第4話『祈り』 ~section9:サクタロウの葛藤と、終戦の静寂~
暗いテントの裏側。
分厚い合成樹脂のキャンバス生地が、まるで世界の境界線を引くようにそびえ立つ泥濘の特異点に、僕はただ一人、ポツンと取り残されていた。
数歩先には、対象のルーツを完全に解明し終え、一切の未練を見せることなく背を向けて歩き出した如月瑠璃の気高い後ろ姿がある。
スカートの裾が夜の冷たい空気を切り裂き、泥水で汚れた最高級の靴が、ジュルリ、ジュルリと規則的な足音を立てて暗闇の奥へと吸い込まれていく。彼女の歩みには、この異常な空間に対する恐怖も、狂気的な見立てを実行した犯人への哀れみも、いかなる感情の揺らぎも存在していなかった。
ただ、『観測は終了した』という絶対的な事実だけを背中で語りながら、彼女は僕を置いて遠ざかっていく。
僕の右手に握られた金属製の懐中電灯だけが、今もなお、足元の泥濘を鋭く白日の下に晒し続けていた。
光の円の中心に鎮座しているのは、三十本の太い竹串によって大地に完全に縫い留められた、黒光りする分厚いキャッチャーミット。
時速百四十三キロのストレート。その運動エネルギーと回転軸を、寸分の狂いもなく三次元空間に固定した、狂気的で、そしてあまりにも哀しい『祈り』の彫刻。
僕は、その無惨に引き裂かれた牛革の表面と、空中に向かって放射状に突き出している竹串の群れを見下ろしたまま、激しい葛藤に苛まれていた。
(……本当に、このまま放置して立ち去っていいのだろうか)
僕の胸の奥底で、ごく普通の高校生としての凡庸な『常識』と『正義感』が、警鐘を鳴らし続けていた。
学園の敷地内に勝手に忍び込み、南棟の音楽室にバットを置き、北の体育館のキャットウォークに滑車を吊るし、そして文化祭の資材置き場の裏で、他人のミットを串刺しにして泥に埋める。
これは、どう贔屓目に見ても明らかなルール違反であり、明確な器物損壊という犯罪行為だ。
明日になれば、あるいは明後日になれば、文化祭の準備を進める実行委員会の生徒たちか、見回りをする教師の誰かが、確実にこの異常なオブジェを発見するだろう。
その時、学園はちょっとしたパニックに陥るはずだ。
得体の知れない猟奇的な嫌がらせだとして警察が呼ばれるかもしれないし、犯人探しが始まるかもしれない。
僕の手元にあるタブレット端末には、学園全体を使った巨大なダイヤモンドの図面データと、この見立てを実行した『エース投手』の個人情報が完全に揃っている。今すぐこれを匿名のメールで教師に送りつけるか、あるいは生徒会の目安箱にでも放り込めば、事件はすぐに解決する。
犯人である天才投手は呼び出され、厳しく叱責され、グラウンドを荒らした罰を受けることになるだろう。
それが、社会における『正しい』解決のプロセスだ。
異常なものを見つけたら報告し、ルールを破った者を正し、秩序を回復する。僕のような凡人が生きる世界では、それが絶対的な正義なのだ。
(でも……)
僕は、懐中電灯を持つ手にギュッと力を込めた。
先ほど、如月さんが僕に向かって放った冷徹な宣告が、脳髄に深く突き刺さって離れない。
『教師や一般の生徒たちは、この三十本の竹串が時速百四十三キロのストレートの軌道であることなど、決して理解できぬ。彼らの濁った眼には、これがただの不気味な悪戯としてしか映らない』
その通りだ。
もし僕がこの事実を報告すれば、どうなるか。
大人たちは、このミットに込められた百十五ジュールの運動エネルギーを計算することなど絶対にしない。この三十本の竹串が、ポケットの中心に向かって完璧な角度で収束しているという幾何学の美しさに気づくこともない。
彼らはただ、『気味が悪い』『危ない』という表面的な感情だけでこのミットを泥から引き抜き、黒いゴミ袋に放り込んで処分するだろう。
そして、あの旧校舎の屋上で、指の皮が擦り切れ、ボールの赤い糸が塵となるまで、孤独なブルペンで何万回も幻のボールを握りしめ続けていたあの天才投手は。
二度と叶わない相棒とのラストゲームを、どうしてもこの世界に繋ぎ止めておきたかったという、血を吐くような彼の切実な祈りは。
すべて『グラウンドを汚した問題児の悪質な嫌がらせ』という安っぽいレッテルを貼られ、誰にも理解されないまま、社会の無機質なシステムによって完全に抹殺されてしまうのだ。
『実行犯の正体を名指しし、彼の聖域に土足で踏み込んで説教を垂れることなど、彼の放った時速百四十三キロのストレートに対する、最大の侮辱でしかない』
如月瑠璃という孤高の令嬢は、他者に共感しない。犯人のために涙を流してやるような、安い同情心は一切持ち合わせていない。
だが、彼女は誰よりも、対象が残した『物理的な質量』と『情念のルーツ』に対して誠実だった。
