第4話『祈り』 ~section10:日常への帰還と、巨大なダイヤモンドの残影~
分厚い合成樹脂のキャンバス生地が作り出していた暗黒の死角を抜け、テントの側面を回り込んだ瞬間。
暴力的なまでの光と音の奔流が、僕の全身を容赦なく打ち据えた。
煌々と夜の闇を白日のように焦がす、幾つもの巨大なバルーン投光器。
その暴力的な光量の下で視界を埋め尽くしているのは、来月に迫った文化祭の準備に熱中する何百人もの生徒たちの群れだ。クラスの出し物のゲートを作るために鉄パイプの足場を組み上げる者、巨大なブルーシートの上にベニヤ板を並べて原色のペンキを塗りたくる者、あるいは台車に山積みの段ボールを乗せて大声で道を空けるように叫びながら駆け抜けていく者。
僕の鼓膜には、彼らの無邪気で活力に満ちた笑い声や、作業の手順を巡る他愛のない口論、スピーカーから流される流行の音楽、そして投光器の発電機が発する絶え間ない重低音が、巨大な一つの『ノイズの塊』となって雪崩れ込んでくる。
鼻を突くのは、アクリル塗料の強烈なシンナー臭と、切り出されたばかりの木材の匂い、そして大勢の人間が発する熱気と汗の入り混じった、むせ返るような日常の匂いだった。
ほんの数メートル、たった一枚のテントの布地を隔てていただけなのに、ここには完全に別の世界が広がっていた。
僕は、泥水で重くなったローファーを引きずりながら、あまりの温度差と情報量の多さに眩暈を覚え、思わず顔をしかめて目を細めた。
つい数十秒前まで僕が立っていた、あの絶対的な静寂。三十本の竹串によって大地に縫い留められたキャッチャーミットと、そこに込められた孤独な天才投手の祈りの質量が、まるで僕の見ていた幻覚であったかのように思えてくるほどの、圧倒的で無遠慮な『生』のエネルギー。
しかし、僕の数歩前を歩く如月瑠璃の背中には、いかなる戸惑いも、この極彩色の喧騒に対する不快感すらも存在していなかった。
彼女は、最高級の革で仕立てられた純白の靴が泥でどす黒く汚れきっていることなど一切気にかける素振りも見せず、完璧に真っ直ぐな姿勢を保ったまま、夜風に漆黒のロングストレートヘアを揺らして堂々と歩みを進めている。
両脇を忙しなく駆け抜けていく実行委員の生徒たちも、長尺の木材を抱えて歩く男子生徒たちも、まるで不可視の物理的な力場に弾かれるかのように、彼女の歩く進路だけは自然と、そして完璧に道を空けていた。彼女が放つ、対象のルーツを完全に解明し終えた絶対的な観測者としての気高いオーラが、この無秩序な喧騒の中にあって、彼女の周囲にだけ触れてはならない神聖な真空地帯を作り出しているかのようだった。
「……如月さん」
僕は、周囲の喧騒に掻き消されないよう、少しだけ声を張って彼女の背中に呼びかけた。
彼女は歩みを止めることなく、ただ薄い唇を微かに動かして応じた。
「なんじゃ、サクタロウ。泥濘でひどく体力を消耗したかのような足取りじゃな。それとも、急激なデシベルの変化に三半規管でも狂わせたか」
「いえ……そういうわけじゃ、ありません」
僕は首を横に振り、目の前で台車を押しながら笑い合っている別のクラスの生徒たちの姿を見つめた。
僕の頭の中には、すでに巨大な野球盤の図面はない。タブレットのデータは完全に消去した。謎解きは終わったのだ。それでも、この圧倒的な日常の風景を見ていると、どうしても抑えきれない凡庸な感情が胸の奥に湧き上がってくる。
「ただ……なんだか、残酷だなって思ったんです」
僕は、自分の靴底にこびりついた泥がアスファルトに落ちる音を聞きながら、ポツリとこぼした。
「彼らはみんな、こんなにも楽しそうに、未来に向けて一生懸命準備をしている。でも、その足元には、あの天才投手が時を止めようとした祈りが埋まっているんですよね。……彼らは何も知らないまま、誰かの終わってしまった大切な時間を、こうして上書きして踏み荒らしていく。それが、なんだかひどく残酷で、切ないことのように思えてしまって」
助手として、すべてを知ってしまったがゆえの特権的な感傷。
僕は、そんな安いメロドラマの主人公のようなセリフを口にしてしまった。
すると、僕の数歩前を歩いていた如月さんは、ピタリと足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返り、冷ややかなアメジストの瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。
周囲の喧騒が一瞬、遠のいたように感じられるほどの、絶対零度の眼差しだった。
