読めない、幼馴染
深い青の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
そう気づいた次の瞬間には、もう、ユリウスは歩き出していた。人混みを、ゆったりと縫って、こちらへ。
(……来る)
反射的に、身構えた。
イザベラに「過去の因縁」を匂わされた、直後だ。頭の中は、まだ整理がついていない。シルヴィアと、あの王女の間に、何があったのか。考える材料すら、ない。そんなときに、もう一人の「読めない人物」が、近づいてくる。
「シルヴィア」
目の前に立ったユリウスは、声を落として、私の名を呼んだ。
「少し、顔色が悪い。……人が多くて、疲れただろう。あちらに、風の通る場所がある。よければ」
そう言って、彼は、ごく自然に、私を会場の端へと、促した。
(……あ。これ)
強引さは、まるでない。なのに、気づけば、私はイザベラのいた中央から、すっと、引き離されていた。さりげなく。本当に、さりげなく。
(……また、助けられた?)
フレデリカのときと、同じだ。気づいたときには、もう、危ない場所から、遠ざけられている。違うのは——フレデリカが、つんけんしながらだったのに対して。ユリウスのそれは、あくまで、穏やかで、優しいこと。
バルコニーに近い、人気の少ない一角。夜風が、火照った頬に、心地よかった。
「……ありがとう、ございます」
私は、礼を言った。半分は、演技。でも、半分は、本心だった。正直、あの場は、息が詰まっていたから。
「いや。君が、無事ならいい」
ユリウスは、静かに、微笑んだ。
その横顔を、私は、そっと、うかがった。
(……この人なら)
ふと、思う。
ユリウスは、シルヴィアの、幼馴染み。それも、相当に長い付き合いのはず。なら——シルヴィアと、イザベラの「過去」も、知っているかもしれない。
探りたい。喉まで、出かかった。「わたしと、イザベラ様の間に、何があったの?」と。
でも——聞けない。
記憶喪失の令嬢が、いきなりそんなことを尋ねたら、不自然すぎる。それに、もし「過去の因縁」が、シルヴィアにとって、よほど都合の悪いことだったら? ユリウスに尋ねることで、藪をつついて、蛇を出すことになるかもしれない。
(……どう、切り出せば)
私は、慎重に、言葉を、選んだ。
「あの……ユリウス様」
「うん?」
「先ほど、イザベラ王女殿下と、お話を、したのですけれど」
その名を出した瞬間。ユリウスの、穏やかな表情が、ほんのわずかに、引き締まった。
「……何か、言われたか」
「いえ。その……わたし、記憶を、失くしているでしょう。だから、王女殿下と、以前、どんな……お付き合いが、あったのか。よく、思い出せなくて」
遠回しに。できる限り、自然に。「過去」を、探る。
ユリウスは、しばらく、黙っていた。
深い青の瞳が、何かを、考えるように、揺れる。「どこまで、話すべきか」を、量っているような。そんな、間。
(……やっぱり、何か、知ってる)
その沈黙が、何よりの、答えだった。シルヴィアとイザベラの間には、確かに、何かがある。そして、ユリウスは、それを知っている。
でも。
「……今は」
ユリウスは、静かに、首を振った。
「無理に、思い出さなくていい。思い出せないことを、誰かに、利用されないように。それだけ、気をつけてくれればいい」
(……利用、されないように)
はぐらかされた。けれど、ただ、はぐらかされたんじゃない。彼は、明らかに、私を、案じている。「過去」を話さないのも——たぶん、それが、私のためにならないと、思っているから。
(……読めない、人だなあ)
優しいのは、わかる。誠実なのも、わかる。でも、その優しさの、芯にあるものが、見えない。なぜ、ここまで、シルヴィアを——いや、今の「わたし」を、気にかけるのか。
その、ときだった。
ユリウスが、ふと、私を、じっと、見た。
あの、見舞いに来てくれたときと、同じ。絵の細部を確かめるような。深い青が、私の奥を覗き込もうとする、まなざし。
「……君は」
彼が、何か、言いかけて。
(……っ。また、この目)
見抜かれている。そう、感じた。記憶喪失とは、別の「何か」を。中身が、入れ替わっていることを——この人は、たぶん、感づいている。
心臓が、嫌な音を、立てた。
けれど、ユリウスは。結局、その先を、言わなかった。
ただ、ふっと、目元を緩めて——こう、続けた。
「いや。……変わったな、と、思っただけだ。前より、ずっと」
「……変わった、ですか」
「ああ。悪い意味じゃ、ない。むしろ……」
そこで、彼は、言葉を、切った。何か、言いかけたものを、飲み込むように。
「……いや。なんでもない。忘れてくれ」
(なに、それ)
気になる。猛烈に、気になる。「むしろ」の、続きが。
でも、聞けるはずも、なかった。
ユリウスは、軽く、咳払いをして、表情を、戻した。そして、最後に——声を、いっそう、低めて、言った。
「シルヴィア。一つだけ。……イザベラ王女には、気をつけてくれ」
(——っ)
「あの方は……敵に回すと、厄介だ。君のように、後ろ盾の弱い立場の者ほど、狙われやすい。決して、油断しないように。一人で、抱え込まないで……困ったら、僕を、頼ってくれ」
その声には、本物の、緊張が、あった。社交辞令の、忠告じゃない。心から、私の身を、案じている。それが、伝わってきた。
「……はい。ありがとう、ございます」
私は、頷いた。
ユリウスの「気をつけて」は、わざわざ言うほどのこと。つまり——イザベラは、本当に、危険な相手なのだ。私の、直感は、間違っていなかった。
ユリウスは、それ以上は、何も言わず。「では、また」と、静かに、立ち去っていった。
残された私は、夜風の中で、一人、考え込んだ。
(……結局、過去のことは、聞き出せなかった)
でも、収穫は、あった。
一つ。シルヴィアとイザベラの間には、確かに「過去」がある。
二つ。それは、ユリウスが言葉を濁すほど、込み入った何か。
三つ。イザベラは、ユリウスが警告するほど、危険な人物。
そして——もう一つ。
(ユリウス・グランツ、っていう人が……いちばん、わからない)
優しくて、誠実で。私を、助けて、気遣って、忠告までしてくれる。なのに——その奥に、何かを、隠している。「むしろ」の続きを、飲み込んだ、あの顔。そして、私の「変化」を、見抜いているような、あの、深い青の瞳。
味方なのは、たぶん、間違いない。
でも——この人が、何を考えているのか。それだけは、どうしても、読めなかった。
(……ほんと、濃い夜だなあ)
私は、夜空を、見上げた。
二つの月が、王城の上に、静かに、浮かんでいる。
今夜一晩で、知らないことが、増えすぎた。イザベラとの過去。王妃の寒気。そして、ユリウスの、見えない胸の内。
謎が、謎を、呼んでいく。
(……一つずつ、だ)
私は、ドレスの下の、暗号の手帳の感触を、確かめた。
焦っても、仕方ない。一つずつ、解いていく。それしか、ない。
今夜は、もう、十分すぎるほど、働いた。
早く、帰って——休みたい。エマの淹れてくれる、温かいお茶が、無性に、恋しかった。




