拍は、演技じゃごまかせない。私は今、心臓がバクバクに高鳴っている。「意識のない令嬢」の脈拍じゃない。それどころか、医者が本気で診察すれば——瞳孔だの、呼吸だの、私が「演技で気絶している健康体」であることなんて、一発で見抜かれてしまう。
いや、それ以前に。
この身体が抱えている「本物の病」と、私という「中身」が、まるで噛み合っていなかったら?
医者は、気づくはずだ。「これは、いつものお嬢様の症状とは違う」と。
どうする。どうする、緑。
起きるか? 今ここで「目が覚めました」と飛び起きて、強引に診察を中断させるか? いや、それこそ不自然だ。さっきまでぴくりとも動かなかった人間が、医者が脈を取った途端に覚醒するなんて、怪しすぎる——
その、ときだった。
ふ、と。
私の身体の、奥の方で。
何か、温かいものが、灯った。
たとえるなら、冷えた手を、そっと両手で包まれたような。あるいは、誰かが私の代わりに、深く、ゆっくりと、呼吸をしてくれたような。
バクバクと暴れていた心臓が、すうっと、凪いでいく。意思とは関係なく。誰かに「大丈夫だよ」と宥められたみたいに。
(……え?)
医者の指が、しばらく私の手首にとどまり、それから、離れた。
「……ふむ」
長い、沈黙。
私は、まぶたの裏で、息を殺していた。何が起きているのか、まるでわからない。ただ、自分の心臓が、自分のものじゃないみたいに、静かだった。
「——異常は、ないようですな」
医者が、言った。
へ?
「脈も、呼吸も、落ち着いておられる。お顔色も、むしろ普段よりよろしいくらいだ。過労による、一時的な失神でしょう。今夜はゆっくりお休みになれば、明日には起き上がれますよ」
「ほ、本当ですか!? お医者様!」
侍女の、声が跳ねた。
「ええ。気を揉まれたでしょうが、ご安心を。……いやはや、不思議なものだ。診ていると、まるで——どなたかが、内側から、この方を守っておられるような」
医者は、最後に妙なことを呟いて、けれどそれ以上は深く考えなかったらしく、鞄を閉じる音をさせて、立ち去っていった。
残されたのは、安堵にへたり込む侍女と。
わけがわからないまま、心臓だけが静かな、私。
(……今の、なに?)
(なんか……知らんけど、助かった……?)
正直、何が起きたのか、まるで理解できなかった。
私の中の温かい何かは、医者が去ると、また、すうっと、奥の方へ引っ込んでいった。まるで、役目を終えたとでもいうように。
でも、まあ。
(……ラッキー、ってことで、いいか)
追い詰められた人間は、些細な幸運を深く考えない。考える余裕がない。私はただ、「診察を切り抜けられた」というその一点だけを、ありがたく受け取ることにした。
このとき、内側で何が起きていたのか。
それを私が知るのは、もう少し、先の話だ。
-----
夜が、来た。
使用人たちが下がり、ランプの灯りも落とされ、私はようやく、一人きりになった。
……一人きり、のはずだった。
(よし。誰もいない)
私は、そっと目を開けた。今度こそ、本当に。
暗がりに、目が慣れてくる。天蓋付きの、馬鹿でかいベッド。見上げる天井には、緻密な彫刻。窓の外には、二つの——二つだ——月が浮かんでいた。
(うん。やっぱり、異世界だ)
二つの月を見て、私は奇妙なほど冷静に、その事実を受け入れた。もう驚く気力もない、というのが正直なところかもしれない。
私は、上体を起こした。知らない身体は、思ったよりずっと軽くて、けれど、芯のところが、ひどく疲れているのがわかった。長く走った後みたいな、細胞単位の疲労。この身体は、健康じゃない。それだけは、はっきりと感じ取れた。
(さて。整理しよう)
演劇部で叩き込まれたことがある。舞台でアドリブを乗り切る秘訣は、パニックにならないこと。今、自分が「どういう設定の、誰で、どこにいるのか」を、一秒でも早く把握すること。
わかっていること。