「やはり、お主は救いようのない愚鈍じゃな、サクタロウ」
彼女の口から紡がれたのは、僕の感傷を木端微塵に粉砕する、容赦のない宣告だった。
「残酷じゃと? 切ないじゃと? ……自らの凡庸な感情というフィルターを通して、勝手に世界に意味づけを行うな。それは、お主が先ほどまでテントの裏で抱いていた『復讐劇』という誤謬と何ら変わらぬ、極めて傲慢な視点じゃ」
「傲慢……ですか?」
「左様。彼らが何も知らないからといって、彼らの行為が『誰かの時間を踏み荒らす残酷なもの』だと断定するのは、単なるお主の主観的なノイズに過ぎぬ。……物理法則において、このグラウンドという同一の三次元座標には今、全く異なる二つの『波長』が同時に存在しておるのじゃよ」
如月さんは、純白の手袋で自身の前髪を気高く払い除け、周囲で騒ぐ生徒たちを冷徹な視線で見渡した。
「一つは、来月の文化祭という未来に向かって進んでいく、彼らの高揚感と活力という波長。もう一つは、あの泥濘の奥底に縫い留められた、過去の時間を永遠に固定しようとする、極めて重く静かな祈りの波長。この二つの波長は、周波数が全く異なるがゆえに、互いに干渉し合うことはない。彼らがテントを建てようが、ペンキを塗ろうが、あのミットに込められた百十五ジュールの運動エネルギーが損なわれるわけではないのじゃ」
彼女の言葉は、感傷の入り込む隙間を一切与えない、極めて数学的で美しい事実の羅列だった。
「彼らは彼らの質量を持ち、あの投手はあの投手の質量を持っておる。どちらが正しくて、どちらが残酷かなどという倫理的な序列は、物理の世界には存在せぬ。ただ、同じ座標に異なる事象が重なり合って存在しているという、それだけのことじゃ」
如月さんは、僕の目を再び真っ直ぐに見据えた。
「我々観測者の役割は、どちらかに感情移入して嘆くことではない。重なり合ったレイヤーの奥底に潜む『ルーツ』を正確に計測し、ただそれを一つの事実として脳髄にファイリングすることのみ。お主も、あの泥濘の中でデータの消去という行為を選択した以上、余計な感傷で彼らの聖域を汚すのはやめるのじゃな」
「……はい」
僕は、深く息を吐き出し、自らの浅はかさを恥じて頷いた。
如月さんの言う通りだ。僕が『切ない』と同情することすら、あの孤独な天才投手にとっては不要なノイズでしかない。彼の祈りは、誰に知られずとも、誰に踏まれようとも、すでにあの暗闇の中で永遠の質量として完成しているのだから。
僕が顔を上げると、如月さんはすでに踵を返し、再び前を向いて歩き出していた。
僕たちは、熱気に包まれたテント村のメインストリートを抜け、グラウンドの端へと到達した。
足元の感覚が、完全に硬く乾いたアスファルトの舗装路へと変わる。
バルーン投光器の暴力的な光はここまで届かず、月見坂市の高度なネットワークが制御する無機質なLED街灯だけが、等間隔に青白い光の円をアスファルトに落としている。
背後から聞こえていた文化祭の準備の喧騒は、距離が離れるにつれて急速に輪郭を失い、やがて夜の冷たい空気の中に完全に溶けて消滅した。
代わりに僕たちの耳を打つのは、規則正しい自分たちの足音と、学園の敷地を吹き抜ける乾いた夜風の音だけだ。
僕たちは、学園の最北端、すべての喧騒から切り離された『旧校舎』へと向かって、静かなアプローチを歩き続けた。
見上げれば、旧校舎の古びたコンクリートの外壁が、闇の中に黒々とした巨大な墓標のようなシルエットを描いてそびえ立っている。
スマートシティの最新設備が整った新校舎群とは対極にある、歴史と埃にまみれた静寂の塔。
僕たちの、異常配置のルーツを巡る過酷な観測の旅が終わった。
明日になれば、僕はまた普通の高校生として授業を受け、文化祭の準備に駆り出されるだろう。如月瑠璃もまた、如月コンツェルンの令嬢としての完璧な仮面を被り、誰とも交わることなく孤高の時間を過ごすはずだ。
だが、僕の脳の奥底には、彼女と共に観測したあの強烈な質量の記憶が、消えることのない明確な傷跡として刻み込まれている。
旧校舎の重厚なエントランスの前に差し掛かった。
如月さんは、歩みを緩めることなく、その純白の手袋で重いガラス扉を押し開けた。
ギィィ、という軋むような蝶番の音が、誰もいない旧校舎の冷たく淀んだ空気に吸い込まれていく。
僕たちは、外界の光と音、そして巨大な哀しいダイヤモンドの残影のすべてを背中に置き去りにして、僕たちだけの絶対的な拠点である、あの『二階の図書室』へと帰還するための暗い階段を、ゆっくりと上り始めた。




