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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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エピローグ:『予感』

 三十本の太い竹串によって縫い留められた、哀しきキャッチャーミット。

 学園の敷地全体をキャンバスにして描かれた、時速百四十三キロのストレートが飛び交う巨大な『野球のダイヤモンド』の全貌が、僕たちの手によって解き明かされてから、数日の時間が経過していた。


 月見坂市が管理するスマートシティのネットワークカレンダーは、滞りなく日常のスケジュールを更新し続けている。

 如月学園の中央グラウンドでは、来月に迫った文化祭の準備がさらに本格化していた。あの日の夜、僕たちが懐中電灯の光を頼りに歩いた暗いテントの裏側も、今では完全に整地され、クラスの出し物で使う色鮮やかなベニヤ板や、模擬店の看板が無造作に立て掛けられているはずだ。

 誰の目にも触れることなく、誰にもその真の質量を理解されることのないまま、あの天才投手が血を吐くような思いで泥濘に突き刺した祈りの彫刻は、無邪気な文化祭の喧騒という分厚い地層の下へと、完全に埋もれていった。

 彼らバッテリーの幻のラストゲームは、僕と如月さんの脳髄の中にだけファイリングされたまま、永遠の静寂という名のゲームセットを迎えたのだ。


 そして今日。

 放課後のチャイムが鳴り終わると同時に、僕は逃げるようにして自分の教室を飛び出し、学園の最北端に位置するこの場所へと足を運んでいた。


 すべての喧騒から切り離された、旧校舎の二階の奥。

 本来ならば誰も立ち入ることのない、埃を被った忘れ去られた空間。

 しかし、重厚な木製の扉を押し開けた先に広がっているのは、廃墟のそれとは対極にある、あまりにも洗練された、そして孤高の静謐が支配する極上の『聖域』だった。


 西日に照らされた旧校舎の図書室。

 空気中を漂う微細な埃が、窓から差し込む斜光を乱反射して黄金色の帯を作っている。

 その光の帯の真ん中に鎮座しているのは、この薄暗い図書室にはおよそ似つかわしくない、磨き上げられたアンティークのマホガニーのテーブルだ。さらにその周囲には、最高級の革張りのソファや、精緻な彫刻が施された木製のキャビネットが、まるで最初からそこにあったかのように極めて自然なレイアウトで配置されている。

 すべて、如月コンツェルンの令嬢である彼女が、どこからか勝手に持ち込み、この図書室を自らの『鑑定の拠点』とするために設えさせたものだ。


 僕は、その革張りのソファの端に深く腰を沈め、手元のスマートフォンを無意識にいじっていた。

 画面には、SNSのタイムラインや、新作ゲームのアップデート情報、さらには月見坂市のローカルニュースのヘッドラインなどが、次々とスクロールされては消えていく。

 僕はそれらのデジタルな文字列を無心で目で追いながらも、意識の半分は、目の前のマホガニーのテーブルから立ち昇る、芳醇で上品な香りに向けられていた。


 テーブルの中央に置かれた純白の磁器のティーポットからは、微かな湯気と共に、彼女が勝手に持ち込んだ最高級の茶葉——ダージリンの深く甘い香りが、図書室の古い紙の匂いと混ざり合いながら静かに漂っている。

 カップに注がれた琥珀色の液体は、西日を受けて宝石のように透き通っていた。

 テーブルの上には、ただ洗練されたティーセットだけが、一切の無駄を省いた完璧な配置で置かれている。


 そして、そのテーブルの向かい側。

 革張りの一人掛けソファに深く腰を下ろし、優雅に足を組んでいるのは、この絶対的な静寂の支配者である如月瑠璃だった。


 漆黒のロングストレートヘアが、西日を受けて艶やかな光の輪を作っている。

 彼女は、紅茶のカップにはまだ手をつけず、純白のシルク手袋に包まれた両手で、自らの神聖な観測機器たちのメンテナンスを静かに行っていた。

 柔らかなベルベットの布を取り出し、精緻な植物の蔦の意匠が彫り込まれた『銀のルーペ』のレンズを、寸分の曇りも許さないという手つきで丹念に磨き上げる。続いて、あの泥濘の特異点で世界を三次元グリッドに塗り替えた『銀の懐中時計』の蓋を開き、秒針の狂いがないかを冷徹なアメジストの瞳で確認する。

