薔薇の庭で
それは、思いがけない形で、訪れた。
ある日、私のもとに、一通の招待状が届いた。差出人を見て、息が止まりそうになる。
イザベラ王女。
(……また、王家から)
今度は、お茶会への正式な招待だった。王城ではなく、街外れの小さな離宮。ごく内輪の集まり、と記されている。
罠かもしれない。エマの一件のあとだ。警戒すべきだ。それに——。
(……お父様の、言葉)
ふと、父のあの必死な顔がよぎった。「王妃殿下には、決して深く関わるな」と。私は「気をつけます」と、答えた。
でも、今、父は領地の視察で屋敷を空けている。しばらく帰らない。相談も、できない。
(……お父様が、いたら。きっと、止められる)
わかっている。これは、危険なことだ。父との、約束にも、反する。
でも。
(……それでも)
私は、イザベラのことを知りたかった。なぜ私を憎むのか、何が彼女を変えたのか。本当に、闇に蝕まれているのか。確かめるには、向き合うしかない。それに——王女からの招きを、伯爵令嬢が、何度も無下にはできない。下手に断れば、かえって、家に、累が及ぶかもしれない。
(……ごめんなさい、お父様。でも、行かなきゃ)
ピピとフェンに、そっとついてきてもらうことにして。私は、招待を受けることにした。せめて、危険がないよう。二匹に、守ってもらいながら。
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離宮の庭は、静かだった。
手入れされた薔薇が、咲き乱れている。その中央に、ぽつんとテーブルがひとつ。そこに、彼女は座っていた。
燃えるような、赤い髪。紅い瞳。深紅のドレス。イザベラ王女。
「来たのね。シルヴィア」
その声は、お茶会のときと同じ。冷ややかで、酷薄で。けれど、どこかひどく疲れているようにも聞こえた。
「お招き、ありがとうございます。イザベラ王女殿下」
私は、淑女の礼をして、向かいに座った。精霊士の感覚を、研ぎ澄ませる。
(……やっぱり)
彼女のまわりにも、あの黒い靄が。うっすらとまとわりついていた。王妃のときほど濃くはない。でも、確かに。彼女の心は、少しずつ蝕まれかけている。
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「先日は。あなたの侍女が、大変だったみたいね」
イザベラが、優雅に、ティーカップを傾ける。
(……他人事みたいな、言い方)
その言い方に、ひっかかった。まるで、自分は関係ない、ただの噂話、とでも言いたげな。本当に、自分がさらわせたのなら。こんな、しらじらしいことを、言うだろうか。
「……エマを、さらわせたのは。あなたでは、ないのですか」
私が、まっすぐ問うと。イザベラの眉が、ぴくりと動いた。
「さあ。どうかしら。証拠でも、あって?」
(……っ)
消えた手紙。彼女はそれを知っている? それとも、ただのはったり?
「ふふ。証拠もないのに、王女を疑うなんて。ずいぶん、無礼なのね」
イザベラは、嗤った。けれど、その瞳の奥に。一瞬、何か別の色がよぎった気がした。戸惑いのような。あるいは、彼女自身も何が起きたのかよくわかっていない、ような。
(……この人、もしかして)
自分のしたことの結末を、本当には把握していないんじゃないか。誰かに侍女をさらわせた。でも、その後どうなったのか。気づけば人身売買の隠れ家にいて、証拠の手紙も消えていて。彼女自身、わけがわからないまま、なんじゃ。
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「……ねえ、シルヴィア。あなた、本当に、覚えていないの?」
ふいに。イザベラの声が、低くなった。
「わたくしたちが。昔、どんなふうだったか。何があったのか。……全部、忘れたって言うの?」
(……っ)
その声に。初めて。冷ややかさ以外の、何かが、滲んだ。
悲しみ。怒り。そして——裏切られた、ような。深い、痛み。
「……はい。記憶を、失っていて。昔のことは、ほとんど」
「……そう」
イザベラは、目を伏せた。長い睫毛が、影を落とす。
「いいわね。忘れられて。あなたは全部、なかったことにして。きれいさっぱり忘れて。……わたくしだけが、こうして覚えている」
その言葉には。たしかな、恨みが、こもっていた。でも、それ以上に。
(……寂しさ?)