一、私は池崎緑。元の世界では、平凡な女子高生で、演劇部。
二、今は、見知らぬ銀髪美少女の身体に入っている。たぶん貴族の令嬢。
三、この身体は、頻繁に倒れる。何か重い病を抱えている。「逝かないで」と言われるくらいには、深刻。
四、さっき、医者の前で、何か温かいものが私を助けた。正体は不明。
わからないこと。
——その他、全部。
(情報が、足りなさすぎる)
明日。明日から、情報を集めなければ。
でも、どうやって? このまま「お嬢様」を演じ続けるのは、無理がある。一人称も、口調も、人間関係も、何もかも知らないのだ。ボロが出るのは時間の問題——
(……やっぱり、あれしかないか)
記憶喪失。
昼間、トイレで一瞬よぎった、苦肉の策。記憶を失ったことにすれば、言葉遣いが変でも、人の名前を忘れていても、すべて「記憶喪失だから」で押し通せる。何より、向こうが勝手に「あなたはこういう人です」と説明してくれる。
リスクはある。けれど、今の私が選べる中では、一番マシな脚本だ。
(よし。明日の朝、起きたら、記憶喪失の令嬢を演じる)
方針は、決まった。
決まったら、急に、どっと疲れが押し寄せてきた。緊張の糸が、少し緩んだのかもしれない。私はベッドに、再び身を沈めた。二つの月を眺めているうちに、まぶたが重くなって——
その夜は、夢も見ずに、深く眠った。
-----
翌朝。
私を起こしたのは、小鳥のさえずりでも、侍女の声でも、なかった。
空腹だった。
ぐぅう、と。
知らない身体の、知らない胃袋が、盛大に、鳴った。
(……そうだ)
まぶたを開けて、私は思い出した。
昨日の昼、トイレでこの身体に来てから——いや、その前の、元の世界の夕食前から数えれば、私はもう、丸一日近く、何も食べていない。気絶したフリで運ばれ、医者をやり過ごし、夜は緊張で眠り——食事をする「タイミング」が、まるで、なかったのだ。
(お腹、すいた……)
切実だった。世界の命運がどうとか、病がどうとか、二つの月がどうとか、そういう壮大な話の前に、私の胃袋は、極めて正直に、極めて人間的に、訴えていた。
なんか食べたい。あったかいものが、食べたい。
(これ以上、寝たフリしてたら……飢え死にする)
もう、限界だった。気絶を続けるのも、健康な令嬢を演じる準備をするのも、全部、空腹の前には無力だった。
えーい、ままよ。
幕は、もう、上がってしまっている。
私は、覚悟を決めた。
ちょうど、部屋の扉が、控えめにノックされた。
「お嬢様……? おはようございます。お加減は、いかがですか……?」
昨日の、栗色の侍女の声。
私は、ベッドの上で、ゆっくりと身を起こし——そして、できる限り、不安げで、心細げな、迷子の子供のような表情を作った。三年間の演劇部生活の、集大成だ。
扉が、そっと開く。
侍女と、目が合う。
私は、震える声で、言った。
「……あの。突然、こんなことを言って、ごめんなさい。でも——」
一拍、置いて。
「あなたは……誰、ですか? ここは、どこ? わたし……わたしの名前も、何も……何も、思い出せないんです」
言ってから、ぐぅう、と、もう一度、盛大にお腹が鳴った。
……完璧な悲劇のシーンに、台無しの効果音である。
けれど、それがかえって良かったのかもしれない。
侍女は、一瞬、ぽかんと口を開け——それから、ぼろぼろと、涙をこぼした。
「お嬢様……! お腹が、お空きなんですね……! ああ、すぐ、すぐにお食事をご用意します! 記憶のことは——っ、そ、それは、お医者様の言った通り…とにかくもう一度……でも、まずは、まずはお食事を!」
ばたばたと駆け出していく侍女の背中を見送りながら。
私は、ベッドの上で、ひとり、思った。
(……とりあえず)
(ごはんに、ありつけそうだ)
異世界転生、二日目。
壮大な運命も、世界の命運も、まだ何も知らないまま。
私の戦いは、空腹との戦いから、幕を開けた。