 最後に、古い革の手帳を開き、黒光りする万年筆のペン先を滑らせて、彼女の脳内にだけ存在する『事象のルーツ』の記録を、滑らかなインクの軌跡として物理的に定着させていく。


 カリ、カリ、という硬質なペン先の音が、図書室の静寂に心地よいリズムを刻んでいた。


 僕は、スマートフォンをスクロールする手を止め、その孤高の令嬢の美しすぎる所作を、ただぼんやりと眺めていた。

 他者の感情に共感することはなく、傷ついた人間を救済しようという安い正義感も持ち合わせていない。ただ、ありえない場所に置かれたありえないモノのルーツを探り、対象の物理的な質量を正確に観測することだけに全存在を懸ける、極端に偏った天才。

 僕と彼女の間にあるのは、あくまで『絶対的な観測者たる主』と、『その観測を補佐し、時に凡庸な感情論で論破されるための下僕』という、強固で冷徹な主従関係だけだ。


 それでも僕は、あの泥濘のグラウンドで、彼女が巨大なダイヤモンドの謎を完全に解き明かした瞬間、間違いなく一つの真理に到達したのだという、恐ろしいほどのカタルシスを共有した。

 僕のタブレットが描き出したデジタルの俯瞰図と、彼女の銀のルーペが捉えた物理的な質量。その二つが完全に噛み合った瞬間、僕はただの凡人から、天才の隣に立つことを許された唯一の助手へと昇華されたような誇らしさを感じていたのだ。


(……僕のデジタル技術も、あの時は完璧に役に立ったもんな)


 僕は、手元にあるスマートフォンの滑らかなガラス画面を指の腹で撫でながら、心の中で密かに胸を張った。

 空間の幾何学の証明。犯人の特定。情報収集。

 すべて、僕のガジェットを駆使したネットワークへのアクセス能力があったからこそ、あそこまで迅速に導き出せた結果だ。物理的なモノのルーツを辿る彼女の能力は確かに人間離れしているが、現代のスマートシティにおいて、僕の持つデジタルの力は、もはや彼女の観測を補佐するための必須の『三脚』として機能しているはずだ。


 僕はそんな自負を抱きながら、再びスマートフォンの画面に目を落とし、ニュースアプリのタイムラインを親指で弾いた。

 と、その時だった。


「サクタロウ」


 万年筆の走る音がピタリと止まり、図書室の静寂を切り裂いて、如月さんの凛とした声が響いた。

 僕は弾かれたように顔を上げ、スマートフォンの画面から視線を外した。


「はい、如月さん」


 如月さんは、革の手帳を静かに閉じ、万年筆のキャップをカチリと音を立ててはめた。

 そして、純白の手袋に包まれた両手をテーブルの上で優雅に組み、その深く透き通ったアメジストの瞳で、僕の手元——正確には、僕が握りしめているスマートフォンを、極めて冷ややかに、しかし射抜くような鋭さで見据えた。


「お主は、ここへ来てからずっとその薄っぺらいガラスの板ばかりを撫で回しておるな。……あのグラウンドの泥濘で、自らの指で図面を引き、事象の真理にわずかに触れたというのに、まだそのような質量のない電子の海に思考を浸しておるのか」


「えっ……いや、これはただの暇つぶしというか、情報の整理で……」


 僕は慌ててスマートフォンを隠そうとしたが、彼女の視線はそれを許さなかった。

 如月さんは、薄い唇の端を微かに吊り上げ、僕の凡庸な慢心を完全に底まで見透かしたような、冷ややかな笑みを浮かべた。


「デジタルによる俯瞰。ネットワークによる検索。確かに、現代というノイズに満ちた社会において、それは効率的な海図として機能するじゃろう。あの夜、お主のその板切れが、わしの物理観測の時間を短縮させたことは事実じゃ」