彼が作り上げた狂気的なまでの見立ての論理と、そこに込められた圧倒的なエネルギーを、寸分の狂いもなく計測し、一つの『事実』としてこの世界に肯定してみせた。
対象を可哀想だと哀れむのではなく、ただありのままの形で、彼が全存在を懸けて構築したこの祈りの彫刻を、誰にも触れさせずに永遠に放置しておくこと。
それこそが、彼女なりの、そしてこの事件に対する唯一にして最大の『理解』の示し方だったのだ。
テントの向こう側から、文化祭の準備を楽しむ生徒たちの明るい笑い声が風に乗って聞こえてきた。
彼らは何も知らない。
自分たちが踏み鳴らしているこのグラウンドが、数百メートル規模の巨大な哀しいダイヤモンドの一部であることも。そして、この分厚いキャンバス生地のすぐ裏側で、一人の天才投手の時間が永遠に止まったまま凍りついていることも。
僕は、足元の泥濘に縫い留められたミットと、その周囲に広がる深い暗闇とを交互に見つめた。
ここには、圧倒的な静けさがあった。
物理的な音がないだけではない。この場所だけが、世界から完全に切り離され、彼らバッテリーの『幻のラストゲーム』という神聖な空間として、完璧に自己完結しているような静寂だった。
僕がもし、ここで正義感を振りかざして誰かを呼べば、この静寂は永遠に失われる。
僕の凡庸な感情で、彼らの血を流すような祈りで築き上げられたこの『聖域』を、泥まみれに汚してしまっていいのか。
彼らの終わらない野球を、僕のような部外者が、身勝手なルールという名の暴力で強制終了させてしまっていいのか。
答えは、もう決まっていた。
「……僕も、あなたと同じ盤面を見ますよ、如月さん」
僕は、誰に聞こえるでもない小さな声で、そう呟いた。
助手として。いや、如月瑠璃という圧倒的な観測者の、唯一の下僕として。
僕は彼女の冷徹な美学に従い、この狂気的な質量を持つオブジェを、誰にも知られることのない都市伝説の欠片として、永遠の暗闇の中に葬り去ることを決断した。
僕は、左手でブレザーのポケットからタブレット端末を取り出した。
網膜認証でロックを解除し、光る画面を見つめる。
そこには、僕の引いた青い蛍光線の直線を軸として、南棟、北の体育館、旧校舎の屋上、そしてこの中央グラウンドを結ぶ、巨大な菱形の図面が表示されている。そして、画面の隅には、学園のネットワークからスクレイピングして割り出した、犯人であるエース投手の顔写真と名前のデータが開かれたままになっていた。
僕は、震える指先で画面に触れ、ペイントツールの『全消去』アイコンをタップした。
一瞬にして、青い蛍光色の巨大なダイヤモンドが、電子の海へと溶けて消え去る。
続けて、エース投手の個人情報が表示されたウィンドウを、躊躇うことなくスワイプして完全に閉じた。
証拠は、すべて消えた。
犯人の名前も、この場所の正確な座標も、学園全体を使った見立ての全貌も、もう二度とデジタルの光の中に引きずり出されることはない。
この秘密は、如月さんと僕という、たった二人の観測者の脳髄の中にだけファイリングしておけば、それでいいのだ。
僕はタブレットの電源を落とし、画面を真っ黒な鏡へと戻してから、再びポケットへと深く押し込んだ。
そして、右手に持っていた金属製の懐中電灯を、ゆっくりと持ち上げる。
鋭いLEDの光が、泥濘に突き刺さった三十本の竹串の先端を、最後に一度だけ白々と照らし出した。
ポケットの中心に向かって収束する、見えない白球の軌跡。
時速百四十三キロの、最高のストレート。
「……ゲームセットです。最高のボールでしたよ」
僕は、大地に縫い留められたその孤独なキャッチャーミットに向かって、深々と、敬意を込めて一礼をした。
誰にも見られることのない、誰からも賞賛されることのない、彼らだけの幻のラストゲーム。その圧倒的な熱量と哀しみに、観客として、最大の賛辞を贈るために。
カチリ。
硬質なスイッチの音と共に、僕は懐中電灯の電源を切った。
一瞬にして、世界からすべての光が奪い去られた。
圧倒的な質量を持つ夜の闇が、僕の視界を完全に塗りつぶす。
文化祭のバルーン投光器の光すら届かないこの暗黒の空間で、泥濘に縫い付けられたミットは、僕の網膜からも完全に姿を消し、再び彼らだけの永遠の沈黙の中へと深く、深く沈み込んでいった。
「……待ってください、如月さん!」
僕は、泥水に足を取られながら、暗闇の先へと遠ざかっていった彼女の気高い背中を追って、静かに、だが力強く駆け出した。
僕の背後には、彼らだけの祈りが込められた神聖な特異点が、誰にも暴かれることなく取り残されている。
僕たちは、二度と後ろを振り返ることなく、この重く冷たい泥濘の行軍を終えようとしていた。