まるで、置いていかれた子供のような。そんな、響きが、あった。
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(……この人は)
わかってきた。イザベラは、ただ、私を憎んでいるんじゃない。
彼女とシルヴィアの間には、きっと私の知らない濃い過去があった。仲が良くて。そして、何かがあって。シルヴィアは彼女に、ひどいことをしたのかもしれない。あるいは、その逆かも。
どちらにせよ。イザベラは、その過去に。今も、囚われている。深く、傷ついたまま。
なのに、当のシルヴィア(の中身は私だけど)は、記憶を失って全部忘れてしまった。イザベラにとってそれは、自分一人だけが過去に取り残されたような。そんな孤独だったのかもしれない。
(……だから、こんなに)
その傷ついた心に、闇がつけ込んだ。恨みを、寂しさを増幅させて。彼女を少しずつ、呑み込もうとしている。
(……かわいそうな、人)
気づけば、私は。そう、思っていた。
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「……イザベラ王女殿下」
私は、静かに、口を開いた。
「昔のわたしが。あなたに、何をしたのか。わたしは、覚えていません。でも——もし、あなたを、傷つけたのなら。それは、申し訳なく、思います」
イザベラが、はっと、顔を上げた。
「……何よ、それ。今さら、謝るつもり?」
「謝るというより。……知りたいんです。あなたのことを。昔、何があったのか。あなたが、今、何を抱えているのか」
私は、まっすぐ、彼女の紅い瞳を、見つめた。
「あなたは、わたしを憎んでいる。それは、わかります。でも、あなたがそんなに苦しそうなのは。きっと、憎しみだけじゃないんでしょう?」
イザベラの、表情が。揺れた。
仮面が、ほんの一瞬剥がれかけた。その下から覗いたのは。傷ついて、寄る辺のない、一人の少女の顔だった。
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「……黙りなさい」
けれど。次の瞬間。
彼女のまわりの、黒い靄が。ぶわり、と。濃くなった。
「あなたに、わたくしの、何がわかるの。何も、知らないくせに。忘れたくせに!」
イザベラの声が、荒れる。紅い瞳が、暗く濁っていく。闇が、彼女の感情を煽っている。
(……まずい)
「帰って。二度と、わたくしの前に、現れないで。次は——こんなものじゃ、済まないわよ」
その声には、もう。さっきの寂しげな少女の面影はなかった。ただ、闇に煽られた剥き出しの敵意だけ。
私は、立ち上がり、礼をした。これ以上は、刺激するだけだ。
「……失礼します。でも、イザベラ王女殿下。わたしは、諦めません。あなたのことを、知ることを」
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離宮を出て。馬車に揺られながら。私は、深く、息を吐いた。
『……みどり。あの人、こわかったね。最後、すごい闇だった』
「うん。……でも」
私は、窓の外を見つめた。
「最初は、違ったの。寂しそうで。傷ついてて。……本当のイザベラ王女は、きっと、あっちなんだと思う」
『……ほんとの?』
「うん。闇に煽られる前の。傷ついて、誰かに、わかってほしかった。ただの、女の子」
あの、一瞬だけ覗いた、少女の顔が。忘れられなかった。
彼女は、敵だ。私を憎んでいる。次に会えば、もっとひどいことをするかもしれない。
でも。
(……それでも)
あの傷ついた心を、見てしまった以上。ただ敵として退けることなんて、できそうになかった。
いつか。彼女の、心を。あの闇から、引き戻したい。そして——できることなら。彼女が、一人で抱えている、その過去を。一緒に、ほどいてあげたい。
(……それが、いつになるかは。わからないけど)
馬車は、夕暮れの道を、進んでいく。
薔薇の香りが。まだ、かすかに。私の服に、残っていた。
どこか——泣きたくなるような。そんな、甘く、切ない、香りだった。