 彼女は、肯定の言葉を口にしながらも、その声の温度を徐々に絶対零度へと下げていく。


「だが、思い違いをするな、サクタロウ。お主の頼るそのデジタル情報は、どこまでいってもゼロとイチの羅列に過ぎぬ。電源が落ちれば消滅し、ネットワークが遮断されれば何の意味も持たなくなる、極めて脆弱な『虚像』じゃ」


 彼女は、テーブルの上に置かれた自身の銀の懐中時計と、銀のルーペを、純白の指先で愛おしむように静かになぞった。


「真のルーツとは、常に絶対的な『物理の質量』の中のみに宿る。あの三十本の竹串が牛革を貫いた抵抗。大地に染み込んだ百十五ジュールの運動エネルギー。それらは、いかなる通信障害が起きようとも、決してこの三次元空間から消え去ることのない、絶対的な『事実』じゃ。……それに引き換え、お主はどうじゃ」


 如月さんのアメジストの瞳が、僕の脳髄の奥底にまで冷たく突き刺さる。

 それは、ただの忠告ではない。

 僕が自らのガジェットに抱いている絶対的な信頼の根幹を揺るがす、恐ろしく重い、一つの『問いかけ』だった。


「デジタルに頼ってばかりおると、それが無くなった時に、お主はどうする?」


「……えっ」


 僕は、言葉に詰まった。

 それが無くなった時。

 もし、僕のスマートフォンが壊れたら。タブレットの電源が入らなくなったら。このスマートシティのネットワークから完全に切り離され、膨大なデータベースへのアクセス権を失ってしまったら。


 僕は、どうやって世界を観測すればいいのだろうか。

 ガジェットを持たない僕は、ただの無力で、何も知らない、本当の意味での『愚鈍な凡人』に逆戻りしてしまうのではないか。


 背筋に、得体の知れない冷たい汗が伝うのを感じた。

 彼女のその言葉は、単なるアナログ主義者の偏見ではない。

 いつか必ず訪れるであろう、僕の存在意義そのものを根底から試すような『絶望的な観測の途絶』を、あらかじめ予言しているかのような、強烈な響きを持っていた。


 僕が手元のスマートフォンを握りしめたまま完全に硬直していると、如月さんは僕のその無様な反応に満足したのか、ふんと小さく鼻を鳴らした。

 そして、純白の磁器のカップを優雅に持ち上げ、琥珀色のダージリンを一口だけ、静かに口に含んだ。


「まあよい。お主のその脆弱な三脚が使い物にならなくなった時は、わしが再び、物理の絶対座標から真理を引っぱり出してやるまでのことじゃ。お主はせいぜい、その薄っぺらい板切れが粉々に砕け散る日まで、わしの後ろで震えながら下僕として務めるがよい」


 それは、僕を下僕として扱いながらも、彼女なりの最高にひねくれた『助手としての存在証明』の言葉だった。


 僕は、強張っていた肩の力を抜き、小さくため息を吐いた。

 やっぱり、僕はこの孤高の令嬢には一生勝てない。

 彼女の圧倒的な物理的観察眼と、対象のルーツを解き明かすための情動の視座。その絶対的な美学の前では、僕のデジタルの技術など、ほんの少し彼女の歩みを早めるための便利な道具に過ぎないのだ。


「はい、如月さん」


 僕がスマートフォンをポケットにしまい、背筋を伸ばしてそう答えると、如月さんはカップをソーサーに静かに置き、テーブルの上の銀のルーペを再びその手に取った。

 西日が、純銀の蔦の意匠をギラリと美しく反射させる。

 彼女のアメジストの瞳に、新たな事象のルーツを求める、猛禽類のような鋭い知的好奇心の光が宿った。


「さあ、次のありえないルーツを探すとするかの」


 如月瑠璃の気高く、そして冷徹な宣告が、西日に満ちた図書室の静寂に凛と響き渡る。


 月見坂市のどこかで、またしても物理の法則を無視した『ありえないモノ』が、彼女の冷酷で美しい観測のメスを待っている。

 僕たちの、終わりのない事象解体の旅は、まだ始まったばかりだ。

 僕は、天才の傍に立つ凡庸な下僕として、次なる謎の質量に立ち向かう覚悟を決め、静かに目を閉じた。



~如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』 fin~



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