まさか、ね
屋敷に帰り着いたのは、夜もすっかり更けた頃だった。
馬車を降りると、足が鉛のように重い。気疲れと、慣れないドレスと、この弱い身体。三拍子そろって、私はもうくたくただった。
「お嬢様、おかえりなさいませ! ……まあお顔の色が。すぐ、お着替えを。それから、温かいお茶をお淹れしますね」
出迎えてくれたエマの顔を見た瞬間、ほっと、力が抜けた。
(……ああ、帰ってきた)
不思議なものだ。この世界に来て、まだ何日も経っていない。なのにエマのおろおろした優しさが、もう「帰る場所」みたいに感じられている。
着替えを済ませ、寝間着でベッドに腰掛けると、エマが湯気の立つカップを運んできてくれた。
「どうぞ。蜂蜜を少し入れました。お疲れのときは、甘いものが、いちばんです」
ひとくち、含む。
じんわりと、甘い温かさが喉を滑り落ちていく。強張っていた身体の芯が、ゆっくりとほどけていった。
(……生き返る)
夜会の緊張が。イザベラの酷薄な笑みが。王妃の底なしの瞳が。温かいお茶と一緒に、少しずつ溶けていくようだった。
「エマ。……ありがとう」
「そんな。当然のことですよ」
エマは、はにかんで。それから私を寝かしつけると、静かに部屋を出ていった。
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一人になって、ランプの灯りを落とす。
暗がりの中、私はベッドに横たわった。
疲れているのに、なかなか寝つけなかった。今夜の出来事が、頭の中をぐるぐると回っている。
イザベラとの、過去。王妃の寒気。ユリウスの読めない胸の内。
(……情報が、多すぎる)
一つずつ、整理しようとするのに、考えがまとまる前にまた次の疑問が湧いてくる。
そのときだった。
ふと。
胸の、奥の方が——温かくなった。
(……あ)
この感覚。覚えがある。
医者の前で、私を救ってくれた、あの温かさ。鉢植えの鍵へと手を導いてくれた、あの気配。
まただ。また、あの「温かいもの」が、私の中で、灯っている。
たとえるなら——冷えた身体を、誰かがそっと両手で包んでくれているような。「お疲れさま」「よく頑張ったね」と、優しく、労ってくれているような。そんな、温もり。
(……なに、これ)
怖くは、なかった。むしろ、安心する。今夜みたいに気を張りつめた夜の終わりには、この温かさが、じんと心に染みた。
まるで——誰かが、私のことを、ずっと、見守ってくれているみたいに。
(……誰か、が)
ぼんやりと、そう思いかけて。
私の頭の隅で、ふと、何かが、引っかかった。
——見守ってくれている。誰かが。私の中、あるいは、すぐそばで。
(……そういえば)
ヘルガ先生に、習った。歴史の本の、あの章。『失われし、精霊術』。
ずっと昔、この世界には精霊と語り合える人がいた。精霊は、報せを運んだり、傷を癒したり——物語みたいな力を、貸してくれた、と。
(……まさか、ね)
私は、暗がりの中で、自分の考えに、苦笑した。
まさか。この、温かい力が。精霊の、力だなんて。
ありえない。だって、あれは——百年も前に失われた、おとぎ話だ。今は、誰も信じていない伝説。そんなものが、私みたいな、ぽっと来たばかりの転生者に、宿っているわけが——
(……いや、でも)
考えかけて、止まる。
待てよ。そもそも、私の「転生」自体が、ありえないことだった。異世界に飛ばされて。他人の身体に入って。シルヴィアという少女が、私を「選んで」「待っていた」。
そんな、おとぎ話みたいなことが、現実に、起きているのだ。
なら——精霊術が、本当にあったとして。何が、おかしいだろう。
(……いやいや。落ち着け、私)
私は、頭を、振った。
飛躍しすぎだ。温かい力を感じたから即、精霊。それは、短絡的すぎる。証拠は、何もない。ただの気のせいかもしれない。疲れた身体が、生み出した、錯覚かもしれない。
でも——もし。
もし、本当に。この力が、何か、特別なものだったとしたら。
それは——シルヴィアと、繋がっているのかもしれない。あの、鏡の中で、泣きながら笑った、シルヴィアと。
(……シルヴィア。あなた、なの?)
暗がりに、問いかけてみる。
返事は、ない。ただ、胸の奥の温かさが、ほんの少し強くなった——気がした。気のせい、かもしれないけれど。
でも、その温かさは、確かに、言っているようだった。
大丈夫。一人じゃ、ないよ、と。
(……まあ、いいか)
今夜は、もう、考えるのは、やめにしよう。
答えは、出ない。でも、一つだけ確かなことがある。この温かい力は——少なくとも、私を害するものじゃない。むしろ何度も私を助けてくれた。
味方。たぶん、味方だ。正体は、まだわからないけれど。
(……ありがとう。誰だか、知らないけど)
心の中で、そっと礼を言うと。
温かさが、ふわりと、私を包んだ。まるで、子守唄のように。
強張っていた身体から、すうっと、力が、抜けていく。
今夜は——よく、眠れそうだ。
精霊。失われた、伝説の力。
まさか、ね。そう思いながらも。
その「まさか」が、頭の隅に、小さな種のように残ったまま。
私は、深い眠りへと落ちていった。




